最凶魔王様と最強王妃様
その男が入ってきた瞬間、店内に沈黙が降りた。
この宿付き飯屋『プルクルの鍋』の店主であるイーサンは、静まり返った店の入り口に立つ背の高い美丈夫を、息を呑んで見つめた。
美丈夫、という言葉では言い表せないくらい、その男の美しさは異彩を放っている。
形の良い眉は凛々しく、高く通った鼻梁、蠱惑的な曲線を描く唇……フードで半分ほど覆われているというのに、その容貌が尋常でなく整っているのが分かった。中でも目を引くのが、極上の紅玉のような輝きを放つ、赤い瞳だ。惹きつけられると同時に、ゾッとするような恐ろしさも感じさせられてしまう。まるで人が足を踏み入れてはならない神の領域に誤って入ってしまったかのような心地だった。
フードのついた黒いマントに黒いズボン、黒光りする黒のブーツ——全身黒ずくめという地味な衣装は、本来ならば着る者の存在を隠すだろうに、その男の場合は違う。他の色彩が混ざることを許さない漆黒が、この男の精緻な美貌を引き立てている。
そこに立つだけで……いや、そこに存在するだけで、見る者を平伏させるような圧倒的な迫力が、その男にはあった。
(な、何者なんだ、この男……いや、このお方は……?)
明らかに只者ではない。
男はといえば、注目を一身に集めているというのに全く気にする様子もなく、平然とイーサンの方へと歩み寄ってくる。脚が長すぎて、一歩一歩の歩幅がでかい。
カツカツというブーツの踵が床を打つ音が静かな店に響く。それを店内の全員が固唾を呑むようにして聞いていると、やがてその音が止んだ。
目の前に作り物のような完璧な美貌があって、イーサンの体が自然とプルプルと震え始める。正直に言って、怖かった。森で狼と遭遇した時も、これほど怖いと思わなかった。この男は人間のように見えるが、本当は人ではないのかもしれない。戦慄しながら美しい顔を見つめていると、男がこれまた腰に響くような艶やかな美声で言った。
「ここで人と待ち合わせをしている。星の輝きのような髪に、澄んだ湖水のごとき瞳をした女性は来なかったか? あまりの可憐さに、もしかしたら女神と見間違えるかもしれないが……」
……何言ってんだコイツ……。
店内にいた全員が心の中で同じ感想を漏らした瞬間だった。
田舎町の宿付きの定食屋であるこの『プルクルの鍋』は、普段はそれほど客入りが多いわけではない。
近所の男どもが妻のお小言から逃れるために安いエールを呷りに来るとか、たまに旅人が宿目当てに来るくらいだ。
だがここ数日は満員状態が続いていた。というのも、なんと王都から使節団がやってきてこの町に滞在しているからだ。昨年、海を隔てた南の大陸から嫁いで来られた王妃様が、この魔導国レーデの農業を支援するためにいろいろな取り組みをなさっている。今回の使節団もその一環らしく、この町の先にある寂れた農村を訪問しているのだ。しかしその村には大勢の訪問者が宿泊出来る施設などなく、近隣のこの町に宿泊することになったのである。
王都からの訪問というだけでも珍事なのに、王妃様の使節団だというから、町は大いに湧いた。
レーデにおいて王妃マージョリー陛下は特別な存在だ。なにしろ、偉大にして孤高なる『魔王』ギード陛下が一目惚れをし、『我が魂の片割れ』とまで宣ったお方なのである。
魔王様が王座に就いたのは数年前だ。レーデの王族は魔力の強さで王位継承者を決めるのが習わしで、魔王様は圧倒的な強さで他の兄弟姉妹を次々と討ち、瞬く間に王太子の座に就いた。そして間を置かず前王が急逝したため、王太子になって数日で王となって話題を呼んだのだが、「本当は魔王様のあまりの強さに恐れを成した前王に刃を向けられ、最後には父王をも弑し王位を簒奪したのでは?」とまことしやかに囁かれていた。他にも意に沿わぬことをした者を即座に殺してしまうだの、ひと睨みで雷を呼び街を消滅させただの、残虐な噂が山のようにあるお方なのだ。
その恐ろしい魔王様がご結婚を機に一変されたという。
生まれてから一度も笑ったことがないのではと言われていた魔王様が、王妃様を前にすると笑顔をお見せになるのだそうだ。更に、誰の進言にも耳を貸さなかったお方なのに、王妃様の諌言にだけは素直に従うのだとか。
