ソーニャ文庫

歪んだ愛は美しい。

会員限定特典小説

英雄殿の独占欲

 王妃とその子どもたちが住まう南の宮の舞踏室から、美しいピアノの旋律が流れてくる。
 大きなピアノを弾いているのは、小柄な女性だ。白金色の髪を結い上げ、薄紫のドレスを身に纏ったその姿は、花の妖精のように可憐である。
 彼女の名前はエノーラ。
 この国の王弟にして英雄、エルネスト・ウィリアム・フレデリックの妻となった女性だ。
 王妃は義理の妹となったエノーラを大変気に入っており、彼女をしょっちゅう自分の住まいである南の宮に呼び寄せているのは有名な話である。
 おそらく今日も彼女は、王妃の招きで王宮に来ているのだろう。

 楽譜に描かれたオタマジャクシのダンスに合わせて、白と黒の鍵盤に指を滑らせながら、エノーラはこの大きな弦楽器が奏でる音にうっとりと聴き入った。音楽とはとても不思議な学問だ。このオタマジャクシの指示に従って楽器を弾くだけで、これほど素晴らしい旋律が生み出されるなんて。
 森に住んでいた頃は、音楽というものに触れたことがなかった。育ててくれた祖母は気難しい人で、歌を歌っている姿など一度も見たことがなかったからだ。森の中には風の音や、湖のさざなみ、獣や鳥、虫たちの鳴き声などはあるし、エノーラはそれらも美しいと感じていたけれど、やはり音楽の比ではない。
 エルネストがつけてくれた家庭教師の中には音楽の教師もいて、彼にピアノの弾き方を教わってから、エノーラは自分で音楽を奏でる喜びを知った。人間の作り出した楽器はどれも素晴らしい。その中でもピアノは指を動かすだけで多様な音を紡ぎ出せるのがすごい。一台で、そして一人で弾いているのに、まるでたくさんの楽器によって奏でられているような複雑な音になるのだ。
 無心でピアノを弾いていたエノーラは、一曲弾き終えた瞬間、パチパチという拍手の音が聞こえてきてハッとなった。振り返ると、自分以外誰もいなかったはずの舞踏室の入り口に、王の姿があって仰天する。
「こ、これは陛下……!」
 慌ててピアノの椅子から立ち上がってお辞儀をしようとすると、王は鷹揚に片手を振ってみせた。
「ああ、そのままで」
「お耳障りでしたら申し訳ございません。王妃様がこちらの舞踏室でピアノを練習していいとおっしゃってくださったので、勝手に弾かせていただいておりました」
 そのままでと言われたが、そういうわけにもいかない。エノーラがカーテシーをしながら答えると、王は残念そうに眉を下げた。
「いや、とても素晴らしい演奏だったよ」
「……もったいないお言葉にございます」
 目を伏せたまま更に深く頭を下げると、王は小さく嘆息した。
「……そう畏まられるのは、少し寂しい気がするな」
 意外なことを言われて、エノーラはチラリと王の顔を見上げる。
 彼が言わんとしていることは、なんとなく理解できた。
 エノーラは王の異母弟であるエルネストと結婚したから、王とは義理の兄妹ということになる。
 家族になったのだから、エノーラの態度が他人行儀だと言いたいのだろう。
(……けれど、陛下は私がエルネストさんの傍にいることを良しとされていないはず……)
 一度エノーラがエルネストの傍に戻りたいとお願いした時、王は難色を示したからだ。
 エノーラは平民だ。父親が貴族かもしれないとエルネストが調べてくれたこともあったが、結局父親が誰なのか判明しなかったそうだ。
 平民など、王族である弟の配偶者には相応しくないと考えてのことだったのだろう。それは当然のことだと、エノーラも思う。この国では、貴族は貴族同士で結婚しなくてはならないという暗黙の了解のようなものが存在しているのだ。
 とはいえ、エルネスト自身も母が平民という、異色の王族である。幼少期の苦い経験から「貴族嫌い」と表明する彼は、配偶者の身分などどうでもいいという考えの人だ。結局エノーラを妻にしたのだが、兄である王がそれを快く承諾したわけではないだろうことは、想像に難くない。
