たぶん大丈夫
デュフォール公爵家の王都別邸へと向かう馬車の中で、マリオンは夫であるセルジュの膝を枕にして横たわっていた。
夫婦で王宮にて催された夜会に出席したのだが、途中会場に満ちた香水の匂いでマリオンの気分が悪くなってしまい、早めに退出してきたのだ。
「……マリオン。大丈夫かい?」
いたわるように声をかけられ、マリオンはのろのろと首を傾けてセルジュを見上げる。
だがすぐに喉の奥から酸味のある唾液が上がってきて、またしても重い頭をセルジュの膝に下ろし目を瞑った。
「だめみたいです……」
このところどうにも熱っぽく、体調が悪い。これまで馬車で酔うことなんて、ほとんどなかったのに。
「早めに切り上げてきてよかった。家に着いたら起こしてあげるから、寝てていいよ」
辛そうだからと、セルジュの手がきっちりと結い上げられたマリオンの髪を解いていく。
それだけで頭痛と吐き気がずいぶんと軽減される。
だが頭皮が楽になると、今度は体を締め付けるコルセットが気になりだした。
マリオンは今、デュフォール公爵夫人に相応しい、豪奢なドレスを身に纏っている。
それらは確かに美しく心躍るものだが、それ以上に締め付けられた体が辛く苦しい。
この圧迫感から一刻も早く解放されたくて仕方がなかった。
「……セルジュ様。コルセットを緩めていただけませんか?」
堪えきれずマリオンは、弱々しい声でセルジュに請うた。
するとセルジュの目が、わずかに見開かれる。
何か変なことを言ったかと、働かない頭で先ほどの自分の言葉を反芻し、マリオンの体から血の気が引いた。
これはまるで、いかがわしいことに誘っているかのような台詞ではないか。
そして夫のセルジュは、時や場所や場合を考えず発情し、躊躇なくマリオンに手を出してくるような、情け容赦ない男である。
だがとてもではないが今のマリオンに、彼の相手をしている余裕はない。
セルジュの手が、マリオンのドレスの金属フックを次々に外していく。
(ど、どうしよう……)
やがてドレスが剥がれ落ちると、今度はコルセットの紐を次々に解いていく。
かつてまどろっこしいと、セルジュがその紐を風の魔法で一気に断ち切ったことを思い出し、ずいぶんと熟れてしまったなあ、などと半ば現実逃避気味に思う。
コルセットの紐が全て緩められ、マリオンの体が一気に楽になる。
締め付けから解放された肺を大きく広げ、深い息を吐けば、むき出しになった背中をセルジュの手が優しく撫でる。
その感触に、思わずマリオンは体をぎくりと震わせてしまった。
「そんな怯えなくても大丈夫だよ。さすがにこんな辛そうな君に手を出すほど、僕は節操のない男ではないからね」
君の怯えた顔は好きだけど、と微笑まれてマリオンは若干背筋に冷たいものが走ったが、ひとまずほっと胸を撫で下ろす。
そしてセルジュの手を取ると、己の頬に当てた。
セルジュの体温はマリオンよりも低く、ひんやりとしていて心地が良いのだ。
「セルジュ様の手、気持ちいい……」
マリオンがうっとりと目を細めれば、セルジュが困ったような顔をして、頬を赤らめた。
なにやら側頭部に棒状の熱源を感じる。もちろんマリオンは気づかないふりをした。
小さな声で『後で覚えておいてね』と言われたのも、もちろん聞こえなかったことにする。
それにしても、自分がこんなふうにセルジュに甘えていることが、信じられない。
殺戮遊戯(デスゲーム)から遡り二回目の人生を歩む間、マリオンはまるで薄氷の上を、細い綱の上を、ずっと歩いているような気分だった。
殺戮遊戯の黒幕は、真性の精神病質者(サイコパス)。
まるで呼吸をするように、何気なく笑って人を殺す男。
いつマリオンを殺したって、おかしくない男。
正直言って、関わりたくないことこの上ない存在であったはずなのに。
今や彼はマリオンの最愛の夫であり、側にいると安心感すらもたらす存在に昇華した。