魔王様の気まぐれで殺されかけたところを、王妃様の取りなしで命を救われた者が既に数十名にものぼっていて、王妃様は『調教師』、または『救世主』と呼ばれ皆から感謝と尊敬の念を抱かれているらしい。
力が全てと考えられてきたこの魔導国レーデの歴史は殺伐としていて、争いがなかった時期がない。それが現在かつてない平穏が訪れているのだが、それも全て魔王様を上手く調教してくれている王妃マージョリー様のおかげであることは、今やレーデで知らぬ者はいない。
そんなわけで、異国からやってきた王妃様はレーデの国民から絶大な支持を得ているのである。
人気者の王妃様の使節団がやって来るとあり、町は歓迎ムード一色に染まった。町長をはじめ、商工会や学校、教会に至るまで総出で、何週間も前から使節団を受け入れるため入念な準備をして待っていたわけである。
この『プルクルの鍋』の店主であるイーサンも、もちろんその一人である。大張り切りで宿のベッドを整え、掃除をし、腕によりをかけた煮込み料理を拵えて、到着した使節団を受け入れた。
使節団が滞在している間、都会からやってきた人たちの話を聞こうと、町の連中もやって来るものだから、店は連日大盛況だ。夜になると食堂の席が客で埋め尽くされ、イーサンは忙しくも嬉しい悲鳴を上げていた。
今夜は大切な用事があるとかで使節団の人たちは出払っていたが、それでもやって来てくれた町の者たちで賑わいを見せていた。
――そこに唐突に現れた、どこか浮世離れしたこの美丈夫である。
目を見張るほどの美貌と、そこにいるだけで見る者を圧倒する威圧感。
なんかよく分からんが、めっちゃ怖い……! 何この人……!?
と戦々恐々と見つめていると、その美丈夫が口にした意味不明の台詞に、イーサンをはじめとするその場にいた全ての者があっけに取られた。
え? 星の輝きのような髪ってどういうこと? 毛髪発光してんの?
待って? 澄んだ湖水のごとき瞳って何色?
女神と見間違えるって、そもそも女神見たことないんですけど、どうやって間違えるの?
てかそんないにしえの吟遊詩人みたいな台詞吐く人、初めて見たんですけど?
頭に浮かんだ疑問は山のようにあるが、美丈夫は当たり前のように質問の答えを待っている。
コイツマジもんや……。
心の声を押し殺し、イーサンは恐る恐る口を開いた。
「ええと、すみませんが、旦那。その、なんてぇか、表現が抽象的すぎて……お探しの人がどんな外見なのかさっぱり分からねえです……」
イーサンの言葉に、周囲が無言でウンウンと頷いた。
それはそうだろう。『星の輝きのような髪』でどんな髪の色なのか想像できる者は少ない。
それなのに美丈夫は驚いたように目を丸くした。
「……なんだと。お前たちは星を見たことがないのか?」
「いやあの、星は見たことありますけど……」
ダメだ、話が通じない。
イーサンは美丈夫の特殊な言語表現を解析することを早々に諦め、とりあえず質問に対する答えを言うことにした。
「ええー、その、ここは王妃様の使節団の方々がお泊まりになっていて、皆さん男性なんで……」
「知っている」
イーサンの言葉を遮るように美丈夫が口を挟む。
知っとるんかい。
ならなんで訊いたんだ、とツッコミを入れたいところだが、いかんせんこの男前の醸し出す雰囲気が怖すぎてできない。おそらく強い魔力を持っている人間なのだろう。強大な魔力を有している者は威圧的なオーラを持っているものなのだ。下手に刺激したくない。
「……ええ~、その、なので、女性のお客さんはまだ一人も見ていない、です……」
イーサンの返事に、美丈夫はピクリと眉根を寄せた。
「そんなはずはない。私は確かに彼女とここで待ち合わせをしたのだ」
「そ、そんなことを言われましても……ヒェエ、睨まないでくださいよ! 俺のせいじゃないですよ!」
知らんもんは知らん。それなのに、美丈夫が赤い目をカッと見開いてこちらを凝視してくるものだから、イーサンの背中に冷や汗が伝う。
(な、なんなのこの兄ちゃん、めっちゃ怖い!)
