ソーニャ文庫

歪んだ愛は美しい。

会員限定特典小説

月夜の宴

 ――月が綺麗すぎるこんな夜には、踊ってみたくなる。



 ラヌレギア王国の王都――。
 幾重もの城壁が張り巡らされた王城の後宮のテラスで、ラスティンとガスタインは二人でくつろいでいた。
 今日は満月だ。
 手を伸ばせば届きそうなほど近くに、冷たく冴えた月が見える。
 青白い月明かりに照らされながら、二人はテラスにしつらえられた酒席で、ゆったりと酒を飲んでいた。床には分厚い絨毯が敷き詰められ、寝椅子も二つ配置されている。
 ラスティンが持つ盃の透明な酒の表面に、月が浮かんでいた。それを口に運ぶたびに、ラスティンは白き神からの祝福を受けているような気分になる。ラスティンは月の加護を受ける白き神の巫女だ。
 ガスタインを救ったあの日から、ラスティンは自分と白き神が見えない絆で結ばれているのを実感するようになっていた。だから満月の夜には、こうして月の光を浴びることにしている。そうすることによって、全身に力がみなぎるような感覚があるからだ。
 太陽の神であるガスタインのほうは、月光を浴びて何か効果があるのかはわからない。だけど、彼は雨が降らないかぎりラスティンに付き合ってくれる。こうして、柔らかな表情をして。
 ガスタインと同じ場所にいるだけで、ラスティンは特に言葉を交わさなくても満たされていくのを感じる。
 ――陛下は変わられた。
 それを日々感じる。
 ラヌレギア王国の農地は今年、豊かな実りに恵まれ、刈りとりの後に盛大な祭りが各地で行われた。倉庫はあふれるほどの穀物で満たされ、冬を越すのに困難はない。
 ずっとガスタインが望んでいた豊穣が実現された。ガスタインはさらに民を豊かにするために、新たな改革に取り組もうとしている。
 民が餓えなくなった先には、何があるのか。それは、どんな種類の豊かさなのか、ラスティンにはよくわからない。
 だけど、ガスタインの見据える先にあるものを、ともに見ていきたい。彼の願う未来の実現に、微力なりとも力を貸したい。
 ――ワクワクするわ。


