ソーニャ文庫

歪んだ愛は美しい。

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雪の朝

 昨晩から明け方にかけ、雪が大層積もったからか、いつも以上に室内は静まり返っていた。
 あらゆる音が真っ白な雪に吸収されている。
 いっそ耳が痛くなるほどの静寂の中、葉月はゆっくり身を起こした。
「……光貴様、そろそろ起きてくださいませ」
 着崩れた寝間着の袷を整えつつ、自分も気を抜くと温かな布団へ戻りたい欲に負けそうになる。
 それほど、今朝の冷え込みは厳しかった。
 だがだとしても、いい加減起きなくては。時刻は既に八時を回っている。
 今日は大切な商談があると聞いていたので、いつまでも惰眠を貪ってはいられなかった。
「ほら、隣の部屋の炬燵には炭が入っていますよ」
 一足先に葉月が布団を出ようとすると、無言のまま夫の腕が絡みついてきた。
 行くな、とばかりに腰をぎゅっと抱きしめられる。腹に顔を埋められると、擽ったくてつい笑みが漏れた。
「駄々っ子の真似はやめてくださいませ」
「もう少し、ゴロゴロしていればいい」
「そうは参りません。この時間でも充分遅いくらいですよ」
 多忙な光貴は昨夜も帰りが遅く、疲れた顔をしていた。だから休ませてやりたい気持ちもある。
 しかし自堕落に振る舞えば、苦言を呈する者もいるだろう。ただでさえ周囲の反対を押し切って彼は葉月を妻に迎えたばかりだ。
 口さがない者なら、『どこの馬の骨とも知れぬ田舎娘に現を抜かして』くらいは言うかもしれない。
 葉月は欠片でも光貴の迷惑になりたくなくて、これまで以上に己の言動には気を配っていた。
 ――実際、現を抜かしていると言われたら、否定しきれないもの……
 昨晩も情熱的に肌を重ねた。寒さを言い訳にし、身体を絡ませ合って。
 結果が、今朝の朝寝坊というわけである。
 ――真冬になって、光貴様はどんどん起床時間が遅くなるわ。本当に寒さが苦手なのね。
 葉月に擦り寄って半分寝惚けた様子の彼は、思いの外可愛らしい。布団の中に頭まですっぽり潜り込もうとする様は、微笑ましくもあった。
 だがやはりそろそろ起きなくては。
 葉月は心を鬼にして布団を剥ぎ、光貴の肩を揺さ振った。
「駄目ですよ、もう身支度を整えなくては」
「……商談は午後からなのに……」
「だとしてもです。朝日を浴びて一日頑張りましょう」
「朝日なんて浴びなくてもいい。もっと葉月とこうしていたい……」
 幼子めいた口調で我が儘を言う彼も決して嫌いではない。むしろ自分にだけ見せてくれる姿だと思うと、堪らなく胸がときめいた。
 つい『あともう少しくらいなら』と甘やかしたくなる気持ちを叱咤し、葉月は光貴の頭を撫でてやった。
「お仕事から戻られたら、耳かきをして差し上げます」
「えっ」
 詳しい経緯は忘れたが、先日ひょんなことから彼に膝枕と耳かきをしてやる機会があった。
 葉月としては弟妹にしていたことなので、さしたる意味はなかったのだが、光貴はいたくお気に召したらしい。
 以来、事ある毎に『耳かき』を所望してくるのである。
 ――でもたいして汚れていないのに、あまり頻繁に耳かきしては耳穴を傷をつけてしまいそうだと思って、何度か断ったけれど……
 どうやら未だ彼は耳かきをしてもらうことに執心していたようだ。
 葉月が交換条件でちらつかせると、先ほどまでが嘘のように布団から飛び出した。
「じゃあ、今すぐ支度をするよ。そしてできるだけ早く帰ってくる」
「暗い中でするのは危ないので、今日早く戻られても耳かきは明日ですよ?」
「分かった。勿論膝枕もしてくれるんだよね?」
 よもやそこまで楽しみにしてくれていたとは。
 こちらが驚く勢いで前のめりになられ、葉月は苦笑した。
 光貴の双眸がキラキラと煌めいている。
 光の反射で一瞬赤く光った瞳は、吸い込まれそうな美しさだ。妙に懐かしい気もして、葉月は笑みを深めた。
「はい。喜んでさせていただきます」
 二人きりの時間はどんなものであれ、大切な宝物だ。
 触れ合うだけで心から幸せを噛み締められる。そんな瞬間を積み重ねられる毎日は、たとえ周囲の人々に葉月が『御堂家には相応しくない嫁』と嘲られても手放せるはずがなかった。
 ――幸せだな。
