二人の黒歴史
姉のウェンディが、くそじじいのせいで売り飛ばされるところだった。
そのことを知ったのはルイーザが九歳のとき、姉の結婚式当日のこと。
「くそじじい……売り飛ばされる……」
小さな娘の暴言に頭をくらくらさせる父フランクの隣で、母ケイティは優しく娘を諭す。
「お祖父様が、姉様を勝手に嫁がせようとなさったと仰い。あなたも男爵令嬢なのですから、人聞きの悪い言葉を使うものではないわ」
ルイーザは腰に手を当てぷんと怒った。
「父様に無理ばかり言って困らせる人なんてお祖父様だなんて思ったことないわ。くそじじいで十分よ。それにあのくそじじい、姉様をツケ代わりにオジサンにくれてやろうとしたのよ? 売り飛ばすのとどこが違うの?」
それを聞いたフランクは半分魂を飛ばし、ケイティはぐっと喉を鳴らした。笑いで崩れかけた目の下から口元にかけてを手で隠し、落ち着いたところで再度言った。
「町や村のお友達から市井の言葉を教わるのは構わないけれど、あなたは使ってはダメよ。男爵令嬢なんだから、言葉遣いに気を付けないと」
お小言を聞く気がまるでない子供《ルイーザ》は、夢見がちな目をして話し始めた。
「それにしても、さっきのトレバー様かっこよかったぁ。くそじじいとオジサンを簡単にやりこめちゃって」
ルイーザは先程の光景を思い出す。
式の手伝いをしている村人から連絡を受けて、姉の控室から飛び出していく父と母。それを追いかけたルイーザは、教会の入り口からこんな声を聞いた。
――こんな結婚は認めん! ウェンディはこの男に嫁ぐことが決まっておるのだ!
――そうなんです! ゴーイル伯爵からこれまで提供させていただいた品々のお代をいただく代わりに、ウェンディ嬢をくださるとお約束いただいているのです!
――要するに人身売買契約ですか? 我らがティングハスト王国では人身売買は禁止されてますよ? あと、権力を笠に着て申し訳ないが、この結婚は私の肝いりなんだ。それに文句をつけるということは――私の顔に泥を塗りたいということか?
凄みの利いた低い声に、二人の息を呑む音がする。
――さ、先程から無礼な! そういうおまえは何者だ!
――伯爵様お待ちください! この方は外交官ヴェレカー子爵トレバー・カニング様です! 外務大臣ガスコイン侯爵のご嫡男で、今ではこの方なしでは我が国の外交は回らないと言わしめるほどで、それゆえに国王陛下の覚えめでたく、この方に何かあれば陛下が黙ってはおられません!
――そのような男が何故このような田舎の結婚式にしゃしゃり出てくるんだ!?
――新郎は私の後輩なのですよ。可愛い後輩の恋路を先輩の私が応援してはいけませんか? ああ、それ以前に人身売買疑惑がありましたね。結婚式が終わり次第、いや、今すぐに王宮へ使者を送ってこの件を国王陛下に奏上し、調査を命じていただきましょう。
――ゴーイル伯爵! この話はなかったことにさせてください! 調査されたと知られるだけで、わたくしの商人人生はおしまいです! 近日中にこれまでの代金を請求に伺いますからね! お支払いいただかないと、伯爵にお売りしても代金は回収できないと商人仲間に言いふらしますよ! そういうわけでヴェレカー子爵、わたくしは手を引きますのでどうかご容赦を~!
――な!? 待て! 待たんか!