マリオンは時折『もしも』のことを考える。
言葉一つでも、行動一つでも、間違っていたら、きっとこの状況はなかったと。
だから今こうしているのは、きっと『奇跡』なのだろう。
「家に帰ったら、シャルロットを呼んで診てもらおうか」
セルジュの言葉に、マリオンは慌てて首を横に振った。
シャルロットは今、王宮で宮廷魔術師として働いている。
今やこの国において、治療魔術でシャルロットの右に出る者はおらず、彼女の治療を受けようとする患者たちが、常に長蛇の列をなしているという。
相変わらず平民であると侮られることもあるようだが、一方でシャルロットに命を救われた者たちも多く、彼女はエラルト神が遣わした聖女ではないかと一部の人々から崇め奉られているらしい。
つまりシャルロットは現在、死ぬほど忙しい日々を送っているのだ。
そんな彼女を、『なんとなく具合が悪いから』くらいで呼び出すことなどできない。
「君のためなら、シャルロットはすぐに全ての仕事を放り出して来ると思うけど」
その姿は容易く想像できる。きっと彼女は何にも優先してマリオンの元へ来るだろう。
「だからだめなんです……。シャルロットに無理をさせたくありません」
それでなくとも人を見捨てられない、心優しいシャルロットは過労なのだ。
「むしろ君が苦しんでいるのに何もできなかったら、シャルロットはとても悲しむはずだ」
「…………」
それはそうかもしれない。きっと彼女はなぜ教えてくれなかったのだと泣いて怒るだろう。
「それに今はささやかな体調不良かもしれないが、そこに重篤な病が隠れているかもしれないだろう?」
「…………」
それもそうかもしれない。ある日突然心臓の重要な血管が破裂した前公爵閣下のように。
「もし君に何かがあったら、僕は何をするかわからないよ」
「…………」
そしてにっこりと笑った顔が、滅茶苦茶に不穏である。
人々を大量虐殺しそうな顔だ。むしろ世界を滅ぼしかねない顔だ。
そしてセルジュの場合、それをできないと言い切れないことが何よりも怖い。
やろうと思えばできてしまうのではないか、と思わせる何かがある。
嗚呼、死ねない。絶対に死ねない。
――この世界の平和のためにも。マリオンは誓った。
なんとしても自分が、この男を最期まで看取らねばならない。責任重大である。
結局、公爵邸に着いてすぐに、セルジュはシャルロットに遣いを出した。
そしてその日のうちに血相を変えたシャルロットが、宮廷魔術師の制服のまま公爵邸に飛び込んできた。
「マリオン様ァァァァ!! ご無事ですか……!?」
おそらく遣いの者から話を聞いて、すぐに職場である王宮を飛び出してきたのだろう。
ただの体調不良だというのに、シャルロットはまるでこの世の終わりのような顔をしている。あまりにも大袈裟である。
「大丈夫よ、シャルロット。本当に大したことないの。わざわざ呼び立ててごめんなさい」
吐き気と胃痛と眠気というごく軽微な症状を説明することが、申し訳なくて辛い。
するとシャルロットはマリオンの手をぎゅっと握りしめて、うるうると目を潤ませた。
「小さな擦り傷でも遠慮なくお呼びください。私にとってマリオン様が最優先ですから」
「ええ……!? そこまで……!?」
相変わらずシャルロットはマリオンに深く心酔しているらしい。今や国で最も優れた治癒魔術師だというのに。今日も親友からの愛が重い。――でも、それが嬉しい。
「マリオン様だと控えめに申告されそうなので、セルジュ様が症状を説明してください」
「さすがはシャルロット。マリオンのことをよくわかっているね」
「…………」
あまりにもその通りで、マリオンはもう何も言えなかった。
この兄妹、マリオンへの理解が深すぎて困る。
セルジュからマリオンの病状を聞いたシャルロットは、何やら真剣な顔で考え込む。
彼女のそんな表情に、さすがのマリオンも少々不安になってきた。
