ソーニャ文庫

歪んだ愛は美しい。

会員限定特典小説

村で大流行のアレ

 ヴィリエ村に移住して一年、アリスはすっかり『伯爵夫人』として村に馴染んでいた。
 今の仕事はカイルダールが開いた診療所の手伝いである。
 アリスに出来ることは診療所の受付で、薬と診察の代金をもらうことくらいしかない。
 だがアリスに甘い夫は『毎日ありがとう』とお礼を言ってくれるのだ。
「それじゃあ奥様、ありがとうございました。伯爵様にもお礼をお伝えくださいませ」
「熱冷ましが足りなくなったらまた来てくださいね」
 ヴィリエ村の若妻が、幼い子どもたちを連れて診療所を出て行く。受付嬢のアリスは笑顔で彼女らを送り出し……そこで表情を凍り付かせた。
 ――なんだアレは……?
 若妻の鞄に妙なものがぶら下がっていたからだ。
 蜘蛛……である。
 かつて病身だったアリスがカイルダールに『悪女の嫌がらせ』として贈り、今でも大切にされているあの蜘蛛の色違いである。
 凍り付くアリスに、若妻と子どもたちが振り返って手を振ってくれる。
 アリスは屋敷を飛び出し、全力で若妻に追いついた。
「ま、待ってください、その蜘蛛、なぜ貴女がお持ちなんですか?」
「え? これですか? 村で流行っているので」
 若妻が笑顔で答える。
「だっ、誰が流行らせてるんですか」
「手芸屋さんです」
 アリスは呆然と、鞄にぶら下がっている真っ赤な蜘蛛を見た。
「それ、色違いもあるんですか?」
「もちろんですとも、黒、青、緑、黄色、派手な色ならなんでもありましたわ! 奥様にも買ってお持ちしましょうか?」
「どうして手芸屋さんがそんなも……いえ、それを売りさばいているのかしら?」
「診察所に飾ってあるこの子をいたく気に入って、伯爵様の許可を取って複製したんだそうですの」
 ――なるほど、カイに『しまって』って言ってもずっと飾ってるもんな。
 白目を剝きそうな気分になったが、アリスは笑って誤魔化した。
「そ、そうなんですか、どうして手芸屋さんはそれを気に入ったのかしら?」
「もちろん、大都会のものだからですわ」
「えっ?」
「大都会で作られた飾りだからに決まっています。なんだか脚もびょろびょろしてて斬新だし、針山にもなるし、すごく便利じゃないですか?」
 ――ちがうんです、それは大都会は全然関係なくって、私が作って失敗した蜘蛛なんです!
 焦るアリスに若妻は言った。
「今度お土産にお持ちしますね」
「あ、あの……うちは、一個あればいいので大丈夫です……気をつけてお帰りください」
 アリスは頭を下げ、若妻を改めて見送った。
 そして診療所に駆け戻る。
 診察室では夫のカイルダールが書類を書いていた。
「お帰り、アリス。なにかあった?」
「この蜘蛛が村で流行ってるんだって!」
 診察室の飾り棚に置かれた青い蜘蛛を指さし、アリスは慌てながら報告する。
「そうらしいね」
 カイルダールは泰然と答えた。
「なんで複製していいなんて言っちゃったの? 恥ずかしいんだけど!」
「芸術品だからね、レプリカが存在してもいいかと思ったんだ。レプリカがたくさん広まればそれだけ皆の目を喜ばせてくれるだろう?」
「こ、これで喜ぶの、カイしかいないと思ってたんだけど」
「そんなことないさ」
 カイルダールは立ち上がると、棚から例のアレを取り出した。
 一度目、二度目の結婚式、ヴィリエでの新婚生活……カイルダールとアリスの幸せな日々を、なぜかずっと一緒に過ごしている蜘蛛だ。
 いつ捨てるのかと思っていたが、カイルダールは本気で気に入っているらしい。
「手芸屋さんはこれを『青い太陽だ』と言っていたよ」
 蜘蛛を撫でながらカイルダールが微笑んだ。
 顔がいいのに相変わらず言っていることは狂っていて頭が混乱する。アリスは思わず大声で問い返した。
「どこが!?」
 本気で問い返したアリスに、カイルダールは真面目に答えた。
「全てじゃないかな。この存在感といい形といい、心に焼き付いて離れない太陽だと言われて俺は納得した。だから複製して売っていいですよって言ったんだ。売上の二割はヴィリエの薬草園作りに寄付してくれるらしい」
 ――そんなにいいものかな、これ。わかんない……。
 そう思った瞬間ぐらりと目の前が回った。
「あ、あれ……?」
 目の前が白くなり、アリスはしゃがみ込む。
「どうした?」
「なんか立ちくらみ。どうしたんだろう」
 答えると同時にどっと冷や汗が噴き出してくる。急に気分が悪くなった。あんなものが村中で大流行していると知った衝撃のせいかもしれない。
 ――いやいや、なんだろうこれ、久しぶりだなぁ、こんな具合悪いの。
 カイルダールが蜘蛛を棚に戻し、テキパキとアリスを抱え起こし、診療台に座らせた。
「アリス、ここに横になっ……あ、もしかして……」
「なに?」
「子どもができたのかな?」
 アリスは冷や汗を拭い、口の端を吊り上げて尋ねた。
「避妊薬をやめて三ヶ月ちょっとしか経ってないよ。子どもってそんなにすぐできるの?」
「できるときはすぐできるよ」
 アリスは目を丸くする。村中に散らばった汚点のことなどあっという間に頭の中から消えた。
「そうなの?」
 相変わらず頭がぐらぐらするが、それどころではなかった。もし子供ができたのなら、心の底から嬉しいからだ。
「そうだったらいいな。つわりの症状が出てこないと正式には分からないけど」
 カイルダールが目を輝かせて笑う。アリスは診療台に座ったまま、白衣の夫にぎゅっと抱きついた。
「やだ、ちょっと、ぬか喜びさせないでよ? ただの貧血だったら私かなり落ち込むからね!」
 カイルダールの温もりを確かめながら、アリスは言った。この世に夫の血を分けた子が誕生するのだとしたら、こんなに幸せなことがあるだろうか。
 ――もしそうだったらすごく嬉しい! 白葉病は心配だけど、嬉しいな……!
 アリスは青ざめた顔で笑った。カイルダールはハンカチでアリスの汗を拭いながら微笑み返してくる。
「産婆さんに見てもらおう。彼女たちは医学しか知らない俺と違って、妊婦さんを診る達人だからね」
 カイルダールの言葉に、アリスは満面の笑みで頷いた。
「うん!」
 
