ソーニャ文庫

歪んだ愛は美しい。

会員限定特典小説

最愛の妻の隠し事

 ――妻の様子がおかしい。
 執務机の上に積み上がった書類を高速で検めながら、クライヴは脳の裏側でそんなことを思った。
 王太子になり王城に戻ってからというもの、クライヴは目が回るほど忙しい日々を送っていた。継母と兄が起こした事件の後始末や、権力闘争が収束した結果、バランスを崩し混乱に陥った政界に再び秩序を取り戻すために諸々の根回しをしなくてはならず、脳をフル回転し続け、慎重かつ素早い決断をし、それを即実行する、というタスクを毎日何十と捌かなくてはならない。加えて王太子に課せられる山のような公務も同時にこなさねばならず、まさに馬車馬のように働かされているのである。
 騎士団長として軍職にあった時よりも遥かに忙しい。比喩表現ではなく、寝る暇もないほどである。
 王太子になると分かった時点でこうなることはある程度予想していたものの、ここまでハードとは思わなかった。異教徒討伐のために何ヶ月も遠征をしてきた軍人であるクライヴが、「どこか遠くへ行きたい……」と現実逃避する瞬間があるくらいだ。平民としてのんびりと暮らしてきた妻のアイリーンにとっては、王太子妃としての生活はさぞかし窮屈でハードだろうと心配したクライヴだったが、予想に反してアイリーンは大変活き活きとしている。
 元平民であるせいで、王族としての振る舞いはおろか、貴族としてのそれも少々危うい彼女だったが、持ち前の明るさと前向きな思考で王太子妃教育もなんなくこなしているらしい。
彼女には失敗してもめげずに喰らいつくガッツがあるそうで、そのガッツに皆、応援したくなる気持ちが芽生えてしまうのだとか。
「妃殿下は、人を魅了する力がおありです」とは、彼女の教育係であるミュラー伯爵夫人の言葉だ。
 夫人は大変厳しいと評判の女官なのだが、その彼女からそんな言葉を引き出すとは、さすがはアイリーンである。自分の愛妻を褒め称えたい気分になったものだ。
(まあ、アイリーンはあの気難しいマーカスですら攻略してしまったのだから、当然と言えば当然だ。彼女の魅力に落ちない者などいないのだ)
 クライヴを幼少期から支えてくれている執事のマーカスは、政敵の娘であるアイリーンをあからさまに警戒していたのだが、彼女の明るく屈託のない笑顔と、何事にもひたむきに取り組む健気さにあっさりと陥落した。今ではアイリーンの信奉者の一人と言っても過言ではない。
 アイリーンは敵をも自分の味方に変えてしまう人なのだ。
 クライヴはそんな彼女を誇りに思うし、彼女を妻にできた己の幸運を毎日のように実感している。
――が、その尊敬する最愛の妻の様子が、ここ一週間ほどおかしいのである。
お互いに多忙な毎日を送っているため、一緒に過ごすことができるのは就寝時くらいになってしまっているが、妻を愛してやまないクライヴには、それが唯一自分に許された癒しだ。
 アイリーンを抱き締めながらベッドに横たわり、その日あったことを報告し合い、他愛ないことで笑い合う。クライヴにとっては、なくてはならない大切な時間である。