なんせ自分の命には、大袈裟ではなく世界の命運がかかっているのだ。
「……マリオン様。失礼ですが最後の月のものはいつですか?」
「……え?」
そう問われて初めてマリオンは、ここ二ヶ月ほど月経がきていないことに気づく。
多忙であったこと、そして元々かなり不順だったこともあって、あまり気にしていなかったのだが。
(まさか……)
気づいてしまえば、それ以外には考えられなかった。なんせ結婚してからというもの、毎晩のようにセルジュに抱かれているのだ。しかも避妊魔法なしで。
むしろなぜそれに思い至らなかったのかと、自分自身に呆れてしまう。
シャルロットの手がマリオンの下腹に触れる。そこからじわじわと温かな魔力が流れ込んでくる。
「ああ、間違いなくご懐妊されていらっしゃいますね。マリオン様とセルジュ様の御子なだけあって、まだごく初期だというのに、うっすらと魔力を感じます」
それから泣き笑いのような顔をして、シャルロットは言った。
「おめでとうございます。マリオン様、セルジュ様」
そこでようやくマリオンもじわじわと実感が湧いてきた。そっと下腹部に手を当てる。
一生独身で過ごすつもりだった。子供を産むつもりもなかった。
だからどこか自分が子を産み育てるということに、現実味がなかった。
だがこうして自分の体に新たな命が芽生えたと知って、マリオンに湧き上がったのは、歓喜だった。
「……たぶん、そうじゃないかとは思っていたんだ」
どうやらセルジュはマリオンよりも先に、その可能性に気づいていたらしい。
「ああ、楽しみだなあ。人の赤ん坊を育てるのはさすがに初めてだ」
「…………」
だからいちいち不安になるその言い種よ、とマリオンは肩を落とす。
「……セルジュ様が人の親になってもいいかについては、大いに懸念が残りますが」
どうやら同じことをシャルロットも思ったらしい。マリオンは思わず噴き出してしまった。彼女の異母兄に対する評価はずいぶんと辛い。
「大丈夫です。マリオン様。セルジュ様はともかくとして、私がいますから」
「ははっ、シャルロットはずいぶんと言うようになったねえ」
あはは、うふふ、と微笑み合う兄妹が何やら怖い。案外この二人、よく似ている気がする。
「それにしてもマリオン様の御子の乳母になるつもりだったのに……! 今から適当な男を引っかけても間に合わない……!」
「やめなさい。絶対にやめなさい」
今日もシャルロットが元気に暴走している。
きっと彼女を聖女と崇拝する者たちが聞いたら、泣いてしまうからやめてあげてほしい。
「わざわざそんなことしなくても、シャルロットはこの子の叔母になるのよ」
「……ああ! 確かに!! そう考えるとなんだか興奮しますね……! 叔母……なんて良い響き……」
何やらうっとりとした顔の、シャルロットの鼻息が荒い。
きっと腹の子のことも可愛がってくれるに違いない。少々……いや、かなり重いその愛情で。
「大丈夫かなぁ、こんな変態な叔母で」
呆れたように肩を竦めて言うセルジュを、シャルロットがキッと睨みつける。
「むしろセルジュ様のほうが心配です! これからあなたは父親になるんですよ。まともな倫理観を持ち合わせてないくせに、本当に大丈夫なんですか?」
最近のシャルロットに、怖いものはないようだ。ずいぶんと果敢に突っ込んでいく。見ているマリオンのほうがハラハラしてしまうほどだ。
するとセルジュは、まるで花開くように笑った。
それはいつもの作り笑いとは違う、内側から滲み出るような笑顔で。
「大丈夫だよ。なんせマリオンの中で生まれ育つんだ。絶対に可愛いに決まってる」
やはりどこか妙に不安の残る言い種である。
だがその顔は真実嬉しそうで、思わずマリオンもつられて笑ってしまった。
まあ、たぶん大丈夫だろう。愛の力でなんとかなる。きっと。
和やかで幸せな雰囲気の中、マリオンは手を伸ばすと、大好きな二人を引き寄せて両腕でぎゅっと抱きしめた。