とにかく迫力がありすぎる。見上げるような長駆も、息を呑むような美貌も迫力を出す要素なのだろうが、何よりその赤い目だ。炎のような……いや、傷口から噴き出す鮮血のごとき真紅が禍々しいことこの上ない。
(血みたいな赤い目怖い! 大体コイツ本当に人間か!? こんな赤い目見たこと……え、赤い目?)
イーサンはハッとなった。
真紅——世にも珍しいと言われるその色彩を瞳に宿す者を、見たことはない。だが知っている。
何故なら、魔王様こそ、その瞳の持ち主だからだ。
(えっ!? う、嘘だろう!? まさか魔王様……!?)
自分の考えにギョッとして顔を上げると、目の前には先ほどよりも顔面の凶悪さを増した美丈夫が立っていて、なぜかイーサンに掌を向けている。その手が赤黒く光っているのは、目の錯覚だろうか。
「ヒェ……」
「よもや貴様、我が最愛の人を隠したのではあるまいな?」
地の底を這うような低い声に、イーサンは半分泣きながらブンブンと首を横に振った。喉はおろか全身がブルブルと戦慄いていて、もう悲鳴以外の声が出る気がしない。
「彼女は絶対に私を不安にさせるような真似をしない。そんなことをすれば世界が滅ぶことを知っているからだ」
待ってそれってどういうこと!?
不安になったら世界滅ぼすってこと!? 物騒すぎでは!?
店にいる人間全員がそう思っただろうが、美丈夫の手から赤黒く光る何かが放たれようとしている今、声を上げることのできる猛者はいなかった。
「つまり彼女が待ち合わせに遅れることはない。となれば……ここにいる者たちに攫われたということだろう」
なんで自分達がそんな真似を⁉ そもそもその論理破綻してません⁉
ツッコミを入れられない代わりに、イーサンはひたすらブンブンと頭を振り続ける。
「彼女は妖精のように愛らしいゆえ、攫いたくなる気持ちは理解できぬこともないが……。相手が悪かったな。このギード・ヤーコプ・レーデの妻に手を出したのだ。相応の報いを受けてもらおう」
やっぱり魔王様だったのか……。
サイコパスすぎる美丈夫が自ら名乗ったことで、自分の予想が当たっていたことを知ったイーサンは、魔王様の手の光が強くなるのを見て目を閉じた。
頭の中にこれまでの人生が走馬灯のように蘇る。
(……三十八年、短いけど悪くない人生だったな……)
最期が冤罪で殺されるとしても、相手は言葉の通じない魔王様である。
もうこれは森で腹をすかせたヒグマに遭遇したようなものだ。
運が悪かったと思うしかない。
半ば諦めるようにして全身の力を抜いた時、バァンと派手な音を立てて店の入り口の扉が開いた。
「やめなさい、ギード! 何をしているの!?」
矢のように飛んできた叱咤の声は、高く澄んだ鈴のような声だった。
次いでトタタタという軽やかな小走りの音がする。
「その物騒な物を引っ込めなさい!」という小言と共にベシッと何かを叩くような音もした。
イーサンが恐々目を開くと、魔王様の隣に華奢な若い女性が立っていた。
陽の光のような金色の髪に、澄んだ藍色の目が美しい。
驚いたことにその女性は、魔王様を怖がりもしないどころか、光っていた魔王様の手を叩いて叱りつけている。「むやみやたらに魔導術で人を攻撃してはいけないと言ったでしょう!」
プリプリと怒っている彼女に、魔王様はしゅんとしながらも言い訳をした。
「……でもマージョリー。僕が来た時に君がいなくて、不安になってしまったんです」
――『僕』!? そして口調も変わってるんですけど!?