夫婦水入らずのこの時間、アイリーンはいつだってこちらを気遣ってくれて、疲れが取れるようにとハーブティを調合してくれたり、穏やかな眠りをとラベンダーのサシェを作ってくれたりする。妻の労りに感謝しつつ、自分もまた彼女にできることを返しているつもりだが、アイリーンからもらう優しさの方が多い気がしてしまう。妻を愛おしいと思う気持ちが昂り、つい抱き締めて眠る以外のことへ発展してしまうこともしばしばあるが……。
 ――話を戻そう。
そんな優しく健気で可愛いアイリーンなのだが、ここ一週間ほど妙なのである。
そわそわと落ち着かず、かと思えばどこか上の空で、クライヴとの会話にトンチンカンな返答をしたりする。自室で何かをしているのか、夫婦の寝室に来るのが非常に遅い時間であったこともある。
一緒にいるにもかかわらず、彼女の意識が自分以外に向いているのは明らかだ。
そんなことは、出会ってから一度もなかった。アイリーンは、まだ自分たちが形だけの夫婦でしかなかった時から、クライヴへの好意と尊敬をはっきりと(時に珍妙に思えるほどに)示してくれていたし、それが他へ逸れたこともなかった。それこそ信心深い修道女が神を崇めるかのように、まっすぐにクライヴだけを見てくれていたのだ。こうして言ってしまえば、『自惚れも大概にしろ、このナルシストが』とか『惚気か、爆ぜろ』とか罵倒されるかもしれないが、実際にそうとしか表現できないレベルで、彼女は自分に心酔してくれていたのだから仕方ない。
その彼女が、自分以外のものに気を取られている……!
衝撃を受けたクライヴは、何かあったのかと訊ねてみたが、彼女は曖昧にごまかすばかりで答えてはくれなかった。
(どういうことだ? 俺には言えないような何かがあったのか?)
 互いの気持ちや事情を明かさなかったことで、大きなすれ違いを起こしたという苦い経験から、クライヴは彼女に「何事も報連相が大切だ。どんな困難も、二人でならば乗り越えられる」と言ってきたし、アイリーンもそれに同意してくれた。だからアイリーンが不安や不満を抱えているならば、それを相談してくれるはずなのだ。
 夫婦の間の大切な約束を破るほどの何かが、彼女に起きているのだろうか。
(……アイリーンのことだ。俺に心配させまいと、自分一人で解決しようとしているのかもしれない)
 過去の経験から、彼女の行動力がスバ抜けていることは分かっている。
普通の人間なら、やらないどころか可能だとすら思わないようなことでもやってのける――それがアイリーンという人なのだ。
(だがそれには危険も伴なう)
 実際にアイリーンは幾度かその行動力のせいで死にかけている。川で溺れたり、他者の巻き添えで罪を被って処刑されかけたりと、クライヴは何度心臓が止まりかけたか分からない。
(今回もまたとんでもない事態になっているのではないだろうな……⁉︎)
 不安を煽られたクライヴは、今日一日彼女に護衛という名の見張りをつけておいた。彼女が予定にない行動を取ったら知らせるように言いつけてある。
(何事もなければいいのだが……)
 そう願いつつも、やはり心配は消えない。仕事をこなしながらも、ソワソワしてしまう自分にため息をついていると、執務室のドアがノックされた。入室の許可を出すと、入ってきたのはアイリーンにつけた護衛の一人だった。
「アイリーンに何かあったのか⁉︎」
 血相を変えて問えば、護衛は言いにくそうに口を開いた。
「王太子殿下にご報告申し上げます。実は――」

