純愛の過去、淫愛のいま
冬の陽慶殿の庭園には足首のあたりまで雪が積もっていた。一面が白い銀世界のなか、蝋梅や水仙、寒椿が咲きほころび、花びらの上に雪をのせている。
璃々は四妃に譲られた薄紅色の襦裙に、獅苑から下賜された袖のゆったりした狐白裘――狐の白い皮で作られた軽くて暖かい上着を羽織り、花々をひとつひとつ、じっくりと見ていった。
宮殿の中に飾る花を探しているのだ。つまりは皇帝である獅苑の無聊を慰め、目を楽しませるもの。なるべく美しく、大振りで、ひとつの枝にたくさん花がついているものがいい。
念入りに品定めしていると、宮殿の外の回廊から麗しい声が聞こえてきた。
「璃々、何をしているんだい?」
振り向かなくても声でわかる。獅苑だ。屋内は暖房で充分温められているためだろう。上着もまとわず、腕組みをして肩を縮めている。
「そこは寒いだろう。お入り」
北の山中で育った璃々にとっては、都の真冬も早春のようなもの。さほど寒いとは思わないが、それでも大好きな獅苑にそう言われると、何もかも放り出して応じたくなってしまう。観察した中で最もいいと思われた寒椿の枝を鋏で切り取ると、璃々は小犬が主人に呼ばれた時のように、弾む足取りで宮殿に向かった。
庭園へ下りるための石段のところで革の長靴を蹴るようにして脱ぎ、刺繍の入った屋内用の靴に履き替えてまっすぐ獅苑のもとへ駆けていく。
「これを獅苑様のお部屋に飾ろうと思って」
寒椿の枝を見せると、獅苑は「いいね」と答えた。
「でもおまえに風邪をひかせるくらいなら、しばし花がなくてもかまわないよ」
「風邪なんかひきません。全然寒くありませんから」
「いいから、中にお入り」
肩を抱き、彼は璃々を押し込むようにして部屋の中に入れる。
宮殿の主だった部屋は、床下にかまどから出る排熱が流れているため足下から暖かい。獅苑はそれでもまだ足りないとばかり、璃々を黒檀の榻(ながいす)に座らせ、上着を三枚もかけてきた。そして「じっとしていなさい」と言い置き、自分は窓際に置かれた花瓶に寒椿を飾ると、隣りの部屋から盆にのせた茶器一式を持ってきたりする。
「それは宮女の仕事です……っ」
困惑と共に立ち上がろうとした璃々を「いいから」と制し、彼は榻の脇にある小卓に盆を置いた。
「まったく。姿が見えないと思ったら、そんな薄着で雪の中にいるのだから」
「私は山育ちですよ? 寒さには強いから本当に平気なんです」
「鼻の頭も頬も耳もそんなに真っ赤にして、何を言うのやら」
「えっ!?」
思わず両手で顔をはさむ。それはまったく考えていなかった。恥ずかしい。
早く元に戻さなければと、璃々はかけられた上着を引き上げて頭をすっぽりと包み込む。柔らかく温かい上着は、どれもかすかに蘭麝の香りがした。獅苑の匂いだ。璃々はこっそり、すーはーと胸いっぱいに匂いを吸い込む。
「璃々、ほら。お茶を飲むといい」
上着の外で穏やかな声が響く。しかし年頃の娘としては、鼻の頭や頬や耳が真っ赤な顔を、想う人に晒すわけにはいかないのである。
上着をかぶったままでいると、小卓の上に茶器を置く音がした。そして獅苑は上着ごと璃々を抱きしめてくる。
「早く温まるよう手伝おう」
彼の腕と体温を感じ、鼓動が速まる。心地よさにうっとりと目を閉じ、璃々は静かにつぶやいた。
「獅苑様は本当にお優しい」
本来は宮城で至高の権力を振るえる立場でありながら、翼をもがれた鳥のように後宮に閉じ込められ、あらゆる権限を奪われている。そんな中でも自暴自棄になって周囲に当たり散らすなどという醜態とは無縁。いつも冷静かつ穏やかで、立場の弱い者への気遣いを忘れない。また特に親しいとはいえ、璃々のような一介の宮女を心配し、手ずからお茶までいれてくれるなんて。
優しくて立派な人だ。そんな賛辞を込めたつもりだったが、獅苑は不満だったようだ。三枚の上着越しにぼそりと言う。
「『優しい』は、男への誉め言葉としては微妙だな」
「そんなことはありません。人を魅了する大事な才能です」
「だが現に優しいだけの男は、女性と親しくなることはあっても慕われることはない」
ぼやきまじりのつぶやきに、璃々はドキドキしながら返した。
「わ……私は強くて優秀で優しくない人より、優しいだけの男の人が好きです」
これはもはや告白である。口にするのにはとても勇気が必要だった。しかし。
「おまえは優しい子だ」
あっさりと流された璃々は、そうじゃない! という思いから三枚の上着を跳ねのける。
「私は獅苑様が大好きです!」
ケンカ腰に告げると、獅苑はうれしそうに破顔した。
「私も璃々が大好きだ。だから片時も離れず、傍にいておくれ」
穏やかに言いながら、ぎゅうっと抱きしめてくる。
(だから! そうじゃないのに!)
