俺の姫様
(あっ、やっぱりだめかもしれない……)
リーゼロッテは、美しい細工が施されたグラスに一口くちを付けたとき、はっきりと自覚した。
とろりとした貴腐ワイン。帝国が最も愛する糖度の高いワインは、リーゼロッテの細い喉を通り、胃に落ち、鼻から息を吸うだけで、じわりと全身に甘いしびれを広げる。
「リーゼロッテ様、我が領地のワインはいかがですか?」
隣に座っているのは、この貴腐ワインの産地を領地にしている公爵夫人だ。
どこか緊張したように、リーゼロッテの顔を見つめている。
今日は彼女主催の晩餐会で、皇妃たるリーゼロッテは主賓でもあった。
お酒が苦手だから、ここで終わらせてほしいなんて言えるはずがない。
「とっても美味しい。ほっぺたが落ちてしまいそうよ」
リーゼロッテがニコニコと微笑みながらうなずくと、公爵夫人はパッと顔を明るくして、背後に立っている侍従を肩越しに振り返る。
「皇妃様にとっておきの富貴ワインをお持ちしてちょうだい」
その言葉を聞いて冷や汗が噴き出る。
(ああ、やっぱりルカの言うことを聞いておけばよかった……かも)
淡く輝く指先でそうっとこめかみの汗をぬぐったリーゼロッテは、昨晩の夫とのやりとりを思い出していた――。
*****
「どうしても、行かれるのですか」
ソファーでリーゼロッテの爪を磨いていたルカが、低い声でささやく。
その声色に【行かないで欲しい】という懇願の色がのっているのを、リーゼロッテは気が付いていたが、あえて気が付かないふりをした。
「――行った方が、いいと思うの」
絞り出した声は若干震えていたが、気丈にふるまうことによってなんとかぎりぎり誤魔化せたようだ。
ルカは凛々しい眉尻をほんの少しだけ下げて、爪やすりの手を止めて食い入るようにリーゼロッテの顔を見つめてくる。
「ひとりでも?」
【ひとりではなにもできないのに?】と言いたいのだろう。
確かにリーゼロッテは、いつも夫であるルカに頼っているし、甘えている。
彼と出会ってからの二年、そして再会してからもずっと、ルカに支えられているからこそ、今の自分がある。
だが、だからこそ、ひとりで頑張らねばと思っているのだ。
(まぁ、そんなことを口に出したら、余計な心配をかけるだけだから、言わないけれど……)
身の丈に合わない自覚はある。
だがそうありたいと振舞ううちに、きっとなりたい自分に近づけるはずだとも思っている。
リーゼロッテはそんなことを考えながら、しっかりと夫の目を見てうなずいた。
「ひとりでも、よ」
「社交は苦手でしょう。貴族らしいおしゃべりがあなたにできますか?」
「うっ……」
容赦ない夫の発言がぐさりと胸に突き刺さる。
公爵夫人主催の晩さん会に、皇帝は招待されていない。
招待状はリーゼロッテだけが受け取ったものだ。
ルカと結婚して三か月がたつ。国を挙げて行われた結婚式は、帝国の明るいニュースとしてそれなりの効果をもたらした。だがいつまでもそんなふわふわしたお祝いムードだけで、この広大な帝国が維持されるはずがない。
アグネスの手によって、とりあえずそれなりに見えるようにはなかったが、元皇女で現聖女という複雑なリーゼロッテの立場は、この先の未来でどう転ぶかわからないのである。
地道に有力貴族との関係を築き、足元をすくわれないように努力するのが、遠回りに見えて一番の近道なのだ。
「苦手だけれど、だからって一生避けて生きることは無理でしょう。私には私の責任があるわけだし」
ルカは隙あらばリーゼロッテを苦労から遠ざけようとする。
皇后教育を担当していたアグネスも呆れるくらい、甘やかされていると思う。
このままではよくないとこれまで何度も指摘してきたが、そういう時に限ってルカは、すうっと目を逸らして遠い目をするので、まったく言うことを聞く気がないのは手に取るようにわかる。
(ルカは、私のためなら何でもするって言うけど、頑固だし、自分の感情が第一なのよね……)
だがリーゼロッテとしては、それで問題ないと思っている。
リーゼロッテの幸せはルカの笑顔を見られることだから。
「――そうですか」
そうですかと言いながらも、ルカはなにか言いたげにすいっと目を逸らし、それから美しく磨き上げたリーゼロッテの指先に向かって、ふう、と息を吹きかける。
その吐息がくすぐったくて、ほんのり頬に熱が集まった。
その些細な妻の変化を見て、
「リズ」
ルカが名前を呼び、それから指先にちゅっとキスをする。
「なぁに?」
「やっぱりやめておいた方がいいんじゃないでしょうか」
「何度言われても無理よ」
「それでも……あなたは危なっかしいから。心配で」
夫のため息に、リーゼロッテはカーッと頭に血が上った。
