秘密の選択(脅し)
――ここで、この女を突き落としたら。
イサドラは、バルコニーの柵に手を置き夜空を眺めている女の後ろに近づいた。
女の名はアメリア・カートライト。八ヶ月前に見つかったというクレイトン侯爵の孫息子、テオバルトの婚約者だ。
隣の国ダフィルドの伯爵令嬢で、現在はクレイトン家に住み、国の風土や家風を学んでいる。
あと三ヶ月もしたら、正式にテオバルトの妻となる。
今夜は彼女のお披露目が盛大に開かれ、クレイトン家の親戚にあたるコルケット伯爵の娘イサドラも、家族共々招待を受けていた。
今この場所には、自分とアメリアしかいない。しかも彼女は自分を信頼している。
『お友達ができて嬉しいわ』
女性は〝竜の呪い〟とやらを受け継ぐ一族の出であるため、これまで周辺の貴族令嬢からは気味悪いと思われ、遠巻きにされていたそうだ。
今は呪いは解かれている。しかもそれを解いたのは、テオバルトの働きだという。
その経緯は、おのろけ話として彼女から聞いた。
『羨ましいわ、それこそ運命の出会いよね』
――本当に羨ましい。
イサドラは月明かりに照らされた、波打つ彼女の金髪を見つめる。
コルケット家の現当主と亡きテオバルトの父親は、親戚で親友同士だった。お互いのところに男児と女児が生まれて、歳が近かったら結婚させようと冗談交じりでよく話していたと父から聞いている。
しかし内乱が起き、討伐の標的となったテオバルトの父は家族を連れ、国外へ脱出しようと試みたのだ。その時協力したのが親戚である父だったが、国境でテオバルトの両親は捕まって殺され、息子は行方不明になり計画は失敗に終わった。
孫息子の生存を信じていたクレイトン侯爵は内乱終息後、必死に探し続けていた。それはイサドラの父も同じで、助けられなかった罪滅ぼしだと言いながら捜索していた。
イサドラ自身は小さかったので、テオバルトの顔など記憶に残っていない。
よく母が「本当だったら貴女には婚約者がいたのよ」と話してくれたが、ピンとこなかった。
それが、八ヶ月前に見つかって――父がまず会いに行き「あいつと瓜二つだった。間違いなくテオバルトだ」と、まるで生き別れの兄弟に再会したかのように喜んで帰ってきた。
彼が環境に慣れた頃に会った瞬間、イサドラは息苦しくなるほどの甘美な想いに囚われてしまう。
一目で恋に落ちてしまったのだ。
それまでは、親同士の約束が復活するかもと恐れ、「小さい頃に会ったとしても片田舎の領地で育った鄙者など、騎士だってお断り。第一、自分には既に婚約者がいる」と言って拒否しようと息巻いていたにもかかわらず、自分が妻として寄り添う姿を想像してしまう。
イサドラはこの場で、再び親同士の約束が浮上することを期待した。
だが、彼女の思う通りにはいかなかった――彼の隣には既に心に決めた女性がいたのだ。
故郷では陽向姫と呼ばれているというアメリアは、お日様のように輝く金髪に、豊かな森を思わせる瞳を持ち、どこか神秘的な雰囲気を持つ令嬢だった。
イサドラに与えられた新たな役割は、〝テオバルトの婚約者であるアメリアの友人〟であった。
イサドラは嫉妬を隠し、快く引き受けた。
話してみると彼女は機知に富み、明るく朗らかで気立てのよい令嬢だった。呪いという恐ろしい運命を背負っていたとは思えないほど。
普段のイサドラだったら、すぐに好きになって心から彼女のよき友人になろうと努めただろう。
けれど、彼女と彼が仲睦まじくしている様子を見れば見るほど、小さく揺らいでいた嫉妬の炎は大きくなり、勢いが増していった。
その頃には今現在婚約している相手のことなど、イサドラの心の中から消えていた。
――彼女(アメリア)さえいなければ