    ***

 王都の城下町は今日も賑わいを見せている。
 辺境の街で生まれ育ったアイリーンにとって、市場が立つ日でもないのにこれほどの人が集まるなんて、と最初は驚いたが、今はもう慣れてしまった。
 なにしろ、こうして城下町を訪れるのは、今回で五度目なのだから。
 ただの平民の娘だった時とは違い、王太子妃となったアイリーンが呑気に城下町を散策できるわけもなく、全てお忍びであり、格好ももちろん町娘のそれだ。
(平民だった時の服を少し残しておいて良かった……!)
 ただの貧乏性というか、勿体ない根性からひっそりと捨てずにおいた物だったが、こんなふうに役に立つとは思ってもいなかった。お忍びで出歩くにはピッタリの衣装である。
 元が平民なのでこうして町に紛れ込んでも何の違和感もないのがありたがい。これまでの四回も、アイリーンを王太子妃だと気づく者は誰もいなかった。王太子妃の公式のお披露目前というのも理由の一つだろう。
(街に入ってしまえば問題ないのよ。一番大変なのは、王城から誰にも気づかれずに出ることなのよね……)
さすがに王城では顔が知られてしまっているため、こっそり抜け出すのはなかなか骨が折れる。今日もお付きの女官の目を盗んで出てくるのが大変だった。
(公務の合間の時間に“ちょっと疲れたのでお昼寝をさせて”と言って時間を稼いでいるけれど、長くなれば絶対に起こしに来ちゃうわよね。早く済ませて帰らなくちゃ……!)
 ベッドにはクッションを何個も入れて自分の身代わりにしておいたが、掛布を捲られればすぐにバレてしまうだろう。お忍びで外に出たことがバレれば、女官長であるミュラー伯爵夫人の大目玉は必至である。美しい女官長は大変頼りになる人だが、怒らせると非常に怖い。想像するだけで涙が出そうだ。
 そんなに怖いならば、お忍びで外出などしなければいいと言われそうだが、そうもいかない。
 アイリーンには重大な使命があるのだから。
(落ち着いて。大丈夫、今日こそやり遂げられるわ、私……! 自分を信じて……!)
早鐘を打つ胸を片手でそっと押さえながら、ごくりと唾を呑むと、アイリーンはキッと顔を上げて目的の店を見た。大変盛況を博しているようで、店内に人が入り切れず、外にまで人集りができている。
(くっ……! やはりもうこんなに人が……!)
 人が少ない方が好都合なのだが、そうそう思い通りにいかないのが世の常だ。
(だ、大丈夫、人が多くても問題ないわ。私ならできる。もう五度目の挑戦だもの。今度こそ……!)
 グッとお腹に力を込めると、アイリーンは決戦の地へと足を踏み出した。
 ――その瞬間。
「アイリーン」
 低く艶やかな声に名前を呼ばれ、ギョッとなって振り返る。
 なんと自分のすぐ後ろに、シャツにトラウザーズだけという軽装のクライヴが立っていた。
「ヒィッ! ク、クライヴ様⁉︎ ど、どうしてこんな場所に⁉︎」
 今日彼は外出の予定はなかったはずだ。王城で公務に勤しんでいるはずの夫が、なぜこんな場所にいるのだろうか。
(……そんなことより、目立ちすぎです、クライヴ様ッ!)
 元騎士団長だった彼は屈強で大柄な体躯をしている。それだけでも目立つのに、その容貌が神がかり的に美しいときている。おそらく装飾のついた上着を脱いで目立たないように配慮したのだろうが、シンプルな服装であっても明らかにやんごとなき身分のお方だと分かるオーラが滲み出ているので、無駄な足掻きでしかない。
現にそのオーラに引き寄せられて、周囲には人がワラワラと集まり始めている。
 だがクライヴはそれに気づいていないようで、真剣な表情で口を開く。
「それはこちらのセリフだ。君こそどうしてこんな場所へ? そんな変装までして……。また何か危険なことに首を突っ込んでいるのではないだろうな?」
「き、危険? そんな、危険なんてありません!」
 ブンブンと首を横に振ったが、クライヴはその美しい目を眇めるだけで信じてくれなかった。
「どうかな。君の危険じゃないは信用できない。ここで何をしようとしているのか、洗いざらい吐いてもらうまで離さないぞ」
