貴公子は負けず嫌い
──その日、ルチアはシオンと二人で、彼の馬に乗って騎士団の訓練場を訪れていた。
二人はもうじき公爵領を出て王都に引っ越すことになっている。
王都では忙しくなることが予想されるため、今のうちに二人きりの時間を過ごそうとあちこち出かけているのだ。
「なぁ、ルチア。こんなところに来ても楽しくないと思うぞ」
ところが、今日のシオンはいつもと様子が違う。
朝、サブナック家の屋敷を出るときから憂鬱そうで、今もあまり乗り気ではなさそうだった。
騎士団の訓練場に行こうという話になったのは、昨夜のことだ。
寝る前にシオンが『明日、どこか行きたいところはあるか?』と聞いてきたので、長年彼が所属していた騎士団のことが頭に浮かび、ルチアはさほど深く考えずにこの場所を口にしていた。
──もしかして、シオンは騎士団の誰かと喧嘩でもしているのかしら……。
ルチアは頭を横に傾けて彼の様子を窺う。
シオンはやや気まずそうに目を逸らして愛馬から降りる。ルチアがその姿をじっと見つめていると、彼は手を伸ばして馬から下ろしてくれた。
「……本当に行くのか?」
「え、えぇ」
「別に無理しなくていいからな。そもそも今日は訓練がない日かもしれないし」
「無理なんてそんな……。私は、シオンがずっと過ごしてきた場所を見てみたかっただけで、騎士団の方たちとお会いしたいわけではないのですが……」
「そうなのか? ……いやしかし、やっぱりこんなところ、面白いことなんて何もないと思うんだが」
ルチアの返答に、シオンはことごとく後ろ向きだ。
これまで二人であちこち出かけてきたが、どちらかと言えばシオンのほうが乗り気だったから、こういう反応をされるとは思わなかった。
──そんなに行きたくない場所だったなんて……。
ルチアの気持ちは一気にしぼんでいく。無理強いしてしまったのかと思うと、みるみる罪悪感が膨らんでいった。
「……ごめんなさい」
「え?」
「悪気はなかったんです。騎士団はシオンにとって思い出深い場所だと思っていたから、そこまで来たくなかったとは考えつかなくて……」
「い、いや、その、そうではなくてだな」
「本当にごめんなさい……」
「ル、ルチア、なんでおまえが謝るんだよっ」
「だって……」
「違うんだよ。ルチアの気持ちは俺も嬉しいと思ってるんだ。ただ、ルチアと一緒のところを連中と鉢合わせたくないというか、嫌な予感しかしないというか……」
「そう…なのですね……」
シオンの答えに、ルチアはか細い声で頷く。
──シオンは、私と一緒のところを騎士団の方たちに見られたくなかったのね……。
自分は少し前まで『死神令嬢』などと噂されていた身だ。
もちろん、それは事実ではなかったわけだが、いまだそういう目で見ている者がいたとしてもなんら不思議ではない。ルチアが騎士団の訓練場に行きたいと言ったのは、自分の知らない場所でシオンがどう過ごしていたのか見ておきたいと思っただけで、彼に迷惑をかけてまで強行したいわけではなかった。
「ルチア、またおかしな誤解をしてるだろ」
「誤解なんて……」
「だったらなんでそんな顔するんだよ」
「……」
「わ、わかった! なら、こうしよう。訓練場に人がいてもいなくても、ぐるっと敷地を一周だけしよう。それなら雰囲気だけでも味わえるだろうしな。それでどうだ?」
「……シオンがそれでいいのなら」
「よし、じゃあ行こう」
「えぇ……」
嫌がっているわりに、わざわざ敷地を一周してくれるのか……。
ルチアは訓練場の隅からその風景を眺められれば十分だと思っていたので、思った以上に彼がちゃんと案内してくれるとわかって密かに驚いてしまう。
とはいえ、シオンが乗り気でないのは変わらない。
折角二人きりなのに……、と、ルチアは内心肩を落としながら彼の手を取り、訓練場の出入り口へと向かったのだった。
「──なんだ、誰もいないのか。もしかしたら、今日は公爵家の庭で訓練しているのかもしれないな」
その後、二人はすぐに訓練場の敷地に足を踏み入れた。
しかし、辺りを見回しても人の姿はなく、シオンは安心した様子でほっと息をついていた。
──確かに、騎士団がこの場所で訓練しているとは限らないものね。
ルチアはふと、公爵家の屋敷に住んでいたときのことを思い出す。
あの頃は騎士団が公爵邸の庭で訓練している様子を自室の窓からよく見ていた。