 実際、王妃であるキャサリンはエノーラのことを気に入ってくれていて、こうして王宮に招いてくれることも珍しくないのだが、その際に王がエノーラの前に顔を出すことはなかった。
(……だから私は嫌われているのではと思っていたけれど……)
 王の発言になんと答えて良いのか分からず逡巡していると、王は困ったように笑った。
「……まあ、自分の蒔いた種だな。すまない。君に嫌な態度をとったのは私の方だというのに……」
 王が自ら過去の言動について言及してきたので、エノーラは驚いてしまう。つまり王がエルネストからエノーラを引き離そうとしていたのは、エノーラの気のせいではなく事実だったということだろう。
(でもこうして謝ってくださっているということは、それを改めたいということなのでしょうか……?)
「あ、いえ、その……嫌な態度だったとは思っておりません。貴族社会において私のような立場の者が、エルネスト様のお傍にいることを、良しとされないことは承知しておりますので……」
 心のままに答えたのだが、王はますます苦笑いを浮かべた。
「……君は本当に頭が良い。確かに私はエルネストには、相応の権力を持つ貴族の令嬢から妻を選んで欲しいと願っていた。だが今はそうは思っていない。無垢な子どものように純粋でいながら、全てを悟った賢者のように聡明でもある君のような人だからこそ、エルネストが心を開いたのだと理解したつもりだ」
「……畏れ多いお言葉にございます」
 純粋だとか聡明だとかの誉め殺しに、なんともこそばゆい気持ちになりながら頭を下げると、王はやれやれとため息をつく。
「頼む、どうかそう畏まるのはやめてくれ。私は、その……君と仲良くなりたいんだ」
 これまた意外な発言に、エノーラは目を丸くしてしまった。
「……仲良く、ですか?」
「ああ。だってほら、私たちは、兄妹なのだから」
「きょうだい」
 言われて、なるほど、と思った。確かに、王と自分の関係は義理の兄妹である。
「……それでは、私にはお兄様ができるのですね」
 思わず呟いてしまったのは、脳裏に森に棲み着いていた狼の子どもたちが浮かんだからだ。
 産まれたばかりの頃、彼らはまんまるで、コロコロとしていてとても可愛かった。いつも兄弟同士でじゃれあって、喧嘩をしたり遊んだりしていた。エノーラはそれを遠くから観察しながら、羨ましいと思ったものだ。――自分にもきょうだいがいれば、寂しくないのではないかと。
 厳格な祖母と二人きりの森暮らしは、とても孤独で寂しかったのだ。
 だから兄ができると考えると、まず心に浮かんできたのは喜びだった。
 エノーラの呟きに、王はパッと顔を輝かせる。
「……私を兄と思ってくれるのか?」
「陛下が良いとおっしゃるのであれば。……私は、ずっときょうだいに憧れていたのです」
 幼い憧れを口にするのが恥ずかしくて、少し顔が赤くなる。
 すると王が感極まったように、両腕を広げてエノーラを抱き締めた。
「えっ」
「ああ、エノーラ。……ありがとう。すまなかった。どうか……愚かだった兄を、許してくれ」
 いきなり抱きつかれて仰天したが、これは振り解いていいものだろうか。
 狼狽えるこちらをよそに、王はエノーラを抱き締めたまま囁くような声で言った。
 それがまるで祈りのようで、エノーラは振り解こうとした腕から力を抜く。自分は聖職者ではないし、免罪ができるような立場ではない。それでもこんなに切実な声で請われて、否やとは言えなかった。
「……許します、お兄様」
 小さくそう呼ぶと、王は小さな声で「ありがとう」と言った。その声が震えているような気がしたのは、エノーラの気のせいだろうか。
「何をしている!?」
 矢のような声が響いたのは、その次の瞬間だった。
 ギョッとしてそちらへ視線をやれば、悪鬼のような表情でこちらへ駆け寄ってくるエルネストの姿が見えた。
