二輪の薔薇
アレクシスと結婚して一年が経過し、夫婦生活にも慣れてきた頃だった。
二度目の挙式の日取りを結婚記念日として祝うことになり、ミーリアは愛情深い夫にたまにはお返しをしたいと思って切り出した。
「ねぇ、アレクシス。何か欲しいものはある?」
日当たりのいいリビングのカウチで、ミーリアをしっかりと膝に抱きかかえ、分厚い魔導書を読んでいたアレクシスが「ない」と即答する。
「もう少し考えてみて。何かあるでしょう」
ミーリアはゲルガーの教師となってから、相応の給金をもらうようになった。
最近はゴルド文字だけでなく、異母姉の侍女をしていた頃に身につけたマナーや祖国ルドラドの慣例についても教えている。
お蔭で毎日は充実していて、自由に扱えるお金も貯まってきたから、よほど高価なものでなければ手に入るだろう。
アレクシスは少し考えるそぶりをしたが、あっさりと答えた。
「思いつかないな」
「たとえば、食べたいものとか」
「ミーリアの剥いたリンゴ」
「それはいつでも食べられるじゃない」
「じゃあ、ミーリアの手料理」
夫は魔導書のページを捲って真顔で応じた。妻の手で生み出されるもの以外にはまったく興味がないと言いたげな態度である。
それはそれで嬉しいけれど、贈り物の参考にはならないのでミーリアは口をちょこんと尖らせた。
「手料理も、いつでも食べられるものなんだけど……とりあえず当日は何か作るわね。ただ、特別感がないのよね。食べ物以外に何かないの? なかなか手に入らなくて困っていたものとか……」
その時、アレクシスの動きがぴたりと止まる。
魔導書から目線を外した彼が膝に座っているミーリアを見下ろし、黄金色の双眸をゆっくりと瞬かせてから、ボソリと言った。
「一つ、あった」
「何?」
「ミーリア」
「うん。教えて?」
「だから、ミーリア」
「…………あっ、わたしってこと?」
ただ名前を呼ばれただけだと思って返事をしたのに、どうやらアレクシスは「ミーリア」が欲しいと言っているらしい。
面食らっていたら、彼が魔導書をパタンと閉じた。長い指でおもむろに額を押さえて憂いを帯びたため息をつき、わざとらしく流し目を送ってくる。
「私は長いこと、君が欲しかったんだ。なかなか手に入らなくて困っていた」
ここまで一定のトーンだった声色にほのかな甘さが加わった。
アレクシスが読みかけの魔導書をテーブルに置くと、背筋をピンと伸ばすミーリアの肩を抱き寄せ、優しく額に口づけていく。
甘えるようにすりすりと頬ずりまでされたから、ミーリアは顔を赤らめつつも夫の首に腕を巻きつけた。
「わたしたち、もう夫婦でしょう。手に入れているじゃない」
「手に入れたはずなのに、まだ足りない。今のままでは満足できていないんだ」
夜の営みをほのめかす手つきで腰を撫でられる。
涼やかな夫の眼差しには熱が宿り、ほのぼのとした空気が妖しい色香を含んだものへと一変して、思わず雰囲気に流されそうになったが――ちょっと待てと、ミーリアは我を取り戻した。
――満足できていない、って言った?
