ソーニャ文庫

歪んだ愛は美しい。

会員限定特典小説

女子会

 久しぶりにエマリーと食事する約束の日を、レノは数日前から心待ちにしていた。
 何せ結婚して配属部署が変わり、以前のように毎日彼女と顔を合わせられるわけではない。騎士団の食堂を利用する機会がめっきり減ったレノは、内心寂しさを抱えていたのだ。
「エマリー、ここよ!」
 だから店内に入ってきた友人を見かけた瞬間、思わず席を立って手を振った。そんなレノに苦笑しつつ、エマリーがテーブルを挟んで向かいの椅子に腰掛けてくる。
「そんな大きな声出さなくても、聞こえるって」
「だって、本当に今日を楽しみにしていたから……」
 レノがリュカと夫婦になってから三か月。まだ新婚家庭だ。新しい生活には慣れないことも多いものの、楽しいことの方が圧倒的に沢山ある。
 日々幸せを噛み締め、あらゆるものに感謝を捧げたいくらい充実していた。
 それでも独身時代のようにエマリーと気軽に飲みに行ったり夜通し語り合ったりできないのは、やはり寂しい。
 そんな時に『たまには女性二人でお喋りしてきたら? 僕が店を予約しておいてあげるよ。この先、子を孕んだらしばらく飲酒もできなくなるだろう?』と言ってくれた夫には、感謝しかなかった。
 ―――妻が出歩くことは勿論、仕事を続けることに難色を示す夫も少なくないのに……リュカ様の本質はやっぱり優しい。私のことをちゃんと理解しようとしてくれている。そ、それに実際いつ子ができてもおかしくないものね……!
 心底、『結婚してよかった』と思う。何なら、『こんなに幸せで大丈夫か』と不安になるほどだ。
 現在、レノはかつてのように訓練に明け暮れ、危険と隣り合わせで王都の治安に目を光らせてはいない。
 今の自分の仕事は、事務が主だ。それも、事情があって休職しなくてはならない団員のための窓口といったところだった。
「聞いたわよ、新しい試みの評判は上々みたいじゃない」
「うん。今までの女性騎士は、結婚や妊娠で辞めていくのが常識だったものね。でも仕事を続けたい人だって大勢いたはずなのよ、私みたいに。だから気兼ねなく一定期間休める制度や、子どもを預けられる場所が確保されていれば、離職率は抑えられるってわけ」
 国としても優秀な騎士をみすみす退団させるより、いずれ復帰を視野に入れて支援した方が利益は大きい。
 ゼロから一人前の騎士を育成するよりも、経験豊富な人材を活かした方が費用だって掛からないではないか。そう上層部にレノが持ち掛け、リュカの後押しもあって始まったのが長期休職とその間の補償制度である。
 レノは発案者ということで、その中心的役割を任されていた。
「予想外なのは、女性に限定せず、男性騎士からも好評だったことかな」
「まぁ考えてみれば、何らかの事情があって男手一つで子どもを育てている人はいるし、それ以外にも幼い弟妹を抱えていたり、病気の家族がいたりする場合もあるものね。本人が怪我や病で一時的に働けなくなる可能性だって高いわ」
「そうなの。でも今までは退団一択だったのよねぇ……退職金が出ると言っても、復帰できるなら猶予が欲しいじゃない?」
 レノの言葉にエマリーが大きく頷き、素早く店員を呼んでエールを注文した。
「分かるわ。これまでなかったのが、不思議なくらい。私もいずれ活用させてもらうわね。ありがとう、レノ。こんなに素晴らしい制度を取り入れている職場はなかなかないわよ。噂では来年の入団希望者が増えそうだって。人手不足解消の一因になっているわよ」
 そこまで影響力があるとは思っていなかったが、友人が褒めてくれるのは純粋に嬉しい。それに喜んでくれる人がいて、ひいては人々の役に立てるなら、それこそレノがやりたかった仕事である。
「やっぱり良い人材を集めるには、雇用条件が大事なのね」
 照れ隠しもあって冷静さを装いつつ、レノは運ばれてきたエールでエマリーと乾杯した。
 グイっとジョッキを呷れば、アルコールが喉を通過し、爽やかな刺激をもたらす。つまみは肉汁滴るソーセージ。
 それ以外にも、互いの好物は注文済みだった。
「明るいうちから飲む酒は美味しいわぁ。レノが結婚してから、女友達とは行っていないもの」
「私も久しぶり。気兼ねなく飲める相手って、限られているから……」
 貴族であり騎士団長であるリュカに相応しい妻であろうと、レノはどこか気負っていた。昔と違いあまり人目や評判を気にしなくなった夫ではあるが、彼の評価に傷をつける真似はしたくない。
