十六番目の縁談の裏側
これはまだ二人が義姉弟だった頃の話――
(やっと出て行ったか……)
アランは、シュベール家の廊下にある窓から、外を見つつそう思った。
二階にあるそこからは屋敷の正面玄関と、門扉まで続く長い一本道がよく見える。その道を一人の男が逃げるように走っていくのが見えた。
男の名前は、ルディ・ロバン。シュベール家の隣にあるロバン領の領主、ピエール・ロバンの二番目の息子であり、最愛の義姉であるルイズ・シュベールの十六番目の縁談相手だった男だ。
そして、アランが縁談を潰した十六番目の男でもある。
ルディはまるで猛獣に追い立てられるようにおびえた顔で屋敷をあとにし、馬車に乗り込んだ。そうして馬車も一目散に屋敷から去って行く。
アランはルディの馬車を見送ったあと、ぼそりと誰にも届かない言葉を吐く。
「複数の女性と関係を持っているくせに、義姉さんにまで手を出そうとするからこんなことになるんだ」
ルディは現在五人の女性と同時に関係を持っていて、その上、別々のところに子供を三人も作っていた。どの女性に会うときもルディは偽名を使い、自分が複数の女性と関係を持っているとわからないようにしていたのだが、詰めが甘いことに変装などはしておらず、写真を見せればすぐに同一人物だということの証明はできた。
アランがしたのは調べあげたそれらの証拠と一緒に、ルディにこんな手紙を送っただけだった。
『ルイズ・シュベールとの婚約をこれ以上進めるな。でなければ、お前のやっていることをすべて詳らかにする』
ルディの父親であるピエールはここら辺ではとても厳格な男として知られていた。曲がったことは大嫌いで、正義感があり、自分にも他人にも厳しい。そんな彼が息子のしていることを知れば、きっと縁を切るどころの話じゃすまないだろう。
そしてアランの予想通り、本日ルディはルイズに破談を申し込みに来たというわけだ。
(どちらにせよ明日あたり彼は袋だたきに遭っているだろうけれど)
アランはルディに手紙を送ると同時に、同じ証拠の入った封筒を、彼と関係のあった女性たちにも送りつけていた。その証拠を見て女性たちがどういう行動を取るかはわからないが、おそらくルディの思い通りに穏便に事が進むということはないだろう。
まぁ、それも己の蒔いた種というものだ。
(僕は、何がしたいんだろうな……)
アランは階段を降りながら、自嘲の混じった溜息をつく。
こんな風に邪魔者を排しても、義弟である自分がその席に座れるわけでもないのに……。 それでもアランは、ルイズが自分じゃない誰かと一緒になるのを黙って見ていることなんてできなかった。
(義姉さん、どうしているかな……)
階段を降りて、アランはルイズの姿を探す。昨日まで「今回の縁談はうまくいくかもしれないわ!」とはりきっていたので、もしかするとショックを受けているかもしれない。
そんなことを心配していると、廊下の先からルイズと彼女についている使用人の声が聞こえてきた。
「マリー伯母様は、私がいつまでも結婚しないことを心配してくださっているのよ」
「だとしても、あんな小さな領地の次男坊をあてがってくるだなんて! ルイズ様のことを何だと思っているのか!」
二人の声はだんだんと大きくなってくる。きっとこっちに向かってきているのだ。
アランは比較的元気そうなルイズの声にほっと安堵の息を漏らしながら廊下を曲がった。その時だ――
「ぶっ!」
よそ見をしていたのだろう、ルイズが思いっきりアランにぶつかってきた。
彼女は足をもつれさせ、たたらを踏む。
アランはとっさにルイズの手首をつかみ、自分の方へ引き寄せた。彼女の華奢な身体はそのままの勢いでアランの胸にぽすんっと収まってしまう。それと同時にふわりと香る甘い香り。
「――っ!」
アランは瞬間、渋面を顔に貼り付けた。そうでもしないと久々に感じたルイズの体温と香りに表情が緩んでしまいそうだったからだ。