それは、つまり妻として彼を満たしてあげられていないということだろうか。
由々しき事態だと、元来まじめなミーリアは胸中でぼやき、キスをしようと顔を傾けたアレクシスの頬を両手で挟む。
切れ長の目をぱちくりさせる彼の顔を覗きこんで真剣に告げた。
「アレクシス。わたしとの夫婦生活に満足できていないの?」
「あ、いや……」
「具体的には、どこが?」
「具体的に……」
アレクシスが珍しく目線を泳がせ、歯切れの悪い口調で言い淀む。
ミーリアはまじめな顔を崩さずに声をひそめた。
「もしかして、だけど……夜のこと、とか?」
「夜のこと?」
「わたしなりに、ノルディス家の妻として努めてきたつもりよ。でも、夜は……いつも足りないって言っているでしょう」
思いがけない指摘だったのか、アレクシスが双眸を見開いて口を噤んだ。
「もしかしたら、わたしではアレクシスを満足させてあげられていないのかもって、実は前からちょっと気にかかっていて……」
「…………」
「いつも、途中で気を失ってしまうし……物足りないのなら、申し訳ないなと思って……もっと体力をつけるべきか、本気で悩んだこともあるのよ」
「…………」
「あれ、もしかして違った? 的外れなこと言ってる?」
自分からこんな話を切り出すのは初めてだから、顔から火を噴きそうなほど赤面し、あたふたと慌て始めると、黙って聞いていたアレクシスが先ほどよりも大きなため息をついた。長い両腕でミーリアを囲いこみ、やれやれとかぶりを振る。
「君ときたら、そんなかわいい悩みを抱えていたのか」
「アレクシス。わたしは真剣に訊いたのよ」
「ますますかわいい。……あ、リンゴみたいだ」
「顔が赤いって言いたいんでしょ。言わなくても分かってるわ」
「かわいい」
「かわいいって連呼しないで」
妙にご満悦なアレクシスに抱きしめられて、ミーリアは拗ねたように唇を窄めた。
「……それで、実際どうなの?」
「夜のことなら満足している。ミーリアが一生懸命、私に応えてくれているのも分かっているし、今のままで十分だ」
「それならいいんだけれど……じゃあ結局、何に満足できていないの?」
アレクシスが頬にキスをくれて声色を低くする。
「私は欲深いんだ。君を手に入れても、次から次へと欲しくなって、ついミーリアが与えてくれるものだけじゃ足りなくなる。それで満足できていないと言ったが、足りなくなったぶんは、すぐに君が満たしてくれるから平気だ」
彼は緩やかな口調で説明し、きょとんとするミーリアにまた頬ずりをしてきた。
「だから、この先もずっとミーリアで満たされていたい。私を愛し続けてくれ」
「それがアレクシスの欲しいもの?」
「ああ。私はいつだってミーリアが欲しい」
君が欲しい。もっとくれ。
睦み合いの最中でもアレクシスは無遠慮に、しつこく愛を請うてくる。
ミーリアは求められただけ愛を返しているつもりだ。それこそ抱き合いながら意識を失うまで、アレクシスを受け入れて応え続ける。
それと同時に、彼から向けられる愛の重さを思い知らされるけれども。
――ただ、わたしはそれが嬉しい。
誰にも害されることなく存分に愛を注がれて、自分の想いを返すことができる。
前世ではそれすら許されない環境にあったため、ミーリアは自分からアレクシスを抱きしめると、嬉しそうな彼に口づけて愛の証明をした。
結婚記念日の当日。ミーリアは手料理をふるまい、アレクシスはラッピングした花を贈ってくれた。デートのあとにプロポーズをされた時と同じく二輪の薔薇である。
仰々しく手渡してくれるアレクシスに満面の笑みでお礼を言い、ミーリアはことりと首を傾げた。
「そういえばプロポーズの時も二輪の薔薇だった。これって何か意味があるの?」
「花言葉があるんだ。店員から聞いた」
アレクシスは騎士みたいに芝居がかった礼をすると、ミーリアの腰に手を添えて食卓までエスコートしてくれる。
椅子を引いてもらいながら「どんな花言葉?」と尋ねてみたら、アレクシスが後ろから両肩に手を置いてきた。
「知りたい?」
「ええ」
「じゃあ、秘密にしよう」
彼は澄まし顔でそう答えて、向かいの席に座った。
よくよく目を凝らしてみれば口角がほんの少し上がっている。意地の悪い笑い方だ。
また意地悪をしているのねとミーリアは内心ぼやいたが、夫が食卓を見渡して「すごいな」と感嘆の呟きを落としたので意識が逸れた。
