「完璧王子」の新たなる試練
フーヴベルデ王国の王太子、エセルバートは「完璧王子」として国内のみならず、近隣諸国まで知れ渡っている。
細身の体躯と輝かんばかりの美貌、そして知の国の王子に相応しく明晰な頭脳と広い知識を持ち合わせている。その上、剣の腕前は本職の騎士と遜色ないらしい。
不愛想なのが玉に瑕だが、それすらも硬派で素敵だともっぱらの評判だった。
そんな非の打ち所のない彼が、今まさに絶体絶命の危機に陥っていた。
上等な翠玉【エメラルド】を連想させる瞳を潤ませながらエセルバートはソファーに座っている。微動だにしないその姿は、一流の職人が手掛けた彫刻のようにも見える。
隣に座るアーシェリアは硬直している夫を一瞥してからテーブルへと手を伸ばした。優雅な仕草でティーカップを手に取り、淹れたてのハーブティーを一口飲んでからにこりと笑みを浮かべる。
「やっぱりとても美味しいです。取り寄せてくださってありがとうございます」
「……よかった」
このお茶は遥か東方の国からやって来た。交易品候補して取り寄せた品の中にごく少量だけ入っていたのを、王太子妃が一口飲むなり「美味しい!」と声を弾ませたのだ。
入手困難なハーブがふんだんに使われているせいで値が張る上に、緑豊かなフーヴベルデはお茶の類に不自由していない。リストに目を通した王太子はすぐさま「不要」のチェックをつけたが、この一言で一転し、「最優先」のマークが欄内いっぱいに書きこまれた状態で戻された。
あれから三か月が経っている。先週、待ちに待った第一便が到着し、そこから念入りな検品を経て王太子夫妻のティータイムにようやく供された。
「エセル様も熱いうちにお飲みになってください」
「うぅ……」
エセルバートは妻の勧めを断るような男ではない。むしろアーシェリアの望みならなんでも叶えようとするくらい甘いのだ。貴族の間では領地での懸案事項はまず王太子妃に相談した方がいい、という噂が流れているほどである。
普段の彼であれば、すぐさまティーカップを手に取っていただろう。
だが――今日に限ってはなかなか手を伸ばそうとしなかった。
助けを求めるかのように壁際に控える侍従や護衛騎士へと視線を向けるが、誰もがすっと目を逸らして気付かないふりをする。
本来であれば主君に対する態度ではないし、下手をすれば不敬罪に問われかねない。だが、今回は事前に王太子妃から「手助け禁止」を言い渡されている。
「もしかして、このお茶は気に入りませんでしたか?」
「そんなことはないっ!」
エセルバートが即答する。勢いよく振られそうになった頭は中途半端な位置で突如として止まり、端整な顔がくしゃりと歪んだ。
「アーシェ……お、お願い……もう、ゆるし、て…………っ!」
真っ白な肌を蒼褪めさせ、唇を震わせながらエセルバートが懇願する。だが、彼の妻はすまし顔でカップを傾けると、お気に入りのハーブティーを堪能していた。
「駄目です。無駄な抵抗はやめてください」
「だけど、このままでは……!」
「ですから、汚しても構わないと言っているではないですか」
エセルバートとアーシェリアは正式な夫婦となった後、紆余曲折を経て心を通じ合わせた。想いを隠すことなく過ごせる幸せな日々を送っている。
だが、アーシェリアはたった一つだけ――大いなる不満を抱えていた。
夫から嫌われていると思っていた頃、心の距離を縮めようと様々な手段でコミュニケーションを取ろうと奮闘していた。
その中にはハンカチやクラバットに手ずから刺繍を入れてプレゼントするという作戦もあったのだが、一度たりとも夫が身に着けることはなかったのだ。
後にその理由を知った時は困惑したものの、私室に飾ってしまうほど大事にしてくれていたのは素直に嬉しかった。
だが、アーシェリアの手刺繍など所詮は素人の手習い程度である。美術品としての価値など皆無だというのに、立派な額へ収めてもらうのは居たたまれない。
そしてなにより、せっかく作ったのだから使ってほしい。エセルバートの胸元や襟を手ずから刺した模様が飾る姿を一度でいいから見てみたい。何度もお願いしてみたものの、夫は頑として首を縦に振らなかった。
だが、この程度で諦めるアーシェリアではない。直談判が通じないのであれば別の手段を考えるしかない。
そこで思いついたのが「在庫過多」作戦である。
飾るのを止められないのであれば、飾りきれないくらい贈ればいい。これを機にステッチのバリエーションを増やそうと毎日せっせと針を繰り、様々なバリエーションのクラバットを量産した。
エセルバート付きの侍従から壁の埋まり具合をこっそり教えてもらい、いよいよ飾る場所がなくなりそうだと報告を受けた矢先――疲れ顔の宰相・ブラッドリーがアーシェリアを訪ねてきた。
「王太子殿下が宝物殿を建てるようお命じになりました……」
なにを収蔵するつもりかなど確認するまでもない。しかも建設場所は国の宝物殿の隣を指定されたと言われ、さすがのアーシェリアも絶句した。
エセルバートにとっては宝物かもしれない。だが、そんな個人的な理由で王宮の敷地を使うのはどう考えてもおかしいし、「完璧王子」の名に傷がついてしまうだろう。