心の中でそう歯噛みするも無駄である。おそらく獅苑はそうでないことを知っていながら、あえて知らないふりをしているのだから。
(なんてずるい)
ひとまわりも年上の相手の抱擁を、璃々は腕で振り払った。
「もう!」
頬をふくらませて怒る璃々の顏は、寒さとは別の理由で真っ赤に色づいているはずだ。にもかかわらず、獅苑は平気な様子で楽しそうに笑っている。
「璃々を妻に迎える男は世界一の幸せ者だな」
そんな戯言を口にして。
四妃たちは、獅苑がこんなふうに笑うのは璃々といる時だけだと目を細めて見守る。「時間の問題ですよ」と折にふれて璃々を励まし、含みのある笑みを見せる。
「あなたの願いは遠くない将来、かなうでしょう」
彼女たちは何を言っているのだろう。
璃々の願いは獅苑と結ばれることだけ。他に望みなんてない。恋情のまま彼にかき抱かれ、口づけられ、愛していると言われたならどれほど幸せか。ただそれだけを夢想する毎日だというのに。
なのに現実は、子供のように彼に心配され、世話をされるだけ。もう十三歳の少女ではないのに。花も恥じらう十七歳であるというのに、あまりにも情けない。
だがそんな不満も、上着をかけ直して獅苑にもたれかかっているうち、次第に重くなるまぶたと共にとろとろと溶けていくのだが。それにしてもぬくい。幸せ……。
◇ ◇ ◇
「あの頃は本当に、どうすれば私の気持ちを正しく理解してもらえるのかと悩む毎日でした」
夫婦の営みの合間にふと昔のことを思い出し、璃々は恨めしい思いでつぶやく。一糸まとわぬ熱い身体を背後から抱きしめていた獅苑が、苦笑交じりに応じた。
「昔は自分の気持ちに気づいていなかった。おまえを妹のように愛しているのだと思い込んでいたんだ」
「妹ですか」
「あぁ。私にとって、金銀よりも珠よりも玉座よりも何よりも大切な、己が手にしている中で最も値高いものだった」
昔を懐かしむように言いながら、大きな手のひらが戯れに胸をまさぐる。硬くなった先端をいじられ、切なく身をよじる璃々の肩に口づけて、獅苑は抱きしめる腕に力を込めてきた。
「だから戯れに手折るわけにはいかないと考えていた。きれいな身体のまま後宮から出してやらなければならないと」
昔の記憶のひとつひとつを愛おしむように、彼は汗ばんだ璃々の背中に音を立ててくり返しキスをする。敏感な個所に集中的に口づけを受け、璃々の肩が震えた。熱い吐息がもれる。
「獅苑様……っ」
「愚かにもそんなことを考えていたんだ」
「ぁンっ…」
璃々の耳元で低くささやき、敏感な耳朶をぬるりと舌で舐ると、彼は喉の奥で笑った。
過去に長く耐えた反動とでもいうのか。夫婦となった今や彼は毎晩のように璃々を求めてくる。
背後からまわされる腕は、抱きしめるというよりも絡みつくという方が正しかった。もたらされる快楽から逃れようとあがく璃々を捕らえ、自分の欲望の淵に堕とすべく淫靡に蠢く。
「……ぁっ、あぁっ……」
すでに濡れそぼった花びらを長い指先でかき分け、雌蕊を転がされ続ければ、ほどなく腰がうねり出す。
「予想は正しかった。璃々を妻に迎えた私は世界一の幸せ者だ」
言葉は穏やかで優しい。だが一度始まれば行為は激しく執拗で、璃々が音を上げるまで求めてくる。若く体力のある璃々はそうそう降参することがなく、最終的には我を忘れて宮殿中に響くほど淫らな声を張り上げるはめになる。今は毎晩そんな状態だった。
本当に恥ずかしい。けれど大人である夫の本気を受け止める至福にはかなわない。
「私も幸せです、獅苑様」
情欲にうるんだ目で訴え、ねだるように腰を振る。夫から余裕を奪い、欲求をふくらませるため、蜜洞をかき混ぜる指を甘く淫らに絞めつける。
「ずっと、ずっと、あなたが欲しかった……っ」
懇願とも告白ともつかないはしたない声を響かせたとたん、張り詰めた欲望が埋め込まれてきた。嬌声を迸らせながら、璃々は深い充溢感に陶然と背筋をしならせる。
四妃の見立ては正しかった。過去の自分に伝えたい。
焦らなくていい。あなたの願いは遠くない将来、かなうから。獅苑の優しさを恨めしく思うのはほどほどに。
あなたはきちんと感じているはず。彼が心からあなたを大切にしていることを。
手折るだけが愛情ではない。相手に選択の余地を残すこともまた愛なのだから。
ゆっくり、時が来るまで彼への想いを育てていなさい。
猛る獅苑と深く口づけ、身も心もひとつになって至福の極に浸りながら、璃々は手ごわい初恋に悩まされ続けた過去の自分を励ますように心の中で深く抱擁した。