「ひどいっ」
皇妃になった以上、彼の足を引っ張らないように頑張りたいだけなのに、ポンコツ扱いされるのは納得いかない。
「晩さん会は絶対に行きます。心配しないで。私ちゃんと頑張れるから」
「俺はリズを頑張らせたくないんですが……」
そしてルカは、軽くため息をついた後、リーゼロッテの身体を正面から抱き寄せる。
「わかりました。もういい時間なので、ベッドに行きましょう」
急に話を中断されて、若干苛立ちを覚えたが仕方ない。
リーゼロッテだってルカとは仲良くしたいしケンカだってあまりしたくないのだから。
「ベッド……?」
「ええ。あなたのために俺が整えた、ベッドですよ」
どうやら巣作りは万全のようだ。
「行きたいでしょう?」
甘やかな声で誘惑しながら、ルカはリーゼロッテのこめかみに口づける。
ちゅっ、ちゅっと顔じゅうに口づけるルカの唇は、しっとりと濡れていた。
このまま寝かせてくれるのか、それとも抱き合うのか。
一瞬考えたが、いつにもまして丁寧に爪を磨かれた夜だ。
同じくルカの爪も美しく整えられているので、きっとそういうことだろう。
吐息交じりの彼の声に、リーゼロッテは小さくうなずく。
「優しくしてね」
この夫、普段はリーゼロッテにべた甘で甘やかしてばかりなのに、ベッドではわりとめちゃくちゃなのだ。もちろんひどいことなどされたことはないが、結婚してからは泣かされてばかりいる。
「――善処します」
ルカは真面目な顔をしてうなずき、ひょいとリーゼロッテを抱き上げると寝室へと向かったのだった。
*****
そう、昨晩はそういった流れで、わりと強気にルカの言い分を却下したのだ。
(とはいえ、今さら飲めないなんてとてもいえない……)
リーゼロッテはそんなことを考えながら、すすめられるがままグラスを開ける。
(でも、絶対に醜態はさらさないわ……私は皇妃なんですから……!!!! ちゃんと、きちんと、ルカの妻としてふるまって見せるわ……!!!!)
それから数時間後――。
テーブルの上で、公爵夫人や伯爵令嬢と手を繋いで踊っている妻を見たルカは、とても目の前で繰り広げられている騒ぎが現実とは思えず、二度見どころか三度見をした。
厳かな貴族の晩さん会のはずが、なぜか下町の酒場のどんちゃん騒ぎになっている。
大臣も貴族も、若い娘も老獪な公爵夫人も、なぜか手に手を取って歌ったり足を踏み鳴らし、ステップを踏んでいるのだった。
(なんだこれは……)
予定の時間を過ぎても戻ってこない妻が気になって、公爵邸にやってきたのだが、フロアにいる人間は誰も、ルカの登場に気が付いてすらいない。
「あれは……? なぜあんな愉快なことになっている?」
ルカが公爵家の家令に尋ねると、彼は困ったように唇を引き結びながら、
「社交デビューしたばかりの伯爵令嬢がテーブルにワインをこぼしまして……粗相を恥じて泣き出されたのを見た皇妃様が、いきなり立ち上がり『ワインをこぼすなんて大したことじゃない』『私はいつもぼんやりしているからなんでもこぼすし、いつもルカに呆れられている!』と大声で宣言なさって……」
「なるほど。そこから全員が悪ノリした結果、こうなったわけだな?」
伯爵令嬢に恥をかかせまいという心遣いがことの発端とはいえ、こんなことになるだろうか。
(リーゼロッテなら、なるかもしれないな)
彼女は優しく、柔らかく、あたたかい心の持ち主だ。裏も表もない、彼女の心根は猜疑心の塊の自分ではとうてい起こしようのない奇跡を起こす。
それはたとえ小さな一歩でも、きっと彼女の未来を明るく照らすだろう。
(だから俺は、あの人にいつまで立ってもかなわないんだ……)
ルカはふっと唇をほころばせながら、やんやと手を鳴らし足を踏み鳴らして踊っている人々をかきわけ、部屋の中央に寄せられたテーブルの上に向かって手を伸ばす。
「俺が誰だかわかりますか?」
頬を真っ赤にして、子供のように踊っていたリーゼロッテは、夫であるルカの顔を見て、またぱーっと笑顔になる。
「ルカ!」
「はい。あなたのルカですよ。俺の姫様」
つられたように微笑むと、リーゼロッテがルカの大きな手を撫で、それから手首をつかむ。
「一緒に踊りましょう!」
彼女の故郷であるフィドラーの祭りを思い出す。
ただ手を取り合って、音楽に合わせて体をゆすり、大騒ぎしたあの夜のことを。
帝都ではもう二度と見られない顔だと思っていたが、そうではないかもしれない。
ただきっと明日は、二日酔いでベッドからは起きられないだろう。
「ああ、あなたは最高だ!」
テーブルの上にあげられたルカは大きな口を開けて笑い、愛する妻の頬に唇を押し付けたのだった。