 ガッシと逞しい手で腕を掴まれ、アイリーンは焦ってしまった。
 まずい。よりによってこんな場面をクライヴに見つかるとは。
「そ、そんな……洗いざらいだなんて、吐くようなことなど何も……」
 なんとか誤魔化せないかとゴニョゴニョと呟いてみるが、夫は厳しい顔付きを和らげてはくれない。
「王城をこっそりと抜け出して、そんな変装までしているのに、何も隠していないというのは無理がないか?」
 ごもっともである。
怪しさ満点。絶対に何か隠しているに決まっている、と自分でも思うだろう。
「あの、クライヴ様に心配していただくようなことは何もないのです。私はただ……」
 なんとかこの場を収めようとしていると、人集りになりつつある周囲の人々から「おい、アレは王太子様じゃないのか?」という声が聞こえてきた。それを皮切りに、「やっぱりか?」「王太子様だ!」「えっ、ほんとうに⁉︎」などと続き、周囲が一気にざわめき立っていく。
(ま、まずい……! こんな場所でクライヴ様の正体がバレたら……!)
 彼は国の英雄で、民から絶大な人気を誇る王太子だ。自らの体を張って外敵から国を守っただけでも尊敬や憧れの対象となる上、クライヴは頻繁に民の生活の場に赴き、民の声に耳を傾ける王族としても有名だ。彼は施薬院や孤児院といった施設を、私財を投じて新たに増やした。そのおかげで、先の流行病で家族を失った者や、行き場を失った者たちが、王太子の名の下に作られた孤児院や施薬院で保護され、職をもらって生活を立て直すことができた。
建前や形だけでなく、民のために実行できる王太子として、クライヴの信奉者は増え続けているのだ。
そんなわけで、クライヴの人気ぶりといえば凄まじいものがある。
 王族の姿絵は王都の人気の土産物だが、特にクライヴのものは飛ぶような勢いで売れる。人気の絵師のものになると、発売した日に即完売するほどなのである。
(クライヴ様が人気なのは当然で宇宙の真理だけれど、そのせいでっ……!)
 自他ともに認めるクライヴ信奉者であるアイリーンにとって、彼の人気が高まれば高まるほど困ったこともある。人気が高ければ高いほど、需要というものは高まるのだ。
 アイリーンはクライヴを夫として愛しているが、それ以前に敬愛している。昔、暴漢たちに家を襲撃され殺されかけたアイリーンと母を、旋風のように現れたクライヴが救ってくれたことがあった。神業のような剣技であっという間に暴漢たちを倒したクライヴは、神々しいまでに美しく、まさに救世主そのものだった。そして自己を犠牲にしてでも民の安寧を図るクライヴの高邁さは、畏敬の念を覚えずにはいられない。アイリーンにとってクライヴは、夫である以前に、救世主であり、神のような存在なのである。
 だからアイリーンは、彼の妻となった現在でもクライヴを心の底から崇拝している。クライヴが嫌がるのでしないが、本当はずっと拝み奉っていたいほどなのだ。
(……っ、だから、どうしても、私はアレを手に入れたいのです!)
 アイリーンはグッと下唇を噛むと、キッとクライヴの顔を見る。
「クライヴ様、ごめんなさい……! 私はどうしても行かなければならないのですッ……!」
 言うや否や、クライヴの腕を振り解いて脱兎の如く走り出した。
「あっ、待て、アイリーン!」
 クライヴが慌てたように叫んだが、アイリーンは振り返らない。
 人にはやらねばならない時がある。まさにそれが今なのだ!
 アイリーンは全速力で目的の場所へ駆けると、先ほどまで長蛇の列をなしていたその店は、ちょうど最後の一人が店から出てくるところだった。
(嘘! もう売り切れた……⁉︎ いえ、大丈夫よ! だってあれは抽選だもの! 人気すぎて、クジも一人一枚しか買えないようになってしまったし、まだ当たりが残っている可能性はあるはず……!)
 心の中で自分を励ましながら、店の中に駆け込むと、店主に向かって叫んだ。
「あっ、あのっ! 王太子殿下の姿絵のクジは、まだ引けますかッ⁉︎ クライヴ殿下のものです!」

