ソーニャ文庫

歪んだ愛は美しい。

会員限定特典小説

王太子殿下の猫の首輪

 今日一日の予定を終えて案内されたその部屋は、その日が引っ越し当日だったとは思えないほど、すっきり調えられていた。
 ゾーイは新しい部屋を見て回ることも、窓の外の綺麗な庭園に目を留めることもなく、真っ直ぐ寝室へと向かう。そしてベッドの枕元にお目当てのものがあるのを確認し、ほっと息をついた。
 ヘッドボードを背もたれにして座っていたのは、長年夜を共にしてきたぬいぐるみ“
猫のアーニーちゃん”だ。
 幼い頃、アーノルドの手から初めて直接受け取ったプレゼント。彼の愛称である“アーニー”の名を付けて腹話術をしてみせたのも彼自身だった。
 一時期見るのも辛くてメイドに片付けさせたのだけれど、和解したあとはやっぱり手元にないと淋しくて、再びベッドの定位置に戻している。
 古びてはいるが、上等な布と目にアクアマリンが使われたそのぬいぐるみの首元には、現在青のリボンと白いレースのベースに宝石があしらわれた美しいチョーカーが飾られていた。アーノルドからのプレゼントだが、彼がそのチョーカーに込めた意図ゆえに、ゾーイが身に付けるのを拒否したものだ。返したつもりが手元に戻ってきてしまい、仕方なく込められた意図に沿った使い方をしている。とはいえ、ゾーイの細い首に合わせて作られたそれはぬいぐるみの首には短すぎるため、リボンを継ぎ足して首の後ろで蝶々結びにしてある。
 実家から無事届いたそれを眺めていると、ゾーイの脳裏にふと不届きな考えが浮かんだ。
 これだったらアーノルドの首にも巻けそう……。
「あれ? それって昔私がプレゼントしたぬいぐるみ?」
「ひゃあ!」
 突然声をかけられて、ゾーイは飛び上がらんばかりに驚いた。
「いっいきなり声をおかけにならないでくださいませ。それにここはわたしの寝室です。王太子殿下といえど、みだりに入室されては困ります」
 教育係のように厳しく注意したけれど、アーノルドはどこ吹く風だ。
「もうすぐ結婚するんだから堅苦しいことは言わないでおくれよ。――それにしても、随分古びたものだね。新しいものを贈ろうか?」
「あっそれは――申し訳ありません!」
 控えていたメイドが声を出してしまい、慌てて謝罪し縮こまる。王太子に許可なく話しかけるなどと叱るところだけれど、王太子はにやりと笑ってメイドに声をかけた。
「許す。今言いかけたことを話すがよい」
「待って! ダ――むが!」
 ゾーイは慌てて止めようとしたが、後ろから回された大きな手のひらに口を塞がれてしまう。メイドはおどおどしながらアーノルドとゾーイの顔色を窺ったが、どちらの命令に従うべきかは迷いようがなかった。
「ゾーイ様は別のぬいぐるみではよくお休みになれないんです。王太子殿下が贈られた別のぬいぐるみを抱いて寝ても、翌朝眠たそうにしながら『“猫のアーニーちゃん”でないとやっぱりダメ』と仰って」
「へえ、そうなんだ」
 背後にいてもにやにや笑っているのがよくわかる声を聞いて、ゾーイはアーノルドの手を力いっぱい押して彼の腕から逃れた。
「それは小さい頃の話で! 今は」
「今でも“猫のアーニーちゃん”を抱いて寝てくれてるんだろう? 嬉しいけど、ちょっと妬けるな。そうだ。今晩から私が添い寝してあげよう。猫より本物のほうがきっとよく眠れるよ?」
 からかわれていると気付いたゾーイは、半目になってアーノルドに“命じた”。
「そこに座って目を閉じて」
 ゾーイが何をしようとしているか興味を持ったアーノルドは、大人しく言う通りにする。警戒してアーノルドから目を逸らさないまま枕元へ移動したゾーイは、ぬいぐるみから素早くチョーカーを外してアーノルドの首に巻き付けた。そんなことをされれば、さすがのアーノルドも愛する人の命令とはいえ従ってはいられない。
「ゾーイ待った!」
「わたしのために首輪を着けてくれるって言ったじゃない!」
「君が私の首輪になればいいとは言ったけれど、それを着けるとは言ってない!」
 貴族ではあるが親戚の平民とも遊んだことのあるいささかお転婆なゾーイと、鍛錬を欠かさずそれなりに腕力があるがゆえに下手に動いて彼女に怪我をさせてはいけないと躊躇するアーノルド。すったもんだしているうちにアーノルドはゾーイに押し倒され、ゾーイはアーノルドの首の後ろで蝶々結びを成功させる。立ち上がったゾーイは、驚きと困惑が入りまじったアーノルドの美しい顔と首に巻いたチョーカーを満足げに眺め、大いに笑った。
「やだ! すごくよく似合う! お姫様みたい! 折角だからドレスも着てみる?」
「ゾーイ様。おふざけはそこまでになさってください」
 決して低くはないのに底冷えしそうな女性の声が聞こえてきて、ゾーイはびしっと背筋を伸ばす。
「あ……その、女官長……」
 実家で各国の歴史をはじめとした教養と王族を相手にしても恥ずかしくないマナーを既に身に付けていたゾーイにとって、現在女官長は王宮のしきたりを教えてくれる唯一の教育係だ。ちなみに、先程真似た教育係の態度というのは、今目の前で姿勢よく佇む、無表情ながらも威圧のあるこの老齢の女官長のものだったりする。
 アーノルドはベッドから身体を起こし、チョーカーを外しながらゾーイの隣に立った。
「女官長。ゾーイが悪いのではない。最初にからかった私が悪いのだ」
「最初にからかった殿下もよろしくありませんけれど、その挑発に乗ってしまわれたゾーイ様もよろしくありません。明日にはご成婚の儀を迎えられるというのに、お二方は何をなさっておいでですか!」
 滅多に聞かない女官長の激昂した声に、ゾーイは震え上がる。アーノルドは弱り顔。幼少の頃から世話してもらってきたこともあって、彼も女官長には頭が上がらないようだ。
 こんこんとお説教したあと去っていく女官長を、首をすくめて見送ったあと、ゾーイはアーノルドと顔を見合わせこっそり笑い合った。

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