「君の手料理、おいしそうだ。それに焼き菓子の量が多い」
「ゲルガー殿下にも差し上げるつもりで焼いたの。明日は授業だし」
「――は?」
「わたしの焼いたクッキーを食べてみたいっておっしゃるから、ついでに焼いたのよ。せっかくだから使用人のみんなにもあげようと思って、たくさん作っ……」
皆まで言い終わらないうちに、アレクシスが食卓に手を翳した。転移魔法を使ったらしく焼き菓子の大部分が消えてしまう。
「あっ、ちょっと!」
「私のものだ。誰にも渡さない」
「ここにあったものは、すべてアレクシスのぶんよ。殿下に差し上げたり、使用人の皆にあげるものは、別に取り分けてあって……どこへ行くの?」
「厨房。他の者のために焼いた菓子を手に入れる」
「アレクシス! あなたのぶんは十分にあるし、焼き菓子以外の料理は全部あなたのためだけに作ったのよ。だからそんなことしなくても……」
すたすたと歩き始めるアレクシスの腕を掴み、その場に引き留めようと踏ん張っていたら、彼が顎をツンと逸らした。
「ミーリア、君は私の妻だろう。だから君の作った手料理はすべて夫である私のものだ。他の誰にも食べさせない」
独占欲を露わにした堂々たる宣言である。
ただ内容は妻の手料理を他の者には食べさせたくないという……それだけだが、ミーリアは不覚にもときめいてしまい、その場でよろめいた。
「……今、ちょっと胸がきゅんとしたけど……アレクシスが行ったら使用人の皆を怖がらせるでしょう。あとで特別にたくさんお菓子を作るから、今日は許して?」
「…………」
「ツーンってしないで、アレクシス。そんなに怒らないで」
両手を組み、上目遣いで「お願い」と訴えてみた。
普段は絶対にやらないが、時折ひどく頑固になるアレクシスを説得するために身に着けたばかりの必殺技である。
しばし彼女を見下ろしていたアレクシスが右手で顔を覆い、小さく唸った。
「……仕方ない。許すのは、今日だけだからな」
どうやら効果は抜群だったらしい。
夫の許しが出て、ミーリアは真剣な顔で「許してくれてありがとう」と頷く。
「ただし、今後は他の誰にも料理を作らないでくれ」
「分かったわ。これからはアレクシスのためだけに作る」
まだ少し不満そうな夫を元の席に座らせると、立ったついでにメイドに声をかけて花瓶を持ってきてもらい、二輪の薔薇を生けて食卓に置いた。
以降は人払いをして、ゆっくりと二人だけで夕食をとった。
いつの間にかアレクシスの機嫌も直っており、初めての結婚記念日は和気藹々として終わった。
それから毎年、アレクシスは結婚記念日になると薔薇を二輪くれるようになった。
ミーリアはお返しとして手料理をふるまい、その日は必ず二人で過ごした。夫婦としての生活が長くなり、五年、十年と歳月が流れても変わらない習慣となっていく。
ただし、それだけ共に過ごしてもアレクシスとの間に子供はできなかった。
もしかしたら魔法の影響で、お互いの身体の生殖機能は壊れてしまっていたのかもしれない。
子供がいないのは寂しくはあったけれど、それをアレクシスに打ち明けたら、彼がどこからか子犬や子猫を拾ってきたので屋敷で飼うようになった。
やがてミーリアはフラヴィアの産んだ王女の教育係を頼まれて、成人したゲルガーが結婚して子供が産まれると、その世話係にも任じられた。
アレクシスは相変わらず公爵として社交場に出ることはなかったが、即位したゲルガーの側近となり、ミーリアに合わせて以前よりも表舞台に立つようになった。
屋敷では夫婦水入らずに過ごし、公私ともに充実した毎日を送る。
そうやって何十年と幸福な時間が流れていき――。
「アレクシス」
ミーリアはベッドに横たわったまま夫の名を呼んだ。
そっと手を伸ばすと、ベッドサイドに座っていたアレクシスが手を握ってくれる。
「ここにいる」
覗きこんでくるアレクシスは年老いても凛々しかった。髪には白髪が交じり、目元や口元に皺が増えていたけれど、背筋は伸びているし声にもハリがある。
一方のミーリアも身体こそ老いてしまったが、若い頃からゲルガーや他の王族の子供たちの面倒を見ながら溌溂とした日々を送ってきたから、未だに心は若々しく、己の寿命を感じ取っても顔には笑みが浮かんでいた。
ミーリアは夫の頬にしわくちゃになった手を添えると、声をひそめる。
「ねぇ、アレクシス」
「ん?」