「エルネスト様!」
「おや、エルか」
 兄妹になったとはいえ、夫以外の男性に抱き締められている現場を見られて、エノーラは焦ってジタバタと手足を動かした。王の腕から逃れたかったのに、王は何故かエノーラを抱き締めたまま腕を解こうとしない。
「ジョージ、貴様、俺の妻に何をしている!」
 叫ぶエルネストの額には青筋が浮いていて、兄の胸ぐらを片手で鷲掴みにした。
 兄弟とはいえ、仮にも国王の胸ぐらなのだが、いいのだろうか。
 エルネストに掴みかかられ、ようやくエノーラを解放した王は、へらりとした笑顔で弟に言った。
「おいおい、兄妹の親愛の抱擁だよ、エル」
「兄妹だと!? 貴様、エノーラに何を……!」
「弟のお前の妻になったんだから、エノーラは私の義妹だろう?」
「……ッ、だからって、抱き締める必要などないだろう! エノーラに必要以上に触れるな!」
 歯を剥き出しにして唸る弟に、兄は人の悪そうな笑みを浮かべる。
「おい、エル。家族にまで嫉妬するなんて、少々狭量すぎないか?」
 からかう兄に、エルネストはスッと表情を消したかと思うと、問答無用で額に頭突きをかました。
 ゴチン、と鈍い音が舞踏室に響き、王が呻き声を上げ、額を押さえてその場にしゃがみ込んだ。
「〜〜〜〜ッ、エルネストッ……!」
「嫉妬深くて何が悪い。エノーラに触るな。今度やったら、頭突きで済むと思うなよ」
 フン、と鼻息荒く言い捨てるエルネストに、涙目の王が「このバカ弟が……!」と呟いている。
 まるで子どもの兄弟喧嘩そのものの光景だ。
 エノーラが呆れてそれを眺めていると、エルネストに振り向きさまに横抱きに抱え上げられた。
「きゃあっ! エルネスト様?」
 いきなり足元から掬い上げられて悲鳴を上げると、エルネストが不機嫌そのものといった声を出す。
「俺以外の男と二人きりになったな。お仕置きだ」
「えっ……」
 お仕置き、の言葉に、エノーラはサッと青ざめた。以前、舞踏会で知らない男性のキスを手に受けたことを叱られて「お仕置き」をされた時には、一日中ベッドから出れなかったのだ。
「ま、待ってください! 陛下はお兄様ですよ!?」
「だからなんだ。男は男だ」
「そんな!」
 にべもないエルネストに悲鳴を上げると、背後から痛快そうな笑い声が聞こえてきた。
 声の主はもちろん王で、エルネストに頭突きされた額を片手で覆いながら、天を仰ぐようにして笑っている。
「ああ、おかしい! 人嫌いの英雄殿が、愛妻にはこんなに嫉妬深くなるなんてな!」
「うるさいぞ、ジョージ。さあ、帰ろう、エノーラ」
「え、あの……でも……」
 まだ王妃に暇を告げていない。王妃は娘をお昼寝させるために、絵本を読みにいったのだ。本来は乳母の仕事だが、王妃は自分で子育てをする主義で、自ら寝かしつけをしているのだとか。
「エノーラ、狭量な夫が嫌になったら、いつでも王宮に逃げておいで! この兄が必ず助けてあげるからね」
「うるさいぞ、ジョージ! もう一度頭突きを喰らいたいのか」
 また兄弟喧嘩が勃発しそうで、エノーラは慌てて夫の首にしがみついて叫ぶ。
「嫌になんてなりません! 私はエルネスト様を愛していますから!」
 その途端、エルネストが放っていた殺気がスッと消える。
 おそるおそる顔を上げると、真っ赤になったエルネストの顔が見えた。
「エ、エルネスト様……」
「…………」
 呆気に取られて夫の美しい顔を見つめていると、背後でまた王が腹を抱えて笑い出す。
 エルネストはそれを見て舌打ちをすると、エノーラを抱えたままスタスタとその場を後にした。

 立ち去る弟夫婦を見送りながら、笑いの発作を治めた王は、小さく呟く。
「……どうか、エルネストを頼むよ、私の小さな妹……」

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