 
 
 それから半年ほどが経ち、アリスは後継の男の子を産んだ。
 アリスによく似た可愛い男の子である。髪の色は茶色、目の色は緑だ。どちらも両親の色を混ぜたような色合いだった。
 出産は辛く、気軽に身籠もった自分を恨んだが、産んだあとは我が子が可愛くて仕方がない。
 産まれて一週間、赤ちゃんの体調も安定していて、ほっとしているところである。
 しかしアリスは、まだ名前のない我が子をあやしながら困惑していた。
 ――なに……このお祝い……もはやこの蜘蛛に呪われているとしか思えないんだけど……。
 部屋の片隅には、村の皆が赤ちゃんに贈ってくれた品が山と積まれている。
 その大半が、村で大流行中の『守護神様』のぬいぐるみだ。手芸屋が流行らせた、あの蜘蛛の大型版である。
 原色が目に痛い。不気味な形もアリスの失敗を正確になぞっている。
 ――今どきの出産祝いって、これが一番人気なんだ。どうしよう。なんでこうなったの。
「いい子だ、いっぱい寝て本当にいい子だな」
 傍らのカイルダールが幸せそうに微笑むと、小さな小さな息子を抱き取り、優しく頬ずりする。もらい物の息子の産着にも例の蜘蛛が綺麗に刺繍されていた。
「ねえカイ、この蜘蛛の流行、そろそろ終わらないかな?」
「どうだろう。村の皆はすごく好きみたいだよ。これがあると悪いことが起きなくなるらしい。村の守護神に採用されたって話だ」
「絶対思い込みだよ、それ。作った私が言うんだから間違いないのに!」
 ムチムチした我が子の足の裏をつつきながら、アリスは言う。
 まさかあの日の『悪女の嫌がらせ』にこんな形で罰が当たる日が来るなんて。
 アリスはため息をつき、山積みの『守護神様』を見て苦笑いした。
「ただの失敗した蜘蛛なのにね」
「この子も君に似て芸術の才に溢れているのかな、成長が楽しみだね」
「もう! また話が噛み合ってないよ! 私には芸術の才なんてないから!」
 そう言った途端、カイルダールの腕に抱かれた赤ちゃんがあくびをした。
「眠いのかな?」
赤ちゃんを大事そうにあやしながら、カイルダールが小さな顔を覗き込む。
「あくびする顔、私じゃなくてカイにそっくりだね」
「俺たちのどっちの要素も受け継いでるんだもんな」
「そうだよ。カイに似て、すごく男前になるかもしれないよ。私に似たらお父様みたいに迫力ある男の人になりそうだし」
 大きくなった我が子に会うのが楽しみで仕方がない。そう思うアリスに、カイルダールが言った。
「名前、今夜決めような」
「うん」
 親になったばかりの二人は、我が子の表情のあまりの可愛さにでれでれの笑みを浮かべるのだった。

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