シオンは屈強な騎士の中で一際抜きんでていて、誰かに負けるようなことは一度もなかった。
この訓練場に来たのはこれがはじめてだけれど、なんだか懐かしい気分だ。
だだっ広い敷地の中央部分は草木が生えておらず、しっかりとした土で固められている。騎士たちが普段からそこかしこで訓練に勤しんでいるのが想像できて、かつてのシオンが地道に鍛練を積む姿まで目に浮かぶようだった。
「ルチア、少し歩こう。まぁ、案内するほどの場所じゃないけどな」
「はい、お願いします」
訓練場に誰もいないとわかったからか、シオンは途端に元気になる。
先ほど言われたことを思い出すと少し胸が痛いが、下手に話を戻して明るい雰囲気を壊したくない。シオンと二人きりの時間を楽しみたくて、ルチアは気持ちを切り替えて歩きはじめた。
ところが、
「──おい、あれを見ろよ。あそこにいるのって、シオンじゃないか?」
「シオン? 本当だ、珍しいな」
少し進んだところで、どこからか声が聞こえてくる。
いくつもの足音も耳に届き、ルチアは何気なく声のほうを振り向く。
気のせいでなければ、誰かがシオンのことを噂していた。
見れば、訓練場の奥には建物があり、その建物から若い男たちがぞろぞろと出てきて、こちらに向かって歩いてきていた。
「……くそ、あいつら今日は休みじゃなかったのかよ」
すると、シオンがぼそりと何かを呟く。
小さく舌打ちをしていたが、ルチアが顔を向けると、ハッと息を呑んで唇を引き結んだ。
「ルチア、俺から離れるなよ」
「え? えぇ」
「それと、訓練場を出るまで俺のことだけを見てろ。やつらのほうは見るなよ。視線を感じても無視するんだ」
「やつら……?」
「わかったな?」
「は、はい」
勢いに押されて、ルチアはわけもわからず頷いてしまう。
シオンのほうは男たちからルチアを隠すように背を向け、わざとらしく空を見上げていた。
──シオン、突然どうしたのかしら……。
ルチアは言われるがままにシオンの顔を見つめる。
けれど、やはり建物から出てきた男たちが気になって、ルチアはシオンの腕越しからチラチラと訓練場のほうを見てしまう。
彼らは、騎士団の人たちではないだろうか。
そういえば、訓練場に隣接する場所に騎士団寮があると聞いたことがある。慣れた様子で訓練場に入ってきたことから、たぶん奥に見えるあの建物が騎士団寮だろう。
だとしたら、シオンが彼らに背を向けたのはルチアと一緒だと気づかれたくないからかもしれない。
だが、彼らは明らかにシオンに気づいている様子だ。
足音はどんどん近づき、やがて先頭にいた男がシオンの肩を突然がしっと掴んできた。
「ようシオン、久しぶりだな!」
「……」
「おいおい、ずいぶんな挨拶だな。まさか何年も寝食を共にした仲間を忘れたわけじゃないだろう?」
「何年も寝食を共にって……、俺は時々しか騎士団寮に泊まったことはないが」
「細かいことは気にするなよ。似たようなもんだ」
「ぜんぜん違う。おまえのような馴れ馴れしいやつと四六時中一緒だったと彼女に誤解されるだろうが」
「彼女……?」
眉を寄せて答えるシオンの言葉に、男は首を傾げる。
何気なく隣にいたルチアに視線を向けると、男は「あ…」と目を見開き、シオンの肩からぱっと手を放して姿勢を正す。ほかの男たちもルチアに気づくや否や、一歩下がって背筋をぴんと伸ばしていた。
「こ、こら、ドルジ! おまえたちも二人から離れろ……っ」
すると、後方から年長らしき男が駆け寄ってきて、慌てた様子で前に出てくる。
ため息交じりに男を後ろに下がらせると、ごほんと咳払いをして紳士的な笑みを浮かべた。
「……ルチアさま…、でしょうか? わざわざ訓練場まで足をお運びになられるとは光栄至極に存じます」
「あ、あの……」
「お初にお目にかかります。私は騎士団の副団長、ゴアと申します。団長は不在でして、代わりにご挨拶をさせていただきたく」
「副団長…、あ、その、突然来てしまって申しわけありません。皆さまの邪魔をするつもりはなかったんです。すぐに立ち去りますので…──」
「滅相もございません! 我々騎士団は王族の方々をお守りするために存在しています。騎士団の訓練を見学していただけるなど、これほど名誉なことはありません」
「え…、見学してもいいのですか……?」
「もちろんです! 是非御覧になっていってください。──シオン、久しぶりだな。よかったら君も見ていってくれ」