 心地よく酒が回ったとき、ラスティンはふらりと立ち上がった。
 空には、ぽっかりと月が浮かんでいる。
 身にまとった白い衣の裾を夜気になびかせて、ラスティンは音もなく踊り出した。
 それは、白き神へ捧げる踊りだ。
 かつてガスタインへの復讐心を抱えて旅の一座に加わったときに、ラスティンはこの技術を身につけた。ラスティンは思うがままに伸びやかに身体をくねらす。頭の中で音楽が鳴っている。
 それはラスティンが旅の一座で踊っていたときのように、誰かに見せるためのものではない。
 身のうちからあふれる感情を、こうして踊りで表現し、感謝の気持ちを表す。
 床を叩くにつれ、だんだんと手足がなめらかにしなやかに動くようになっていく。
 独特の手首の返し。柔らかく曲がる足首。足音を立てない跳躍。
 ラスティンは月を振り仰ぎながら、何かに取り憑かれたように身体を動かす。
 気持ちよかった。
 月の光がラスティンに力を与える。視界がキラキラと輝き、白銀の熱を帯びる。月の光をラスティンは受け止める。
 身体がくねり、息が弾んで、足のつま先までまっすぐに伸びる。
 音のない静謐な踊り。
 月光に照らされたラスティンの下で影が動いた。激しく動いた後で、踊りはまたゆるりとしたものに戻る。
 ラスティンは頭の中の音楽が静まったのに合わせて、動きを止めた。
 ゆっくり息を整えていると、しばらくしてガスタインの声が聞こえた。
「見事なものだな」
 その言葉に称賛を読み取って、ラスティンは顔を向けた。
 ガスタインが差し招くように腕を広げたのを見て、裸足のままその方向に向けて歩く。
 ガスタインがいる寝椅子の下に寄り添うように腰を下ろし、こちらのほうを見下ろしてくる彼を見上げた。
「陛下は、踊りませんの?」
「見ているほうが楽しい。そなたの手足が動くさまを」
 月明かりの下で、ガスタインの美貌が映える。
 端整な造形に、まっすぐな鼻梁が薄く影を落としていた。少し酷薄そうな唇の形が、ラスティンはことさら好きだ。
 そっと手を伸ばし、指先でその唇をなぞろうとしたのに、ガスタインに手首をつかまれて阻まれた。
 そのまま引き寄せられるのと同時に、ガスタインが少し乗り出してきて、そっと唇を奪われた。
「……っ」
 その一瞬に、目を閉じる。それは、ガスタインの唇の弾力をより感じ取ろうとしたためだ。彼の息づかいも感じ取る。かつては氷のように冷たかった唇は、今は心地よく温かい。
 だから、唇が離れた後も、額と額がくっつくような距離からその大好きな顔を見つめた。膝立ちになって、今度はラスティンのほうから口づけずにはいられない。
 彼の身体に触れるのは、とても気持ちがいい。唇はことさらだ。愛しさがあふれて、なかなか唇を離すことができない。
 ガスタインのほうもそうなのだろう。
 口づけはすぐに深いものとなり、たっぷり舌で口腔内を探り合った後でようやく唇が離れた。
「飲むか?」
 ラスティンの手に、ガスタインは盃を押しつけた。
 踊った後の喉の渇きがあったし、キスの甘さを酒でますます強調したかったので、ラスティンはその盃に酒を注いでもらう。
 酒の表面に、また月が映った。
 それを見つめながら、ラスティンは口にするりと含む。
 それから返礼のために、ガスタインの手に盃を返した。それに酒を注いでいると、言われた。
「以前はいくらでも飲めた。だが、どれだけ飲んでも酔いは回らなかった。今は人の身に戻っているから、心地よく酔える」
 ガスタインの目元に、少しだけ酔いが感じられた。かすかに桜色に染まっているのが色っぽく思えて、ラスティンは目を離せなくなりながらも尋ねてみる。
「ご不自由はないですか。人の身に戻って」
 ガスタインは少し前まで、いくら身体を傷つけても死ぬことのない不死身の肉体を持っていた。だが、今は何ら特別なことのない人の身だ。
 ラスティンとしてはぬくもりが感じられるこの肉体がとても好きなのだが、具体的に彼がどう感じているのか知りたい。
 ガスタインは盃の表面とラスティンのほうを交互に眺めてから、口を開いた。
「そうだな。人の身に戻ったら、……腹が減るし、疲れもする。傷はすぐには癒えない。それでも、……この身体に巣くっていた冷気が消えただけで心地よい。ぬくもりも感じるようになった」
 ガスタインは盃を一息で飲み干し、ぬくもりを感じている場所を示すように胸元をてのひらでなぞった。
 その仕草が『愛おしい』という感情を表しているように思えて、ラスティンは微笑む。
 彼を連れ戻すことができて、本当に良かった。
 酔っているからか、ガスタインはいつもよりもよくしゃべる。この隙に本音をもう少し聞き出しておきたくて、ラスティンは酒の入った容器に手をかけた。
「もっと、お飲みになりません?」
「ああ」
 軽くうなずいた後で、ガスタインは盃を置いて、軽くラスティンの唇を指し示した。
「直接、飲ませてくれ」
 その言葉に、ドキッとする。
 先日、口移しで酒を飲ませる機会があった。ラスティンも少し酔っていたのだったが、そのときのことをガスタインは甘い記憶として覚えているらしい。
 ラスティンにとっても悪いものではなかったから、手元の盃に酒を注いでから、唇にそれを含んだ。それから、ガスタインの唇と自分の唇を重ねていく。
 酒を口移しにするのは、少し難しい。一回目はだいぶこぼれてしまう。それでも、少し辛い酒の後だからか、からんでくる舌の甘さをことさら感じ取る。
 その感触に酩酊して、またなかなか唇が離せなくなる。
「ガスタイン……」
 格別愛おしく思えて、名を呼んだ。
 ようやく離された唇の表面に残る酒を、自分の舌で舐め取りながらささやくと、ガスタインが目を細めた。
「愛おしいな、とても」
 次はガスタインのほうから、酒を飲まされる。
 口づけはますます深くなり、ラスティンの腕がガスタインの肩にからんだ。
 そっと彼にしがみつく。顔を彼の肩にうずめる。ぬくもりを覚える。
 酔いとともに、愛おしいという感情がラスティンの中にも深く広がっていって、さらに身を寄せずにはいられなかった。

一覧へ戻る