ソーニャ文庫

歪んだ愛は美しい。

会員限定特典小説

真紅のドレスを身につけるまで

 その日、ギゼラは朝から特別な準備に取りかかっていた。
 入浴し、化粧水や美容のクリームで肌を整え、髪を乾かして手入れをした後、いつもよりはなやかに化粧を施してもらう。
 入念な支度はひとえにエリアスのためだ。
 彼は本日の午後、王宮の大広間で催される式典において王太子の称号を得る。
 国王は前妻の息子であるヨーゼフを、自身を狙った陰謀の首謀者であると断じ、王太子位をはく奪した。そして恋人だった女官との間に生まれた息子・アルベールを新たな王太子に指名したのである。
 エリアスと名前を変えて宮廷に舞い戻った彼は、陰謀を阻止して父王の命を救った。その功と、現在の政治状況を鑑みての結果である。
 現在は彼の秘書官として働くギゼラも出席する。というより、当のエリアスによって出席を熱望されていた。
 何しろ式典に際し、彼はギゼラに真紅のすばらしく大人びて美しいドレスを贈ってくれたのだ。できる限り完璧に装いたい。
 侍女たちも全力で協力してくれた。明るい部屋の中で、ギゼラの身支度を整えながら、彼女たちは楽しげなおしゃべりに興じている。
「ギゼラ様について、不明な点がある時はアルベール殿下に訊けばいいので助かります」
「本来は王族の方に何かを訊ねるなど恐れ多いことですが、あの方はギゼラ様について質問されるのがそれはそれはお好きなようで」
「わたし達を目にするといつも『ギゼラ様のことで知りたいことはないか』『お世話に際して困ったことはないか』と呼び止められるのですもの」
「わたし達が質問をすると滔々と説明してくださるのです。こちらが訊いたことの十倍も二十倍も!」
「よってわたし達は、いつお声がけされもいいように、常にギゼラ様についての質問を用意しております。ひとえにアルベール殿下をお喜ばせするために」
「気を遣わせてごめんなさいね……」
 ギゼラは顔を真っ赤にして、侍女たちのおしゃべりに相づちを打った。
 と、侍女たちは「いいえ!」と笑顔で首を振る。
「わたし達もいいものを見せていただいていますもの」
「本当。ギゼラ様についてお話しされている時の、殿下の得意げで幸せそうなお顔ったら!」
「世界で最もギゼラ様のことを知るのはご自分だという自信に満ちあふれていらして」
 くすくすくすと笑みをこぼしながら、彼女たちは手際よく作業を進めていく。
 そんな中――事件が起きたのは、ギゼラがタオル地のガウンを脱いで下着を身につけた時のことだった。
 部屋の中をすばやく移動する影に、侍女のひとりが悲鳴を上げる。リスのナッツではない。
(む、虫……!?)
 黒光りする虫が一匹、足下をおそろしい速さで走りすぎていくのを目にして、ギゼラも思わず悲鳴を上げた。
 と、次の瞬間、部屋のドアが勢いよく開き、人影が飛び込んでくる。
「ギゼラ様……!?」
 姿を見せたのは式典用の礼装に身を包んだエリアスだった。彼は、下着姿のギゼラを目にすると、後ろ手に急いでドアを閉める。同時にゴンっと鈍い音した。どうやら後ろに続こうとしていた誰かにぶつかったようだ。
「ギゼラ様、いったい何が――」
 エリアスの問いに、侍女たちがいっせいに黒光りする虫を指す。それで状況を理解したのだろう。
 彼はあたりを見まわすや、入口近くの棚に置かれていた飾り物の絵皿を手に取った。
 隣国ランドールの風景画が描かれた陶器の美しい絵皿である。
 彼は鋭く手首をひねり、それを虫に向けて投げつけた。皿は見事命中し、音を立ててくだけた陶器が虫を仕留める。
 あたりに侍女たちの安堵のため息がもれた。そんな中、彼はギゼラの目の前にやってくる。
「ご無事ですか!?」
「えぇ、わたしは何ともないわ」
 その答えに胸をなでおろした彼に、片づけを始めた侍女が告げた。
「助けていただきながら何ですけれど、他のものを投げればよろしかったでしょうに。このお皿はフロリアン王子からいただいたランドールの銘品中の銘品ですよ」
 もったいない、と小言めいたつぶやきをもらす侍女へ、エリアスは晴れやかな笑顔を向ける。
「そうとは気づかず、申し訳ない」
「――――…」
(そんなはずないわ…)
 ギゼラは心の中でそっとつぶやいた。
 フロリアンがギゼラと結婚するためにこの国へやってきた際、彼の名前で届いた贈り物の数々を受け取ったのは、他でもないエリアスなのだから。
「ところでエリアス、どうしてここに…?」
 王子としての職務もあるだろうに、なぜちょうどよく虫の出現に居合わせたのか。
 ギゼラが訊ねると、エリアスは肩をすくめる。
「たまたまです。ドレスを身につけたギゼラ様のお姿を一刻も早く見たかったため、様子をのぞきにきたところでした」
 と、侍女たちが呆れまじりに返す。
「支度が終わるまで、まだしばらくかかりますよ」
「そのようだな。また出直そう 」
 ギゼラの手の甲に口づけたエリアスは、邪魔にならないよう部屋を退出しかけ――ドアを開けたところで「そういえば」と振り返った。
「おまえたち、何かギゼラ様のことで不明な点はないか?」
「エリアス!」
 立ったままコルセットを着せられていたギゼラが声を上げる。
「それはもういいわ。あまり彼女たちを困らせないで」
 侍女たちが噴き出して笑う中、エリアスは胸に手を当て、大まじめな表情で訴えてくる。
「私が迎えにくるまで、この扉を決して開けないでください。今ここにいる者以外で、ドレスをお召しになったギゼラ様を最初に目にする栄誉を何とぞ私にお許しください」
「言われなくてもそうするわ。このきれいなドレスを着た姿を一番に見せたい相手はあなただもの」
「ギゼラ様…!」
 感極まった様子のエリアスが足早に戻ってきて、ようやくコルセットを着け終わったギゼラをひしっと抱きしめてきた。
 ギゼラはややくすぐったい、幸せな気分でそんな彼を振り仰ぐ。
「仕事ができなくてみんなが困っているわ、エリアス」
「は。すぐに退散いたします」
 かしこまって言い、周囲に対して詫びと礼を短く伝えて去る王子を、侍女たちもくすくす笑いで見送る。
 しばらくの後。
 ちょっとした確認のために部屋に顔を出したヴェインが、侍女たちに大変な剣幕で追い払われたのは、とばっちりの災難としか言いようがなかった。

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