 この家に連れてこられた当初は、そんな心境を抱けるとは欠片も思わなかった。
 今だって、身の程知らずな夢を見ている心地がする。
 それほど自分と光貴は釣り合わない存在だと、端から諦めていたから。
 どんなに焦がれても、絶対に手が届かない人だと思っていた。いや、焦がれることすらおこがましいと。
 だが彼は全てを捨てても構わないと言い、葉月を選んでくれた。
 実際、一つ釦を掛け違えれば、光貴は何もかも放棄して葉月を求めてくれた気もする。
 それこそ、家も身分も両親も――命すら。
 葉月を得られるなら惜しくないと言いかねない危うさがあった。
 そして自分は本来なら諭さねばならない立場にありながら、狂おしく希われることへの歓喜を味わってしまったのだ。
 ――私ったら、ひどい女ね。光貴様は相応の女性と結ばれるべきだと、分かっているのに。
 もはや、離れられない。離れたくない。
 かつて彼と婚約寸前までいった上野伯爵令嬢が急死したと聞いた際、愚かにも人の死を悲しむ以外の感情を抱いてしまった。
 あの時の罪悪感は、生涯葉月の内側で消えることはないだろう。
 誰にも告げず、自身が一生背負う重荷でもあった。
 けれどある意味、その時の経験があるからこそ己の罪深さを直視して、本当の望みに気づけたのかもしれない。
 建前や言い訳を取り払った、剥き出しの欲望に。
「葉月、愛しているよ」
「私も……光貴様をお慕いしています」
 罪深い恋情は拭えない。
 仮に何度『やり直した』としても。
 ようやく動き始めた光貴に微笑み、葉月はひとまず雨戸を開けた。
 外はすっかり雪化粧だ。木々も地面も建物の屋根も、ふんわりとした雪に覆われ、光が眩しく踊っている。
 眼を細め深呼吸すると、冷えた空気が肺を満たした。
「ああ、寒い。凍えてしまう」
 寒がりな彼は首を竦め、そそくさと隣の部屋へ避難してゆく。
 そちらは既に女中が炬燵に炭を入れてくれていた。
 相変わらずこの家の使用人たちは光貴にあまり関わろうとはしないものの、職務には忠実だ。
 寒さに弱い令息のため、冬の間炭を切らすことはなく、明け方には部屋を暖めてくれていた。
「葉月もこっちへおいで。いつまでも窓際にいたら、風邪をひいてしまう」
「大丈夫ですよ。身体は丈夫なのです。それに、とても綺麗な景色が広がっています」
 葉月の生まれ育った村は山奥だったせいか、毎年積雪が厳しかった。
 だから帝都に住む今は、この程度の雪はどうということがない。
 確かに寒さは感じるが、『綺麗だな』という感想の方が大きかった。もしかしたら、雪かきをする必要がない気楽さが、そう思わせているのかもしれないが。
 しばしぼんやりと、白一色の光景を堪能する。
 吐き出す息が真っ白なことも、気にはならなかった。
「――全く、葉月は素直なようでいて、なかなか僕の言うことを聞いてくれない」
「きゃ……っ」
 物思いに耽っていた葉月は突然背後から抱きしめられ、驚いた。
 ホッとする温もりに包まれ、懐かしく愛しい香りが鼻腔を擽る。
 この世で一番愛する男の腕の中、振り返ればこの上なく端正な顔をした夫が笑っていた。
「こ、光貴様。お身体が冷えてしまいますよ」
「それは葉月の方だろう。僕は君と密着していれば、温かい」
 てっきり炬燵で暖を取っていると思った彼は、葉月を腕に囲ってご満悦だ。
 とても上機嫌で、こちらの額に艶めかしい口づけまで落としてきた。
「誰かに見られたら……!」
「誰も見ていないよ。もし目撃されていても、構わない。だって僕らは夫婦だろう? 特別な関係だから、咎める人間なんていないよ」
 正にその通りなのだが、葉月にとっては恥ずかしさが先立つ。
 それに正式な夫婦になった今でも、気後れを完全に払しょくするのは難しかった。
「ああ、本当に綺麗だな。葉月が教えてくれなかったら、雪を眺めるなんて酔狂な真似、しようとも思わなかった」
「酔狂だなんて」
「わざわざ冷たいと分かっているものに触れるなんて、正気の沙汰じゃないよ。動けなくなるじゃないか」
「ふふ……まるで光貴様は猫みたいですね。炬燵で丸くなっては如何ですか?」
 猫ではなく他にもっとピッタリな生き物がいる気もしたが、葉月は生憎咄嗟には思いつかなかった。
 ――寒さに弱い動物って、他にどんなものがいたかな?