アランはそのままの表情で、極めて冷静にルイズに問いかけた。
「……なにしてるの?」
「アラン!」
ルイズはそこでやっとアランの存在に気がついたようだった。彼女は嬉しそうな笑顔でこちらを見上げてくる。そんなルイズがあまりにもかわいくて、かわいくて、かわいすぎて――泣かせたくなる。目から大粒の涙を転がしながら、必死に自分の名を呼ぶ姿を見せてほしくなる。
(こんなだから、僕は――)
己の気持ちのままに彼女にぶつかることができない。自分で自分を彼女から遠ざけてしまう。
「ごめんなさい。助かったわ」
アランは自分の中に眠る仄暗い欲求を悟らせないように、ルイズから顔をそらした。そのとき、ルイズの手が自分の胸元の服をつかんでいることに気がついた。まるで自分のもとに引き留めようとしているかのような手に、また泣いているルイズを組み敷くおかしな妄想が頭を駆け巡った。
アランは自分を落ち着かせるように長い長い息をつく。
「アラン? あの――」
「いつまで掴んでいるつもり?」
「ごめんなさい!」
アランの指摘にルイズは慌てて手を離す。ルイズの掴んでいた場所を手で払ったのは、そこに彼女の痕跡を残しておきたくなかったからだ。残り香でもあった日には、アランの妄想の中のルイズがまたあられもない姿になってしまう。澄ましてはいるが、一応自分はこれでも二十代前半の健康的な男なのである。
アランはルイズから距離を取ったあと、彼女たちが歩いてきた廊下の方を見る。
「そう言えば、あの男、帰ったんだね」
あの男、というのは、もちろんルディのことだ。
ルイズは途端に憂鬱な顔になり「……えぇ」と頷いた。
「また振られた?」
「…………えぇ」
「そう」
きちんと追い払えている事実に、自然と口角が上がるのを止められなかった。
これでまたしばらくは、ルイズは自分のそばにいてくれる。涙を見せてくれる。
そう思ったからこその笑みだった。
(本当に僕は、義姉さんのことをどうしたいのだろう……)
そんなことを考えているときだった、不意にアランはルイズの頬に涙の跡があることに気がついた。今朝はあんなものなかったはずだから、泣いたのはきっとルディが帰ったあとだ。
(そんなに、アイツとの縁談がなくなったことがショックだったのか?)
瞬間、どうしようもないほどに苛烈な感情が腹の奥底からわき上がってくる。
アランはルイズの頬にある涙の跡を親指でなぞる。
「もしかして、泣いたの? ……あんなやつのために?」
「え? それは――」
「そんなに、あの男のこと好きだったの?」
「ち、違うわ! 好きとかはまったくなくて! ただ、ちょっと悔しかっただけ! だって理由がわからないし!」
「……そう」
ルイズの必死な言葉に、アランはほっと息をつく。
ひとまずはルイズがルディの事を好きでなくて安心した。けれど、悔しくて泣いたということは、やっぱりあの涙はルディのために流されたもので……
そこまで考えが及び、アランはルイズの手にあるハンカチを奪い、彼女の目元に押し当てた。もう涙そのものは流れていなかったけれど、涙の筋でさえも彼女に残しておきたくなくて。
(僕は、独占欲が強いな……)
アランは涙の跡を拭きながらそんな風に思う。
自分の独占欲が強いのは前々からわかっていたことだけれど、こうやってルイズを目の前にすると、それをまざまざと思い知らされてしまう。
(義姉さんが結婚したら、僕はどうなるんだろう……)
もしかしたら、狂ってしまうのかもしれないなと思う。どうにもできない関係と伝えることができない想いに板挟みになって、そのままおかしくなってしまうのかもしれない。
だって知っている。いつまでもこのままではいられない。この姉弟ごっこには終わりがある。
でも、そうなるのはまだ先だ。
(だから――)
「あんまり他の人の前で泣かないでくれる? 目障りだから」
アランは微笑みながら、ルイズを遠ざける言葉を吐いた。