何十年も連れ添ってきた夫の秘密。アレクシスは決して口にしなかったが、それだけ共にいればなんとなく察してしまうものだ。
彼が周りの人々に恐れられている理由と、ミーリアが老齢して足腰が弱ってきても、どうしてか彼にはそんな様子が一切見受けられなかった理由も――。
しかし、アレクシスがミーリアのために何も話さずにいたというのも気づいてしまったから、代わりにこう口にする。
「わたしに、何か頼みたいことがあるんでしょう」
アレクシスは黄金色の目を丸くしてから、ほんの小さく息を吐いた。
「ああ。頼みたいことがある」
「何? 言ってみて」
彼が顔を寄せてきた。ためらうように口を開けたり閉じたりしたあと、消え入りそうな声で請うてきた――君の血をくれないか、と。
もう何十年と生きてきて、ゴルド文字で記された魔導書にも山ほど目を通した。
すでにある程度の魔法の知識を得ていたミーリアは、アレクシスの願いが何を意味するのかを悟り、嗚咽を零しそうになったけれどもぐっと堪える。
そして叱られるのを待つ子供みたいに身を縮めている夫の手を握りしめた。
「ええ。わたしの血をあげる」
「……ありがとう、ミーリア」
手をぎゅっと握り返した彼がまるで泣きそうな声で礼を言うから、ミーリアは首を横に振り、夫の頬へと愛情こめて口づける。
「アレクシス、それはわたしの台詞よ……本当にありがとう」
たくさんつらい想いをさせてごめんね、と謝るべきか迷ったが、アレクシスはきっとそんな言葉を聞きたいわけじゃないだろうと思い、様々な想いをこめて礼を返した。
すると、彼の美しい黄金色の目からぽろぽろと涙が溢れてくる。
共に過ごすうちにアレクシスはずいぶんと感情豊かになり、年をとるにつれて笑ったり泣いたりするようになった。
夫の頬を流れ落ちる涙を見ていたら、ミーリアの目尻からも雫が溢れ出す。
「わたしたち、涙腺が、ゆるゆるね」
「……ああ、そうだな」
二人で顔を寄せ合ってひとしきり涙を流したあと、アレクシスがゆっくりと立ち上がった。魔法を用いてミーリアの腕から痛みもなく血を採取すると、部屋の家具をどかして床に大きな何かを描き始める。
ミーリアはベッドに横たわりながらそれを見守り続けた。
二人だけの屋敷で、おじいちゃん、おばあちゃんになるまで生きてきた。
願わくば、このまま一緒に逝けますように。
――なんだか眠くなってきた。
身体のだるさと強い眠気に襲われたが、ミーリアは目を開けようと努める。
その時、床に魔法陣を描き終えたアレクシスがやって来て、横たわった彼女の目の前に何かを差し出してきた。
ラッピングされた二輪の薔薇だ。
「……これ、どこから持ってきたの?」
「あらかじめ用意しておいたんだ」
「あなた、本当に用意がいいのね」
「だって君はこういうのが好きだから」
「ええ、そうね……大好きよ」
いつもの軽口を叩いたあと、アレクシスは二輪の薔薇をミーリアに手渡し、目を閉じかけている彼女の額へとキスをしていく。
「ねぇ、アレクシス……」
「何?」
「……ちゃんと、うまくいくのね?」
「うまくいく」
「…………今度こそ、一緒がいい」
アレクシスのほうへと腕を伸ばせば、彼が抱き上げてくれた。床に描かれた魔法陣の中央へと連れていかれる。
そこに座りこんだアレクシスに抱きしめられてミーリアは深く息を吐いた。消え入りそうな声で囁く。
「あなたに出会えてよかった」
「ああ。君に出会えてよかった」
唇にキスが降ってきて、指を搦めながら右手と左手を繋いだ。
顔を寄せ合い、若く初々しい恋人だった頃みたいに愛を告げる。
「大好きよ、アレクシス」
「私も、ミーリアが大好きだよ」
ミーリアは満面の笑みを浮かべると、空いた手で薔薇を持ち、アレクシスの肩に頭を預けた。愛する人に寄り添いながら重たい瞼を閉ざす。
段々と意識が遠のいていき、また唇に柔らかいものが触れる感触があった。
ああ、彼のキスだ。
そう分かった瞬間、身体が床にそっと下ろされて詠唱が聞こえる。ほどなくして細かい砂みたいなさらさらとしたものが優しく降り注いできた。
幸せそうに微笑んだミーリアの意識もまた、その直後に永遠に消失した。
長い、長い時を経て、今度こそ一緒に逝けたのだ。
二輪の薔薇の花言葉は、この世界には二人だけ。
ようやく二人だけの幸せのかたちを成就させ、溢れるほどの愛に満たされた最期を迎えることができたから、それは彼らにとってこの上なく幸福なハッピーエンドだった。