    ***

 城下町からの帰り道、馬車の中で、うっとりと小さな姿絵に見惚れる妻の姿に、クライヴは複雑な心境になった。
 ここ数日、アイリーンがずっと挙動不審であったのは、城下町の絵師が描くこの姿絵を買うためだったことが分かったのだが、クライヴは正直、ホッとしていいのか怒っていいのか分からない。
(妙な事件に巻き込まれたのでなかったのは良かったが……、こんな土産物を買うために、一人で城下町に繰り出すなど、危険だし皆に心配もかける……)
 そこを怒った方がいいと分かっているが、元々平民である彼女を、王太子妃などという窮屈な立場に据えたのは自分である。自由闊達な彼女を狭い檻の中に入れてしまったという自責の念があるクライヴには、それを厳しく怒ることはなかなか難しい。なんと注意するべきだろうかと思案しつつ、クライヴはゴホンと咳払いをする。
「アイリーン。窮屈な生活に飽く気持ちは分かる。だがやはり君はもう王族の一人なのだ。独り歩きをするのは危険だから、そういう時は俺に一言言ってくれれば……」
「えっ、窮屈だなんて思っておりません! 私はクライヴ様のお傍であれば、どんな所でも天国だと思っておりますもの!」
 予想外かつ嬉しいことを言われて、クライヴは一瞬言葉を忘れ、無言で彼女を抱きしめようとしてしまったが、「いかん、今はそういう場面ではない」と慌てて腕を下ろした。
「あー、いや、その……窮屈に感じて気分転換をしに行ったのでなければ、なぜ城下町に……?」
 彼女は城下町で、今手にしているクライヴの姿絵を買っただけだった。どう考えても、お忍びで行って買わなくてはいけないほど急を要した買い物ではない。だからてっきり気分転換をしたかったのだとばかり思ったのだが、アイリーンはキョトンとした顔になった。
「え? この姿絵を買いに行ったのですが?」
 当たり前だろうが、と言わんばかりに言われて、クライヴは大いに困惑する。
「え? これを? わざわざ? ただの土産物だろう?」
 するとアイリーンは心外そうに唇を尖らせた。
「もちろんです! ただの土産物ではなく、これは人気絵師シャルダン・ソージェの描いた、〝民衆を導く王太子クライヴ〟なのです!」
 ビシッと小さな姿絵を向けられながら言われたが、どう見てもよくある土産物の姿絵である。
「……肖像画ならば、城にも山ほど飾ってあるだろう?」
「肖像画と姿絵はまた違うのです! それに、シャルダンの描くものは、クライヴ様の高潔さやお優しさが見事に表現されていて、私の解釈と一致するのです! 見てください、この表情を! まるで天使のように涼やかで凛々しく、クライヴ様そのものだと思いませんか⁉︎」
 力説されたが、全く理解できない。そもそも自分の描かれた姿絵なんぞ、じっくり見たい物ではない。
「……あー、つまり君は、その姿絵を買うために、わざわざお忍びで城を抜け出していたのか……?」
「うっ、抜け出したのは、申し訳ないと思っております。でも、シャルダンの姿絵はものすごい人気で、特にクライヴ様のものは発売して即完売するほどなんです! あまりの人気ぶりに、店主がくじ引き制にして売るほどで! 私は過去四回くじを引きましたが、全敗しておりまして……、今度こそはと思っていたのです……! だって、だって、見てください、この美しいクライヴ様を! こんなにクライヴ様の美しい微笑みを完璧に描いている姿絵は、他にないと思いませんか⁉︎」
 バツが悪そうにしながらも、一生懸命言い訳をするアイリーンに、クライヴはしょっぱい顔になってしまう。
「……アイリーン。君の目の前にいるのは、本物の〝クライヴ様〟なのだが……」
「はい? そうですね?」
 何を言われているか分からない、という顔で返事をされ、クライヴはため息をついた。
「……自分の姿絵に嫉妬しなくてはならない日が来るとはな……」
「……えっ?」
「夫婦の在り方について、少し話し合う必要がありそうだな、アイリーン」
 にっこりと微笑んで言うと、アイリーンはようやく「しまった」という表情になって目を泳がせ始める。
「あ、あの……クライヴ様……、お、怒っていらっしゃいます……?」
「怒ってなどいないさ。ただ、最近はお互いに忙しく、一緒に過ごす時間は眠る時くらいだっただろう? 一緒にいられる貴重な時間に、最愛の妻が他の物に気を取られているのは、少々物悲しいなと思ってね」
「あ、そ、そんな、気を取られてなど……」
「では、その土産物などから手を離して、俺に集中してくれるかな?」
 クライヴはアイリーンの手から姿絵をヒョイと取り上げると、向かいの座席に座っていた彼女の腰を掴んで自分の膝の上に抱き上げた。
「きゃあっ、クライヴ様……!」
「しぃっ、大声を出すと、御者に聞こえてしまうよ」
「聞こえて……って、何をするおつもりで……んぅっ!」
 焦って喚こうとするアイリーンの唇を自分の唇で塞いでやると、案の定彼女はすぐに大人しくなった。
(――今日の予定は、全てキャンセルさせなくてはな)
 愛妻の甘い唇を堪能しながら、クライヴはそんなことを考える。
 明日からの予定が少々タイトになってしまうだろうが、致し方ない。
 王族といえど、夫婦の時間はしっかりと確保しなくてはいけないものだ。
(それに、今日たっぷりと英気を養わせてもらえそうだからな……)
 自分の腕の中で、もうすでにくったりと身を預けてしまっているアイリーンを抱き締めながら、クライヴはほくそ笑んだのだった。
 

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