しかし王太子は周囲の制止には一切耳を貸さず、事を進めようとしているらしい。
事態は一刻を争う。
これはもう――強引な手を使うしかなさそうだ。
アーシェリアは覚悟を決めると宰相に王太子付きの侍従長を呼びだすよう命じた。
計画の準備は速やかに進められ、いよいよ決行の日。なにも知らないエセルバートが届けられたばかりのハーブティーを携え、王太子妃の私室へとやって来た。
迎えたアーシェリアはいつもと変わらない様子で夫をソファーへと誘う。その途中で受け取った茶葉を侍女に預け、すぐ淹れるように頼んだ。
そして、今まさに座ろうとしているエセルバートの腰に抱きつき、くるりと身体を反転させた。
「アー…………シェ? これは、どういう……」
「大人しくしていてくださいね」
夫を組み敷いたアーシェリアが微笑みながら襟元に手を伸ばす。そこで煌めくブローチの金具を外すと、綺麗な形に結ばれていたクラバットを素早く抜き去った。
トレイを手にした侍女が近付いてくる。外したものを預けると、中央に置かれていたものを代わりに手にした。
「まさか……それっ、は……!」
「はい。わたくしがエセル様のために作ったものです」
突然の事態に呆気にとられていたエセルバートだが、みるみる表情を強張らせていく。襟元に迫ってきた手を素早く掴み、頭が捩じ切れてしまいそうな勢いで首を振りはじめた。
「もうっ、動かないでください!」
「だっ……駄目だ! 皺になるし汚れてしまうっ!!」
やはり抵抗するのか。だが、この程度は想定範囲内だ。アーシェリアは膝にぐっと力を入れるとエセルバートが起き上がろうとする動きを封じた。さすがは武の国の出身、体術にも長けた王太子妃である。
「皺になる素材ではありませんし、エセル様は服を汚すような方ではないでしょう?」
手首をくるりと返して拘束を解くと、肩を押さえつつ夫の襟元に真新しいクラバットを巻いていく。
「完璧王子」は当然ながらマナーも完璧である。脱いだ服に食事のしみがついていたのは、王太子になって以降は一度たりともない、と侍従長から教えてもらった。
「アーシェ…………」
エセルバートの悲痛な声を無視し、アーシェリアは結び目の形を整えるのに集中する。左手でここを押さえてから、こうやって襞を作って……。何度も練習した手順を反芻しながら形を整えると、コンシャガイの貝殻が埋め込まれたブローチで慎重に留めた。
「ふぅ、できました!」
我ながらいい出来ではないだろうか。この作戦の成功を確信し、ようやくエセルバートの上から退いた。
マナーの先生であるコルサ夫人が見たら卒倒する光景だろう。忍び笑いを零しながら乱れた髪を手櫛で直す。そして隣を見遣れば、エセルバートは圧し掛かっていた時と同じ体勢のまま固まっていた。
「エセル様、起きてください。お茶が入りましたよ」
腕を掴んで引っ張っても、やはりそのまま身体が浮いてくる。仕方なくもう一度膝に乗り上がり、腰を曲げて座り姿勢を整えたのだった。
だが、エセルバートは生ける彫刻と化し――今に至る。
こんなに辛そうな顔をさせるつもりはなかった。
だけど、これからも手作りの贈り物は続けたいし、宝物殿を建てられるのも勘弁してほしい。心を鬼にしなくては、と思いつつ少しだけ助け舟を出すことにした。
「お茶が難しいようでしたら、焼き菓子はいかがですか?」
小さなクッキーを指で摘まみ、夫の口元へ差しだすと侍従達がぎょっと目を剥いたのを目端で捉える。
マナー違反なのは重々承知だが、今は慣れてもらうことがなにより重要なのだ。ひたすら待っているとようやく形の良い唇が薄く開かれた。そこにクッキーの端を滑り込ませると指先で押し込む。
しばらくしてからさくさくと音が聞こえてきた。
「もう一枚いかがですか?」
「……うん」
今度は砕いたナッツが練りこまれたものを差し出してみる。先ほどの半分の時間で覚悟を決められたらしい。悲愴な面持ちでクッキーを咀嚼するエセルバートを見つめ、満足げに微笑んだ。
「エセル様、とてもお似合いです」
今日の服装は侍従長と事前に決めてあった。クラバットにはそれと調和する色の生地を用意し、刺繍もバランスを考えて刺したのだ。
エセルバートはどんな服を着ていても素敵だが、今はより一層輝いて見えた。
「……ほんと、に?」
「はい!」
アーシェリアが即答すると翠眼が思案に揺れる。苦悶の表情を浮かべ、しばし逡巡してからエセルバートが酷くか細い声で囁いた。
「アーシェが、着けてくれる……なら、頑張って、みる」
「本当ですかっ!? 嬉しいです!」
まずは週に一日。様子を見て着用の回数を増やしていくという約束を遂に取り付け、アーシェリアは心の中で諸手を上げて飛び跳ねていた。
これで宝物殿建設は回避できたらしい。作戦の成功を知らされたブラッドリーから涙を流さんばかりに感謝された。
かくして――普段から不愛想な「完璧王子」が週に一回、より一層険しい顔をする日が発生した。
そしてその日は決まって必要最低限の執務を済ませると、さっさと居室へ戻ってしまうという噂が王宮には流れたという。