このバルコニーの柵は低い。侯爵は子供が生まれたら危険だからいずれ柵の高さを変えようと話していた。
そう、危険なのだ。ほろ酔いの大人が足をもつれさせて落ちても、おかしくないほどに。
――愛しい婚約者が死ねば、テオバルト様をお慰めする役目は私になる。
――親同士の約束通り、彼と結ばれるのは私で、彼女は私と彼の仲の邪魔をする異端。
イサドラは腕に力を籠めて、勢いよくアメリアの背中に近づいた――その時。
「アメリア、ここにいたのか」
テオバルトがガラス戸を開けて、声を掛けてきた。
アメリアが振り返る。イサドラの手はアメリアの背中から逸れ、勢いで上半身が柵から外へ飛び出しそうになった。
「危ない!」
咄嗟に支えてくれたのは、アメリアとテオバルトだった。
自分が転落して死ぬところだった。イサドラは恐ろしさにその場に座り込む。
「あ、ありがとう……飲み過ぎたみたいで……足がもつれてしまったわ」
「中に入って休みましょう。テオ、お願いできる?」
アメリアが愛称で呼びながら頼むと、彼は快く引き受け、イサドラを抱き上げてくれた。
まるで従者と姫のようだわ、と眉を顰めながらも、イサドラは彼の腕の逞しさに感動を覚える。
「静かな場所の方がいいだろう。控え室に行こう」
「私、飲み物を頼んでくるわ」
二人の息の合った行動にまたもや嫉妬を覚え、イサドラは悔し紛れにテオバルトの首に腕を回しその胸に顔を寄せた。
バルコニーでは失敗したが、却って良かった。
片田舎の領地の娘(アメリア)しか知らない彼だ。
――自分の磨かれた身体をもってすれば。
控え室に入り丁寧にソファに下ろされたイサドラは、胸に手を当てながら苦しい表情を作る。
「落ちそうになったショックで……胸が苦しくて……コルセットを緩めるのを手伝っていただけるかしら?」
抱き上げられたとき、胸を押しつけ、彼の首筋に何度も息を吹きかけた。
テオバルトだって血気盛んな若者だ。女の艶めかしい様子に当てられれば、心は追いつかなくても身体は反応する。
田舎者のアメリアよりも自分の方がずっといいはず。
切なげに声を震わせたイサドラは、悩ましげな顔でテオバルトを見上げた――が、自分を見つめる彼の冷ややかな目つきに、身体が凍ったように動かなくなってしまった。
彼はイサドラに蔑みの笑みを見せ、言い放つ。
「あんたがアメリアを突き落とそうとしたところを、見ていなかったと思うのか?」
「み、見間違いで……!?」
彼の手がイサドラの首を掴む。ソファの背もたれに押しつけられ、掴まれた首に圧が加わった。
「俺に殺されるか、俺への気持ちを殺すか――どちらかを選べ」
テオバルトの琥珀色の瞳が爛々と輝く。
イサドラは彼の瞳の奥に潜む〝獣〟を垣間見た気がした。
「あら? イサドラは?」
控え室にテオバルトしかいないことに、アメリアは首を傾げる。
メイドが飲み物をテーブルに置いて下がるのを見送って、テオバルトはアメリアの腰に手を回しソファに誘導する。
「婚約者に会いたくなったそうでお帰りになったよ。怖い目に遭ったから、愛する人の胸に飛び込みたくなったんだね」
「今度は彼女の婚約者も招待して、四人でお茶をしたいわ」
アメリアもテオバルトの背中に手を回しながらそう提案する。
「そうだね」
アメリアの提案にテオバルトは小さく笑って頷いた。
しかしアメリアの提案は、実現することはなかった。
イサドラは何かに追い立てられるように婚約者と早々に式を挙げ、相手の領地に引っ込んだため、アメリアとの交流は途絶えてしまったのだ。
落胆しているアメリアにテオバルトは、
「また新しい交流があるさ。――それにアメリアが寂しくないように、これからもずっと俺が傍にいる」
と、慰めるように何度も愛しい婚約者の頬にキスをした。