ジルベールのあまい苺ケーキ
その日、離宮には甘い匂いが立ちこめていた。
「よかった、うまく焼けたみたい」
オーブンから出したスポンジ生地は、まだ熱くて触れないが、見た目からしてふわふわだ。
毎年、一年に一度しか焼かないものだから、うまくできるか心配なのだ。ならば、もっと頻繁に作ればいいのだが、あまり調理の匂いを出したくないこともあり、結局いつも一発勝負になってしまう。
そのせいか、最初の頃はさんざんだった。
生地が上手に膨らまなかったり、生焼けだったり。その逆で黒焦げになったこともあった。
けれど、そのたびに反省点をメモに残していたおかげで、今年はいい感じに焼けたと思う。
あとは、デコレーションをしたらバースデーケーキは完成だ。
飾り付けは、たっぷりの生クリームと真っ赤に熟れた苺。
どちらも、ジルベールが大好きだったものだ。
鼻歌を歌いながら、レティシアは着々とケーキを仕上げていく。生地を二つに切り分け、中にも苺とクリームを挟む。表面を生クリームで調え、装飾を施し、苺を並べた。
「よし、完成」
生クリームの泡立て方が少しばかり甘かったようで、若干不格好ではあるが、これまでを思えば上等だ。大事なのは見た目ではなく、気持ちと味だ。
「私、成長してるじゃない」
まんざらでもない出来映えに、ひとりにんまりと笑いながら、レティシアは用意してあったロウソクを立てた。
午後から始めたケーキ作りだったが、終わってみれば日は傾き出していた。
夕暮れの斜光が窓から射し込み、台所をオレンジ色に染めている。
「ジルベール様、お誕生日おめでとうございます」
祈りを捧げてから、火を消そうとしたときだった。
「あっ」
ふうっと脇から先に火を消す者がいた。
「ジルベール様っ!?」
部屋から出るには、まだ外は明るい。日は完全に落ちていないだけに、レティシアは慌てた。
急いで彼の身体を押して、部屋から追い出しにかかる。
「また作ってたのか? 毎年、お前も懲りないな」
「いいんですっ、私が責任を持って食べるのですから! それよりも、まだ出てきてはいけませんっ」
ゲルガの毒に侵されてから、彼は日を浴びることができなくなった。太陽の光はジルベールには眩しすぎるのだ。
「早く、廊下へ出てください」
「俺の誕生日なのに、主役を追い出すのか?」
「そういう問題ではありませんっ。ジルベール様、急いで」
「そう急かすな。今年の出来映えくらい見せろよ」
そう言うと、ジルベールがするりと身体をひるがえした。赤い目を細めて、まずまずのバースデーケーキを見る。
「……あまり見ないでください」
「去年よりかは、ましじゃないか。クリームはよれてるけどな。味はどうなんだ?」
「あっ、待って」
押しとどめる声を横目に、ジルベールはバースデーケーキに近づいていった。
「ジルベール様!」
「これくらいの明るさなら平気だ」
レティシアの制止を一蹴し、生クリームと指ですくうと、口に含んだ。そして、思いきり顔をしかめる。
「甘……、こんな味だったか?」
彼が言う「こんな味」とは記憶の中にあるバースデーケーキの味と比べているのだろう。
「ち、違っていて当然です! 私は、王妃様のようにケーキ作りが得意ではありませんものっ」
汚れた彼の指をエプロンで拭き取ると、ジルベールがふと口端に笑みを浮かべた。
「あれに似せるつもりか? 母上の腕前は本職並だぞ」
「……いけませんか?」
返してください、とケーキを乗せた皿を自分の方へと引き寄せた。
「俺のためのケーキだろ」
「ジルベール様はお召し上がりにならないではありませんか。ですからこれは、私が食べます」
「どうせ作るなら、俺好みのを作れよ」
「それでは、血の滴るお肉を積み重ねるだけになるではありませんか。お断りいたします。バースデーケーキはこれでないと駄目なんです」
断言すれば、ジルベールが仕方なさそうに溜息をついた。
「なんだってそう頑ななんだ、お前は誰に仕えているんだ」
仕方ないではないか。
これは、王妃が我が子に向けた精一杯の愛情の印なのだ。
