あなたの痛みを想う
『殿下の痛みが、私にも伝わればいいのに』
かつてグレーテは寝台の上でそう言って、マティアスが戦場で負った傷痕のひとつひとつを撫でて、口付けながら涙を浮かべた。
伴侶魔法により、グレーテの命を共有することで、マティアスは今を生きている。
けれども伴侶魔法には、互いの傷や痛みを共有する機能はない。
だから伴侶に何かがあっても、知る術がないのだ。
そのことに、当時のマティアスは心底安堵したものだった。
こんな痛みを、こんな苦しみを、グレーテに味わわせたくない。自分だけで十分だ。
だが今になって、伴侶魔法にその機能がないことをマティアスは忌々しく思った。
「陛下! グレーテ様が……!」
先ほど突然グレーテが倒れたと、顔色を変えた女官が執務室に飛び込んできたのだ。
その瞬間、マティアスの全身から血の気が引いた。
グレーテはいつも悩みがなさそうにへらへらと笑って、自分の負の感情や苦痛をあまり表に出そうとしない。
だから周囲の人間も、彼女が追い詰められていることになかなか気付けない。
おそらく今回も体調が悪いことを自覚しながら、倒れるまで我慢していたのだろう。
元薬師でありながら、己の健康に無頓着なのはいかがなものか。
苦痛までも共有できたのなら、彼女の不調にもっと早く気づくことができたのに。
(どうして無理をするんだ……!)
マティアスは公務を放り出し、血相を変えて執務室から飛び出した。
そしてグレーテの部屋に入れば、愛しい妻が真っ青な顔をして寝台に横たわっていた。
「グレーテ……!」
どうやら眠っているようだ。彼女の規則的な呼吸を聞いて、マティアスは少しばかり安堵する。
「医師は呼んだのか?」
グレーテの側に付いているアイリスを問い質せば、彼女はマティアスの剣幕に怯え顔を引き攣らせながらも、手元の石板に石筆でその返答を書き込む。
『グレーテさまがよばなくてもよいとおっしゃったので……』
「ふざけるな! いいから今すぐに呼び出せ!!」
マティアスが激昂し、アイリスを怒鳴りつけたところで。
「んもう、マティアス様ったら。枕元でうるさいです」
目を覚ましたグレーテが呑気な声で言って、その熟れすぎた苺のような目をうっすらと開いた。
「グレーテ! 大丈夫なのか……!?」
身を起こそうとしたグレーテの背中を、マティアスは慌てて支える。
すると彼女は小さく笑って、己の指先を彼に見せつけた
「ほら、見てください。ただの貧血です。大袈裟ですって」
そこにある爪が、随分と白くなっている。確かに典型的な貧血の症状だ。――だが。
「倒れたくせに、何を言ってるんだ!」
真っ青な顔をして床にしゃがみ込み、そのまま倒れてしまったと聞いた。
決して大袈裟などではない。
「そんな心配するようなことじゃないですよ。死んだりはしませんから安心してください」
肩を竦めたグレーテにそう言われ、マティアスは心臓を冷たい手で掴まれたような気分になった。
どうやらグレーテは、マティアスが己の命を惜しんで彼女の心配していると思っているらしい。
確かにかつて『お前が死んだら僕も死ぬんだぞ!』と言って、彼女を脅し、監禁したのはマティアスだった。
マティアスの心を、焼け付くような罪悪感と焦燥感が襲う。
(……自分の命のことなんて、全く考えていなかったのに)
ただ、グレーテを心配したのだ。この世で唯一の愛する女を。
自分の命のことなど、グレーテに言われるまで全く思い出さなかったくらいだ。
それなのに、そのことをわかってもらえなかったことが、寂しい。
愛する女よりも、己の命を大切にしている男だと思われていることが、苦しい。
たとえ、これまでの自分の行動が悪いのだとわかっていても。
唇を噛み締め、俯いてしまった夫の顔を、グレーテがそっと覗き込む。
「あの、マティアス様。本当に大丈夫なんですよ。ただ、そういう時期なだけで」
「そういう時期ってなんだ!」
情けない自分を誤魔化すように、マティアスが厳しい口調で問えば、グレーテはふんわりと柔らかく微笑んだ。
その笑みは、長く時間を共にしたマティアスでも見たことがないような、慈愛溢れるもので。
思わず見惚れてしまったマティアスに、グレーテはさらに追撃をしてきた。
「つまり、妊娠中の典型的な症状、ということです」
「――――は?」
「いやあ、確信したのは最近なんですけどね! このところやたらと胃がムカムカして下腹部がチクチクと痛くて。あー、そういえば月のものが来てないなあって。やっぱり妊娠中って食べ物に気を遣わないと貧血になるんですねぇ。もともと血の気が少ないほうなので気をつけないと、とは思っていたんですが。勉強になりました!」
いつもの通り、好奇心に目を輝かせるグレーテに、マティアスの思考が追いつかない。
「これからの自分の体の変化が楽しみです! やっぱり自分で経験してみないとわからないことってありますもんね」
「…………」
それからグレーテは幸せそうに愛おしげに、そっと己の下腹を撫でた。
つまりは、そこにいるのだ。
「お前と、僕の子……」
「そうですよ。なんせ私の周囲には一切男性がいませんからね。間違いなくマティアス様の子です」
そう言ってイタズラが成功した子供のように笑うグレーテの唇に。
マティアスは思わず己の唇を押し付けた。
何度も何度も繰り返し口付けて、それからグレーテの体を潰さないように、優しい力で抱きしめる。