 平民出身の女はやはり育ちが悪いなんて言われでもしたら、レノとしても気分が悪いのだ。
 ―――それに、周りが気軽に接してくれなくなっちゃったしね……
 エマリーやトニィのように態度を変えずにいてくれる人は大勢いる。だが、大半はレノを『ただの下っ端女騎士』とは見てくれなくなった。
 相手の階級が上であっても、へりくだる者までいる始末。ひどい時には、見え透いたおべっかですり寄られたこともある。レノの後ろにリュカを見ているのは明白だ。そのことにもどかしさを感じていた分、これまで通りのエマリーの言動が殊更ありがたかった。
「―――それで? 新婚生活は順調? リュカ団長は普段どんな感じなの?」
 エマリーがにんまりと口角を上げながら、目を細める。それはレノを冷やかし、揶揄う色を隠せていなかった。
「ど、どうって……別に、普通だよ」
「はい、嘘ぉ。レノと結婚して以降、リュカ団長ってば無駄な愛敬を振り撒かなくなったじゃない。もうあんたしか見えませんって感じで。前の誰にでも親切な団長も悪くなかったけど、唯一大事な人を特別扱いするのはもっと素敵だってもっぱらの噂よ。白状なさいよ。リュカ団長、家ではすごいんじゃないの」
「す……っ?」
 咄嗟にレノの頭に思い浮かんだのは、昨夜のことだ。
 昨晩もベッドで情熱的かつ執拗に求められ、大変だった。服で隠れる場所には、あちこち赤い痕が残されている。
 思い返すだけで顔が真っ赤になり汗が噴き出す。到底口に出せない映像を麗らかな昼日中に妄想しそうになり、レノは慌てて頭を左右に振った。
「すご……っ、すごくない! 普通だってば!」
「愛情表現激しそうなのに、違うの? あの方、サラッと『愛している』とか日常的に言っているのかと思ったわ」
「ぁ、そ、そういう意味……」
 てっきり夜のことに言及されているのだと勘違いし、レノは大いに動揺した。危ない。もう少しで言わなくていいことを勝手に暴露するところだった。
「んん? もしかして、あっちの話だと思った? いくら私でも会って早々真昼間からは無理よ。せめてもう少しお酒を投入してからじゃないとね」
「や、違うったら!」
 藪蛇である。藪を突くどころか、自ら飛び込んでしまった。勘の鋭いエマリーは意地の悪い形に口の端を吊り上げる。しかも「今日のお酒は特別美味しい」と宣うではないか。
「レノがどうしても話したいって言うなら、聞くけど?」
「だから本当に違うの!」
 ニヤニヤとしたエマリーが、さも楽しげに首を傾げる。完全にレノを肴にするつもりだ。こういう時の友人は、簡単には許してくれないことをレノは知っていた。
「仲がよろしいことで……」
「恥ずかしいから、やめて……!」
「レノのそういう姿、初めて見るから新鮮だわ。今までは『恋愛事なんて関係ありません。興味もないです』って感じだったのに。大人になったのね」
 意味ありげに感慨深く言われ、恥ずかしくて顔が真っ赤になる。レノは自らの手で頬を覆い、テーブルに突っ伏した。掌に伝わる熱は、かなり高い。汗ばんでいるらしく、居た堪れなさは加速する一方である。
「―――で? 実際のところどうなの? リュカ団長は愛妻家なの? それとも案外あれこれ命令してくるタイプ? もしかして甘えん坊じゃないわよね? たまにいるじゃない。外では『俺についてこい』なのに二人きりになった途端、子どもになる人。私、そういうの苦手なのよ」
「リュカ様は違うわよ! いつも頼り甲斐があって如何なる時も素敵だわ」
 レノは羞恥に悶えていたが、リュカの名誉のために顔を上げた。
 間違っても彼が家では甘えん坊だなんて思われたくない。そりゃ、レノにだけ見せてくれる笑顔や態度は蕩けるほど濃厚に甘々ではあるけれども、似て非なるものだ。誤解は早いうちにきっちり解いておかなくては。
「リュカ様は私を大切にしてくださるし、二人の時間をとても大事にしてくれる。多少理解しきれない部分もあるけれど、真剣に話せばきちんと耳を傾けてくださるわ。意見が食い違う時には腹を割って話し合い、落としどころを見つけようと頑張ってくださるのよ」
 勢い込んでレノが言い募れば、エマリーが一度見開いた目を三日月形に変えた。そして艶やかに微笑む。
「惚気るじゃない。レノが幸せそうで安心したわ。色々好き勝手言う人も多いし、あんたも秘かに気にしているみたいだから心配していたの」
「あ……」
 どうやら親友は、レノがリュカとの結婚で気負っている部分があるのをお見通しだったらしい。そこで彼女なりに探りを入れてきたのだと思い至った。