――おやお帰りですか。それではごきげんよう。次は一昨日お越しくださいね~。
お道化た台詞もあったけれど、たったこれだけの会話でくそじじいと悪徳商人を追い返してしまった。その手腕にルイーザは惚れ惚れする。
「ああいうのをオトナのミリョクって言うのかなぁ」
浮かれた気分のルイーザは、母ケイティの微妙な表情に気付かなかった。
* * *
ケイティがトレバー・カニングに出会ったのは、昨日の夜のことだった。
夫が治めるイーストン男爵領の隣、そこの領主である男爵家の嫡男がウェンディにプロポーズするために訪れ、その際に伴ってきたのが彼だった。
――私には情報通な商人の知り合いがいまして、お宅のウェンディ嬢が人身売買まがいに嫁がされる予定があると教えてくれたのです。
そう言ったトレバーは、到着早々ウェンディを人攫いたちから助けてくれた。彼らは義父の手の者だった。娘のルイーザに追随するつもりはないが、義父は家族を自分の所有物としか考えない、くそじじいの名に相応しい人物だ。
――結婚証明書を偽装される前に、教会で結婚式を挙げ証明書を発行してもらいましょう。
トレバーはそう提案してきた。事態は急を要すると知っていたかのように、向こうの両親を呼び寄せた上で。
ウェンディが男爵家の嫡男と恋愛していることは知っていたし、元々親しくしていた彼らとは、二人をいずれ結婚させようと以前から話し合っていたので、翌日に結婚式を挙げるとすぐ合意に至った。
この急な結婚式の準備を取り仕切ってくれたのもトレバーだった。
――私の肝いりという名分が、二人の結婚を守ってくれるでしょう。初めて会うのに、どうしてこんなによくしてくれるのかって? 新郎の彼は私の可愛い後輩ですし、それにロッシュ男爵や娘さんたちとは初対面ではないんです。それでも理由がないと仰られるのでしたら、ルイーザ嬢に救われたことがあると付け加えましょう。
教会の控室で聞いてみたところ、娘婿は「僕は外務の文官をしていますが、ヴェレカー子爵とお会いしたのは今回が初めてです」と言うし、ルイーザは「わたしが救った?」と首を傾げる始末。
初めて出会ったという王宮でのパーティーで行動を共にしていたウェンディに尋ねてみたところ、今まで聞いていなかった肝を冷やす一幕を知る羽目になったものの、トレバーの動機をなんとなく察した。
(でも、そんな、まさか)
そう思いながらも、トレバーからは、ルイーザに恩以上の感情があるようにしか見えない。しかもルイーザまで満更ではない様子。が、しかし。
信徒席の最後列で肩を落とすトレバーをこっそり見て、ケイティは「ウチの子がごめんなさい」と心の中で謝るしかなかった。
* * *
信徒席の最後列に身体を押し込めたトレバーは、先程受けたショックからなかなか立ち直れずにいた。
――あのくそじじい、姉様をオジサンに嫁がせようとするなんて! あのオジサンもオジサンよ! いい年して未成年の女の子を欲しがるなんて頭おかしくない!? トレバー様、姉様を救ってくださってありがとうございます!
トレバー・カニング三十三歳。三年前、ルイーザから「おじさま」と呼ばれた男。
(若い女性と結婚しようとするオジサンを、ルイーザは生理的に受け付けないのか? じゃあ九年後にプロポーズをしてもルイーザは……)
ショック冷めやらぬまま王都に戻ったトレバーは、努力しても報われない傷心を抱えながらもルイーザを諦め切れず、ルイーザの父ロッシュ男爵と季節の便りのなどのやり取りをして細い親交を保った。
* * *
そして二年後。
トレバーからある申し出を聞いたルイーザの両親は、二人でこっそり相談した。
「家族のためとはいえ、ルイーザを犠牲にするわけには」
「犠牲になるとは限らないわ。トレバー様は信頼してもいいと思うし、あとはルイーザの気持ちを尊重しましょう」
こうして、条件付きでトレバーの申し出を受けることに決める。
トレバーは、ルイーザの前で跪いてこう言った。
「こんなおじさんだけれど、結婚してくれるかい?」
この言葉に、ルイーザもトレバーも一瞬意識が過去に飛ぶ。
(イヤだ。わたし姉様のことでお礼を言いながら、オジサンが若い子を欲しがるなんて気持ち悪いって言っちゃった)
(しまった。おじさんなんて言って過去をほじくり返す真似を)
奇しくも二人、同時に誓った。
(姉様《ウェンディ》の結婚で会ったことは黒歴史として封印しよう)
目が眩むほどの美貌の主からプロポーズされたルイーザは、気が動転してしまってつい憎まれ口を叩いてしまう。
「家族を助けてくれるっていうのに、断れるわけがないわ」
そんなルイーザに、トレバーはこの上なく幸せそうに微笑んだ。
「じゃあ結婚してくれるんだね?」
こうして二人の頭の中から、黒歴史は抹消された。