「……あ、いや、あの」
騎士団の副団長──ゴアは畏まった様子で胸に手を当て、にこやかに話を進めていく。
一方、予想外の展開にシオンは戸惑いを見せていたが、かつての上司相手に下手なことは言えなかったのだろう。数秒ほど言葉を詰まらせていたものの、「ゴア副団長、ご無沙汰しております」と挨拶して、そのまま騎士団の訓練を見学していくこととなった。
「……シオン、よかったのですか?」
「まぁ、こうなっては仕方ない……」
ルチアが小声で話しかけると、シオンは諦めた様子で頷く。
しかし、シオンはそこで先ほど話しかけてきた男やほかの騎士たちがにやにやしながら自分たちを見ていると気づき、さっとルチアの手を握って自分に引き寄せる。
その一方で、ルチアのほうは何も気づかず、皆がいる中で手を握られたことに頬を赤くしていた。
「整列──ッ!」
やがて、二人は訓練場の中央付近まで誘導されると、騎士たちはゴアの命令で列を作った。
今日は基礎訓練を予定していたらしいが、急遽予定を変更して手合わせをすることにしたようだ。
騎士たちはそれぞれ木製の剣を持ち、隣り合った者同士で戦って勝ち負けを決していく。
手合わせは各々の実力を試す場であるため、多少本気で打ち合うことも想定しているからあえて木製の剣を使用するのだろう。ルチアは公爵家の庭で繰り広げられていた懐かしい光景を思い出し、真剣な眼差しで対峙する騎士たちの姿を見つめていた。
「一同、はじめ!」
ゴアの一声で、騎士たちは一斉に剣を打ち合う。
気迫の籠もった声で前に出る者、その剣を冷静に受け止める者、初手から全力で飛びかかっていく者などさまざまだが、木製の剣とはいえ打ち合う音は鋭く、すぐ近くで繰り広げられる光景は迫力満点だ。
──あっ、肩に当たってしまったわ……。あぁ、鳩尾を突かれて痛そう……っ。
そのうちにそこかしこで勝負がつきはじめ、ルチアは身体に剣を当てられて顔をしかめる騎士たちについ感情移入してしまう。
けれど、勝利した騎士の一人がちらっとこちらを見たので、ルチアは戸惑い気味に会釈した。
すると、ほかの騎士たちも同じように見てきたので、そのたびにルチアはわけもわからず会釈していた。
そんなやり取りを何度か繰り返していると、不意に強く手を握りしめられる。
ルチアはハッと隣を見て肩をびくつかせた。
目の前で手合わせが繰り広げられているというのに、シオンは唇を引き結び、ルチアをじっと見つめていたのだ。
「……シ…、シオン……?」
一体どうしたのだろう。
問いかけるように首を傾げると、シオンは無言で目を逸らす。
それが少し怒っているように見えて、ルチアは彼の手を握り返した。
「あの、どうかしたのですか……?」
「……」
ルチアの質問に、彼は何も答えようとしない。
何か気に障ることでもしてしまったのか、考えてみるが思い当たることはなく、どうしていいかわからない。
「シオン、おまえも参加してみるか?」
そのとき、二人の様子を見ていたゴアが突然そんな提案をしてくる。
「もちろん、無理にとは言わないが、見ているだけでは退屈そうだったからな」
「……ゴア副団長」
ゴアの提案に、心なしかシオンの目つきが鋭くなった。
迷っているのか、彼はルチアと繋いだ手の力を強めたり緩めたりしている。
だが、彼はふと騎士たちのほうを見て、ルチアに視線を戻すと、ゆっくり手を放した。
「ゴア副団長、彼女をお願いしてもよろしいですか?」
「あぁ、存分にやってくるといい」
「はい」
思わぬ展開に、ルチアは何がなんだかわからない。
シオンは訓練場に来ることすら乗り気でなかったのに、いきなりどうしてしまったのだろう。
彼の目つきは鋭さを増し、闘志を燃やしているのが見て取れる。そんな様子をぽかんと見ていると、彼は唐突にルチアに顔を寄せてきた。
「ルチア」
「はっ、はい」
「俺は今からあいつら全員と手合わせをするつもりだ」
「え…っ!?」
「だから、その間、決して俺から目を離すなよ。今度こそ、俺だけを見ていろよな。俺の強さを見せてやる」
「……え」
「わかったか?」
「わ…、わかり…ました」
ここにいる騎士全員と手合わせを……?
とんでもない内容に、ルチアは驚きを隠せない。
しかし、同時に彼がなぜ闘志を燃やしているのかがわかったような気がして、何も言えなくなってしまう。
──もしかして、私がほかの男の人を見ていたから……?