「それなら葉月も一緒に丸くなろう。ほら、おいで」
「あ……っ、身支度を整えるのではないのですか?」
「あともう少しくらい。大丈夫だよ。大事な妻との時間も持てないんじゃ、頑張る意義もないじゃないか。ぼくが一所懸命働くのは、全て葉月との安定した生活を得るためだ」
 グイグイと手を引かれ、結局葉月は彼と共に炬燵に並んで座った。
 二人用とは思えぬほど大きな掘り炬燵だが、肩が触れ合う距離で密着する。当然のように肩を抱かれ、気温の低さは変わらずとも急に暑い気がしてくるから不思議なものだ。
「雪が見たいなら、ここから眺めればいいよ」
 襖を開け放しているので、庭まで見通せる。
 結露した窓は寒々しいものの、静謐な銀世界を邪魔するほどではなかった。
「ふふ……雪見も葉月と一緒なら、寒いだけじゃなくいいものだね」
「私も……光貴様が隣にいらっしゃると、これまで見てきたものよりずっと美しく感じます」
 かつて村で暮らしていた頃は、葉月にとって積雪は厄介なものだった。
 眺めて終わりなら綺麗だが、畑は農作物が育たないし、水瓶が凍ってしまう。手指は皸になり、体調を崩すことが増える。
 山の実りは期待できず、一年のうちで最も腹を空かせていることが多い時期だからだ。
 ――憂鬱だった冬をこんな風に過ごしているなんて、村にいた頃の私に話しても、到底信じられないでしょうね。
 今では、凍える心配も飢える不安もない。
 まだ『御堂家の若奥様』と呼ばれることには慣れないし、相応しい教養や振る舞いを身につけられてはいないけれど、葉月の毎日は紛れもなく幸せだった。
 光貴の隣にいられる。
 願いはそれだけ。他には何もいらない。
 彼の傍にいる理由が得られれば、それ以外に望みなどないのだ。
「美しい……そうだね。汚いものは全部雪が隠してくれているみたいだ」
「御堂家のお庭はいつも完璧に手入れされていて、汚いものなんてないじゃありませんか」
「ふふ。葉月がそう言うなら、その通りだよ。汚いものなんて、君の眼に映らなくていい」
「……?」
 光貴の言う意図が汲み取れず、葉月は瞬く。
 だが彼が不可解な発言をするのは珍しくないので、特に聞き直さなかった。
 幼い頃に神隠しに遭った光貴は、現在でも若干普通と違う部分がある。最近ではこちらが驚く言動をするのは少なくなったが、時折よく分からない物言いをするのは相変わらず。
 しかしそういう部分を含め、葉月は彼を心の底から愛していた。
「嫌なことも辛いことも全部忘れて――僕との楽しい未来だけ見ていてほしい。これから先も、不要なものは全て僕が消してあげるから」
 甘い台詞の底に揺らめく、仄かな澱み。
 ひやりとした怖気が葉月の首筋を撫でた。
 どこかで、ずず……っと何かを引き摺る音が聞こえた気がする。しかしここにいるのは自分たち二人だけ。
 用がなければ使用人たちは、光貴の部屋付近へ絶対に近寄りもしない。
 そして外は再び雪がちらつき始め、あらゆる物音が吸い込まれていくような静寂が満ちていた。
 だから、奇妙な音は己の勘違いでしかない。
 そう思い、葉月は愛しい夫の肩に頭を預けた。

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