魔王様の口調が先ほどまでの傲岸不遜なものから一変していることに、そこにいた全員がハゲるほど仰天した。
いや誰。さっきまでの怖い人どこ行った。
態度変わりすぎじゃないですか。
「不安になったからって人を攻撃していい理由にはなりません」
まことその通り。いいぞ、もっと言ってやってください、姐さん。
イーサンが心の中で女性を褒め称えたのは言うまでもない。
魔王様の言い訳をピシャリと撥ねのけ、女性は深々とため息をつく。
「大体、不安になったと言うけれど、あなた、待ち合わせの場所を間違えているわ。私は『クルエラの釜』で待っていると言ったのよ?」
「……クルエラの釜……」
魔王様がポカンとした様子で女性の言った店名を繰り返した。
いやポカンはこちらである。
『クルエラの釜』とは、この町にある料理屋の名前だ。確かにこの『プルクルの鍋』となんとなく名前が似ているかもしれないが、『クルエラの釜』はどちらかというと高級な料理を出すドレスコードのある店で、ここのようにざっくばらんな雰囲気ではなく、宿泊施設もない。この町で二つの店を間違える者はほとんどいないので、イーサンもそこまで考えが至らなかった。
(だ、だが要するに……)
自分は魔王様の勘違いでぶっ殺されるところだったわけである。
これは怒っていいところだろう。
無論、怖くてできっこないのだが。
しかし、このフラストレーションをどうすればいいのだ。
イーサンが一人悶々としていると、「あの」と涼やかな声で呼びかけられた。
ハッとして目を上げると、金色の髪の女性が申し訳なさそうにこちらを見つめている。
「本当に、ご迷惑をおかけしてごめんなさい。よくいい聞かせておきますので、どうか許してあげてください」
「あ……」
可憐な女性に真摯に謝られ、悪い気のする人間はいないだろう。
イーサンは「い、いやそんな」と慌てて居住まいを正した。
なにしろ、この恐ろしい美丈夫が魔王様なら、この女性はきっと……。
冷静になってみると、この状況はいろいろとんでもないし、この方は本来なら見ることもできなかったような天上の人である。理不尽な扱いを受けたとはいえ、腹を立てている場合ではない。……いや、腹は立てていいのかもしれないが、立てる相手はこの女性ではない。
「……おのれ、路傍の石塊の分際で我が妻から声をかけてもらうなど……」
「ヒッ」
また魔王様が非常に重力のある物言いで睨みつけてきたが、すかさず女性に手の甲をベシッとやられていた。
「本当にごめんなさい。お詫びになるか分からないけれど、後でちゃんと相応のものをご用意いたします。ひとまずはこの人を落ち着かせたいので……」
「あ、ハイ。分かりました」
是非。お詫びとか要らないので、すぐに連れて帰っちゃってください。
即答してコクコクと頷けば、女性はホッとしたように微笑んで、魔王様の腕に手をかけた。
「さあ、ギード」
優しい声で名前を呼ばれ、魔王様がポッと頬を赤らめる。魔王様、チョロすぎでは。
「私も会えるのを待っていたのよ。二日ぶりだもの」
「……マージョリー……」
「使節団についていきたいと言ったのは私だけれど、会えない時間はやっぱり長かったわ」
「マージョリー!」
甘えるような囁きに、魔王様は嬉々として女性を掻き抱いた。そしてパチンと指を鳴らすと、二人の姿は一瞬で消えてしまった。
「……転移魔導術……」
誰かが呟くのを聞いて、なるほど、これが転移魔導術か、と納得する。
こんな高度な魔導術を間近で見たのは初めてだった。
しんとしていた店内は、騒動の主が姿を消したことでザワザワとし始める。
「やっぱりあれが魔王様だったんだな……」
「冷酷どころの騒ぎじゃなかったな」
「ああ、話が全く通じなかったな……」
皆、美丈夫の正体に気づいていたようで、そんなことを囁き合っていたかと思うと、次には女性の話題に移った。
「王妃様、可愛いかったなぁ」
「すごく優しそうだったな!」
「優しそうっていうか……強かったな」
「ああ、魔王様の手、べしべし叩いてたな。俺ヒヤヒヤしちゃったよ……」
「魔王様、自分のこと『僕』って言ってたな……」
王妃様を前にすると、凶悪な魔王から礼儀正しい青年(?)に変貌する様子を思い出し、イーサンはプッと噴き出した。
「王妃様が『調教師』、って本当だったんだなぁ……」
ヒグマよりタチが悪い最凶の獣を、見事に飼い慣らしていた。
なんという稀有な存在だろう、と思うと同時に、そんな人を王妃に迎え入れることのできたレーデの民は、まさに幸運だったのだと思った。
(……王妃様が嫁いできてくれなかったら、今頃この国は焦土と化していたかもなぁ)
世界を滅ぼす、と平然と口にした魔王様だ。制御する者がいなければ、きっとそうなっていたのだろう。
もしも、の世界を想像し、イーサンはブルリと身を震わせた。
そして不吉な想像を振り払うようにして、大声を張り上げる。
「よし、皆! 今日は店の奢りだ! たっぷり呑んでいってくれ!」
ワッと歓声が上がり、皆が持っていたグラスを高く持ち上げる。
「最強の王妃、マージョリー様に、乾杯!!」