先ほど、シオンは『訓練場を出るまで俺のことだけ見てろ』と言っていた。
それだけではなく、『やつらのほうは見るなよ。視線を感じても無視するんだ』とも言っていたのだ。
まさかと思いつつも、ルチアの顔はみるみる赤くなっていく。
シオンの嫉妬する姿を目の当たりにして、胸の高鳴りを抑えられない。朝から乗り気でなかったのも、噂を気にしていたからではなく、ルチアをほかの男の人に会わせたくなかったというだけなのかもしれなかった。
それから程なくして、シオンは騎士たちのほうへと進んでいく。
すると、先ほど話しかけてきたドルジという騎士がシオンに近づいてきて、一言二言会話すると、「本気かよ!?」と素っ頓狂な声が辺りに響く。しかしドルジはむすっとしたシオンを見てすぐに本気だと理解したのだろう。シオンの代わりに彼が周りに説明してくれて、ほかの騎士たちも驚きつつも歓迎しているのがそれとなく伝わってきた。
ややあって、三人の騎士が前に出てきて、シオンに木製の剣が手渡される。
まずはあの三人と手合わせするらしい。
ルチアは密かに全員まとめて相手にするのかと思ってひやひやしていたが、いくらなんでもそれはなかったようだ。
「──はじめ!」
青空の下、ゴアの一声が大きく響く。
その掛け声を切っかけに前代未聞の手合わせがはじまり、激しい撃ち合いの音が辺りに響き渡った。
「これは見物ですね。いつも冷静なシオンがこんなに熱くなるとは思いませんでした。ルチアさまの前だから、あんな一面を見せたのでしょうが」
「そ、そんな……」
ゴアに話しかけられ、ルチアの顔は一層赤くなる。
もしかして、ゴアはシオンが嫉妬しているとわかったから、いきなり訓練に参加することを提案してきたのだろうか。彼は、いつになく気合いの入った表情のシオンをそれは楽しそうに見つめていた。
「……ルチアさま、今日はありがとうございます」
少しして、ゴアは突然ルチアに感謝の言葉を伝えてくる。
しかし、ルチアのほうはお礼を言われるようなことをした覚えがない。
目を瞬かせていると、ゴアはシオンが次々と騎士たちを打ち負かしていく様子に目を細め、話を続けた。
「シオンは、皆の憧れでした。恥ずかしいことですが、我々公爵領の騎士団はやる気のない者が多く、そのような中で彼の強さへの憧れがその志気を高めてくれていたのです」
「ゴア副団長……」
「とはいえ、これからはやる気がないなどとは言っていられません。間もなく、我々は正式に王国騎士団の傘下に入ります。その前にこのような機会に恵まれ、皆も気が引き締まる思いでいることしょう」
「わ、私は何も……。むしろご迷惑だったのではと」
「そんなことは絶対にありません。ルチアさまがもし例の噂を気にされているのであれば、あのような話に惑わされる者はここには誰一人いないことだけは断言できます。あなたは、シオンが何年も密かに想い続けた特別な方なのですから」
「……え」
「ははっ、本人はばれていないつもりだったのでしょうがね。公爵家の庭で訓練したあと、ルチアさまの部屋に向かう彼の背中は、心なしかいつもそわそわしておりました」
ゴアの笑い声に、ルチアの頬は朱に染まった。
──ゴア副団長は、シオンの気持ちを知っていたということ……?
もしや、ほかの騎士たちも知っていたのだろうか。
だからゴアは『あのような話に惑わされる者はここには誰一人いない』と言ったのかもしれない。
──シオンはとてもいい仲間に恵まれていたのね……。
ルチアはシオンのいるほうをじっと見つめる。
騎士たちは、彼が相手を打ち負かすたびに歓声を上げていた。
湧きに湧く場の雰囲気にどうしようもなく胸が熱くなってくる。彼らが皆、シオンを応援しているとわかって涙が出そうなほど嬉しくなった。
「シオン、がんばって……っ!」
あの輪の中に飛び込みたい気持ちを抑えながら、ルチアはせめてもの思いで声援を送った。
すると、その声に気づいたシオンが僅かに顔を上げ、息を乱しながら右腕を掲げて応えてくれた。
歓声は一層大きくなり、訓練とは思えないほどの熱気に包まれていく。
やがて、騎士たちはルチアが前に行けるよう道を空けてくれて、一番いい場所でシオンを見ることができた。
ルチアは彼だけを見つめて声援を送り続ける。
ここには、『死神令嬢』などと自分を貶める者はいない。公爵家の自室から、シオンを見つめているだけの日々は終わったのだ。
この日のことは、きっと一生の想い出になるだろう。
負けず嫌いの彼が、心の底から愛おしくてならなかった──。