「二人が上手くいっているって分かって、ホッとした。レノが無理しているなら、リュカ団長に一言もの申してやらなきゃ気が済まないって思っていたのよ。レノが辛抱強く黙っているからって、平気だということにはならないんだぞってね」
「そ、そんなことしなくて大丈夫。……でも、ありがとう」
 友人の心遣いが胸を温もらせる。本当に自分は素晴らしい友達を持ったと涙腺が緩んだ。
「ちょっと、涙ぐまないでよ。ああ、もう。私も結婚したくなってくるわ」
「エマリーなら、すぐに立候補者が列をなしそうだけど」
「一人を選ぶのは、難しいのよ。これっていう決め手に欠けていてね。妥協はしたくないでしょ。でもレノのおかげで結婚後の選択肢も増えたし……もう少し条件を緩和してもいいかもしれないわ」
 気心の知れた友人との会話は楽しい。久しぶりの飲み会は、大いに盛り上がった。
 その後も思う存分お喋りに興じ、レノとエマリーが解散したのはすっかり日が暮れてからだ。
 昼食のつもりで集まったのに、最終的に何時間も店に居座ったことになる。幸いリュカが予約してくれた店だからか、嫌な顔をされなかったことが救いだ。料理は美味しく雰囲気も良かったので、是非また行きたい。
 適度に酔いが回り、レノはご機嫌で帰路についた。この時間、多忙なリュカはまだ帰っていないと思ったのだが。
「―――お帰り。楽しかったみたいだね。とてもいい顔をしている」
 彼は先に帰宅しており、にこやかにレノを出迎えてくれた。両腕を広げ笑みを向けられれば、思わず夫の胸へ飛び込まずにはいられない。心地よい酩酊感も相まって、レノは愛しい人へ抱きついた。
「ただいま戻りました」
「随分盛り上がったみたいだ。酔っている君を見るのは珍しい。レノが上機嫌なのは嬉しいけど、僕が引き出した笑顔じゃないのは、やや面白くないな」
「まさかエマリーに嫉妬ですか? でも元を質せば、リュカ様のおかげですよ? だって貴方がエマリーと遊んできてはどうかと言って、店の予約までしてくださったんですし」
 かつての彼なら信じられない変化だ。
 レノの女友達にやきもちを焼き、微かに拗ねてもいる。それでいて妻が楽しげなのを喜んでくれてもいた。複雑で難解。おそらく彼自身も消化しきれていない。今までは持つ必要がなく、存在自体知らない感情であったために。
 不器用だ。だがそういうところも愛しいとレノは思う。
 リュカが今抱いている感情を、正直に告げてくれることにも歓喜が募った。レノに伝えようとして、真剣に向かい合っている。面倒だと切り捨てることなく、言語化しようと努力してくれているのだ。
「私、幸せです。誇りを持てる仕事があって、最高の友人と信頼する同僚たち、そして誰より愛する貴方がいて……」
「幸せ?」
「はい。リュカ様も同じ気持ちだと、嬉しいです」
「……レノがただいまと言って、僕の元に帰ってきてくれるのを見るのは、とても気分がいい」
 彼がこちらの頭を撫でてくれるのが心地いい。レノの伸びた毛先は、今や肩をゆうに越えた長さになっている。リュカは赤毛を指に搦めるのが好きらしく、隙あらばレノの髪に触れてきた。
「私も、リュカ様がお帰りと出迎えてくださって、夢みたいだと思いました」
「だったらこれからは、できるだけ君より早く帰れるようにしようかな。レノを毎日家で待つのも悪くない」
「無理は駄目です。騎士団の皆が困惑してしまいますよ。それに―――たまにだから特別感があっていいんじゃありませんか? ものすごいご褒美をもらった気分になれます」
 彼の腕がレノの背中に回ってきて、抱きしめられる。大好きな人の大きな身体に包み込まれる感覚は、何度味わっても安心する。レノは、ほうっと息を吐いた。
「僕がたまに君を出迎えるだけで、レノは喜んでくれるのか?」
「愛しい人が待ってくれているなんて、幸せに決まっています。最高に贅沢じゃありませんか。安心する居場所が自分の帰る家だなんて、毎日至福を味わえます」
「そうか……確かに僕もレノが家で待っていると思うと、いつも早く帰りたくて仕方ないな」
 頭上からリュカの笑い声が降ってくる。作り物でも、皮肉なものでもない朗らかな声音。
 それがとてつもなく幸福感を膨らませ、レノは満面の笑みで夫を見上げた。
「それが『愛している』ということです」
 心を込めて告げれば、リュカが「なるほど、悪くない」と呟き微笑んだ。

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