喜びが胸から溢れ出て止まらない。
神の祝福を得られないはずの自分に、子ができるのだ。
しかも、誰よりも愛している女の子供が。
「あら? マティアス様ったら。泣いてるんですか?」
気がつけば、グレーテのシュミーズドレスの肩が濡れていた。――マティアスの目から、次々に涙がこぼれ落ちるせいで。
黙っていればいいものを、空気を読まずにわざわざ口に出すあたりが実にグレーテらしい。
「ふふふ。私もお母さんになりたいという夢が、叶いそうです。ありがとうございます、マティアス様」
グレーテの言葉も、どこか涙交じりで。
「礼を言うべきは、僕だ。……ありがとう、グレーテ」
顔を合わせて、涙を溢しながら新たな命の訪れを喜び合う。
地獄に落ちるべき人間なのに、二人は今、どうしようもなく幸せだった。
「すぐに結婚誓約書を書くぞ。僕の子を非嫡子にするわけにはいかないからな」
半年後に結婚式を控えていたが、それは延期だ。妻と子の体調が優先である。
すぐに書記官を呼び出し、書類の準備をさせる。
「そして医師は呼ぶ。ちゃんと診てもらえ」
近くで二人と同じように喜びの涙を流していたアイリスに、マティアスが命じる。
一つ頭を下げて、飛ぶように部屋を出ていくアイリスを見やりながら、グレーテがまた不服そうな顔をした。
「これでももともと薬師だったんですよー。これまで何人もの妊婦さんを診察してきましたし、赤ちゃんを取り上げたことだってあるので、大丈夫です」
「だめだ。お前のことは、万全を期したい」
妊娠出産は、安全ではないのだ。妊娠出産で命を落とす女性は少なくない。
「……確かにそうですね。三人分の命ですし」
グレーテとマティアスと、そしてお腹の子供と。
グレーテはそう言って、困ったように笑って診察を受け入れた。
国王の命令だと血相を変えてやってきた侍医によって、グレーテの妊娠が確認された。
やはり貧血気味であるため、鉄分の多い食事を取るように、との指示を受けた。
「二人分の血を作らなきゃですもんねえ……」
当初不服そうだったのに、俄然目を輝かせたグレーテは、医師を質問攻めにしている。
やはり医学や薬学が好きなようだ。相変わらずの妻に、マティアスは苦笑した。
「楽しそうだな」
「だってこの国では医師の数が少ない上に貴族に囲われてしまっている場合が多く、平民では診察を受けることができないので……!」
こんな機会は滅多にないと、一国の王妃となるはずのグレーテは大興奮だ。
「医師に診てもらえない平民は、怪しい民間療法に手を出して余計に悪化させてしまうことも多いんです……」
「なるほど。ならば平民まで医療が行き渡るよう、医師を養成する仕組みを模索してみよう」
するとグレーテは「それは素敵ですね!」と嬉しそうに笑った。
不治の病に冒されていたとき、身体中をこねくり回された経験を持つマティアスとしては、医師に対し若干の苦手意識があったのだが。
おかげでグレーテに会うまで生き延びることができたと思えば、確かに感謝しかない。
多くの人が正しい医療を受けることができれば、いずれは国力にもつながるだろう。
様々な構想を語り合っているうちに、グレーテの顔色がまた徐々に悪くなってきた。
やがて口元を押さえ、俯き動かなくなってしまう。
「グレーテ。大丈夫か?」
「…………」
話す余力もないようだ。すると医師がアイリスに桶を持ってくるよう指示をする。
桶が運ばれてすぐに、グレーテが嘔吐を始める。マティアスは慌てて彼女の背中をそっと撫でた。
「悪阻でしょう。体質によりますが、これから何ヶ月かは続くかと」
「そんなに続くのか……?」
医師に言われ、マティアスは驚く。思った以上に長く、グレーテの体調不良は続くらしい。
吐くものがなくなったグレーテが、ぐったりと寝台に沈み込んだ。
マティアスはこれ以上グレーテが興奮しないよう医師を下がらせ、胃が空っぽになってしまった彼女のために消化の良い食べ物を持ってくるよう、アイリスに指示した。
部屋に二人きりになると、グレーテの白く細い手を握り締め、額に戴く。
「――お前の痛みや苦しみが、全て僕のものになればいいのに」
どうせ長き闘病生活や、戦場生活で痛みや苦しみには慣れているのだ。
「代わってやりたい……伴侶魔法で痛みや苦しみまで共有できたらよかったのに」
するとグレーテは目を大きく見開き、それからその目に涙を浮かべた。
マティアスは自分の命を惜しんでいるのではない。
ただグレーテを愛しているからこそ心配しているのだと。そう気付いたのだろう。
それでなくとも脱水気味だというのに、これ以上体の中の水分を減らしてどうすると、マティアスは慌てる。
「私の痛みは、私のものです。あげませんよ」
それからグレーテはそう言って、ふんわりと笑った。
「でも、大切に思い合えるのって、幸せなことですね」
互いの痛みを分け合いたいと思うほどに。
かつて全く同じことを、マティアスに伝えたことを思い出したのだろう。そして、そのときの自分の思いも。
マティアスの手を取り、グレーテは自らの下腹にそっと当てる。
そこにいるのは、二人が愛し合い、慈しみ合った結晶だ。
「生まれてくるのは春かしら。楽しみですねぇ」
「……ああ」
マティアスの目もまた歓喜の涙で潤む。
そして二人はこれから先の幸せな人生を思い、微笑み合い、口付けを交わしたのだった。