まだジルベールが人であった頃、王妃は彼のために毎年バースデーケーキを焼いていたという。それが、この生クリームと苺が乗ったケーキだ。
王家からの配給の中に、このレシピが入っていたのは、離宮へ移って最初の年だった。丁度、ジルベールの誕生日間近の頃だったと思う。
ゲルガの毒に侵されてから人間の食べ物を一切受け付けなくなったジルベールの現実を、王妃はどうしても受け入れることができなかった。
しかし、我が子を想う気持ちは萎れてはいなかったのだろう。
偲ばせるように入っていたレシピは、王妃の直筆だった。
王妃はどんな思いでこのレシピをしたためたのだろう。レシピの端々には、「ジルベールは甘めのクリームが好き」「苺はたっぷりと」「生地は口の中で蕩けるようだと喜ぶ」など、ジルベールとの思い出がたくさん詰まっていた。
レティシアは生涯、子を持つことはない。
だが、王妃の子を思う母としての思いはひしひしと伝わってきた。
そんな大切なものを、どうしてレティシアが無下にできるだろう。
レティシアがケーキを作るようになったのは、それからだ。
材料は、毎年必ずジルベールの誕生日が近くなると王宮から届けられる。彼の大好きだった苺は今年もみずみずしく、赤々と熟れたものばかりだった。
それに、このケーキを作れることは、レティシアにとっても喜びでもある。
ジルベールが生きていてくれた証なのだから。
食べてもらえなくても、ジルベールが生きている限り、レティシアはこのケーキだけは絶対に作り続けると心に決めていた。
だが、肝心のジルベールは、王妃の気持ちにまったく関心を見せないでいる。
食い入るようにケーキを見つめ、苺を一粒手に取った。
「一口だけでも食べてみませんか? これには何の加工もしてありませんから、お口に合うはずです」
口元へ寄せると、ジルベールが目を眇めた。
(やはり、駄目なのね)
口を開ける素振りがないことに手を下ろしかけると、ジルベールに手首を掴まれた。
「あ……」
目を見張るレティシアの前で、彼が一口苺を囓ったのだ。
「どうですか?」
「お前も食べろ」
そう言うと、ジルベールも苺を一粒掴んで、口元に宛がってきた。頬張ると、じゅわっと甘酸っぱい味わいが口の中に広がる。
「どうだ?」
「美味しい……です」
「なら、もっとだ」
今度は、中指と人差し指で生クリームをすくい上げた。滴り落ちかけるそれに慌てて口を開くも、収めきれなかったクリームが口の周りを汚した。
「レティシア、生クリームが垂れてきてるぞ。しっかり舐めろ」
「は……、んン」
またひと掬いしては、口の中へと押し込んでくる。レティシアは夢中で舌を這わせた。くちゅくちゅと指で生クリームをかき混ぜられる淫靡な音が、否応なしに彼との情事を思い出させれば、ずくり……と子宮が疼いた。
まるで、口で奉仕させられているみたいだ。
こんなことで感じてしまうなんて、なんて淫らになったのだろう。
「まだ、柔らかい。もっと泡立てないと駄目だろ」
「ごめんな……さ、い」
「ほら、また垂れてきた」
含み笑う声がして、ジルベールがべろりと口端から零れた唾液を舐め取った。触れた生温かい舌の感触に、「あぁ……」と悦びの声が零れた。
「あぁ甘い。けど、これは悪くないな。レティシア、もっと寄こせ」
彼の指が舌を撫でる。見つめる赤色の瞳にぞくぞくした。
「は……い」
口を開くと、手掴みしたケーキが入ってくる。思ったとおり、スポンジはふわふわで何度も咀嚼しなくても、口の中で蕩けていった。生クリームの濃厚な味わいと苺の酸味が口いっぱいに広がる。
(美味しい)
全部食べたと口を開けてみせると、ジルベールがペロリと舌なめずりをした。
「美味そうだ」
唇をなぞる彼の少しかすれた声はぞくりとするほど妖艶で、レティシアを見つめるまなざしは獰猛さを滲ましている。
(あぁ、食われてしまう)
けれど、レティシアは毎度骨の髄まで彼に貪られる瞬間を夢見てしまう。
日が沈み、夜が始まる。
近づいてくる唇に、レティシアはうっとりと目を閉じた。