スミレと、僕の宝物
「おとーしゃまー!」
息子の大声がサンデオン公爵邸の庭にとどろく。
顔も髪や目の色も何もかもアレクにそっくりだが、どこまでも届く伸びやかな声だけは母のルリーシェ譲りなのだ。
「どうした?」
執務中だったアレクは二階の窓から顔を出した。庭にちょこんと立った息子のエルヴァーが、ニコニコしながらこちらに手を振ってくる。
「こっち、きてくだしゃい!」
エルヴァーは三歳だ。
まだ『二階から飛び降りたら死ぬ』ということを理解できていないので、息子の前では窓から飛び降りてはならない。
そう大公夫妻や妻のルリーシェから厳命されている。
「今から行くよ、お母様はどこに行ったの?」
「あっち、います!」
エルヴァーが花壇のほうを指さす。ここからは見えない。
「分かった。いい子で待っていて」
言い置いたアレクは全力で部屋を飛び出した。最短経路を駆使してきっかり十数秒後、庭に顔を出す。
「エルヴァー!」
「しゅごい! おとうしゃま、はやーい!」
満面の笑みを浮かべたエルヴァーが、ちょこちょこと駆け寄ってきた。短い腕を伸ばして抱っこをねだるエルヴァーを、アレクは同じく笑み崩れながら抱き上げた。
「あのね、おはな、さいたの」
「スミレの花?」
「うん」
小さな頭をすり寄せてくるエルヴァーを撫でながら、アレクは花壇へと向かった。
――可愛いな……僕とルリの息子可愛い……僕とルリの息子賢い……僕とルリの息子声大きい……僕とルリの息子生きてるだけで尊い……。
心の中で息子への愛を叫びながら、アレクは花壇にたどり着いた。日傘を差したルリーシェが、花壇を覗き込んでいる。
「ルリ」
「あら、アレク。エルヴァーが呼んだから来てくれたの?」
振り返ったルリーシェがにっこりと笑った。そして、膨らみ始めたお腹を庇うようにゆっくりと歩み寄ってくる。
「見て、お父様が種をくださったスミレ、また今年も咲いたの」
「本当だ……」
アレクはそっとエルヴァーを地面に下ろし、花壇の前にかがみ込んだ。
傍らに、ぴたりとエルヴァーが寄り添ってくる。
「これが、ぼくがうえたやつ。これが、おかあしゃまがうえたやつ。これが、おとうしゃまがうえたやつ」
エルヴァーにはどの花が誰の植えた種か分かるらしい。
「分かるんだ、すごいね」
「はなが、ぜんぶ、おしえてくれる!」
自信に満ちたエルヴァーの答えに、ルリーシェが眉をひそめた。
「やめてエルヴァー、おじいちゃまみたいなこと言わないで」
「これは、おかあしゃまが、うえたの!」
「お願いだからあまりおじいちゃまに似ないでね。まあ元気でいてくれるならいいんだけど……」
お腹をさすりながらルリーシェが言った。
アレクは立ち上がってその肩を抱き、ルリーシェの艶やかな頬に口づける。
「あんまり心配するとお腹の赤ちゃんがびっくりするよ」
「そうね……でもあんまり園芸の才能を発揮されると不安になるわ」
「大丈夫だよ。エルヴァーは義父上に似て花が大好きなだけさ。この前付けた教師だって、エルヴァーは歳のわりにすごくしっかりしているって褒めてくれただろう? これから先、人に騙されないよう育てるのは僕たちの役目だよ」
そう言うと、ルリーシェはほっとしたように微笑んだ。
――君はお母さんだから、どんな些細なことでもエルヴァーが心配なんだよね……。
アレクは手を伸ばして、そっとルリーシェのお腹に触れた。
「今日は大丈夫? お腹は張らない? 気持ち悪くない?」
「ええ。ここ半月ほどで、すっかり楽になったわ。このまま無事で、また安産だといいな」
「重いものは持たないで、運びたいものがあったら僕を呼んでね」
「ありがとう」
アレクの言葉に、ルリーシェが微笑む。
「また僕たちに赤ちゃんが生まれるんだね……」
ルリーシェのお腹の赤ちゃんは五ヶ月で、まだ胎動は分からない。医師は順調に育っていると言っていた。
「アレク、また赤ちゃんが生まれたら独占するの?」
冗談めかした口調でルリーシェが尋ねてきた。
父親になったばかり頃の、身体中が弾け飛びそうなくらいの幸せを思い出す。
「懐かしい話をするね。だけど本当に嬉しかったんだよ、エルヴァーが僕たちのところにきてくれて」
アレクは毎日毎晩エルヴァーのおむつを替えて、小さなお風呂に入れて、夜中に泣けばすっ飛んでいってあやしていた。お乳をあげること以外は全部したと思う。
侍女や乳母よりもアレクが世話を焼いていたのだ。公爵邸の語り草になるほどに。
とても大変だったが、今でも思い出すと幸せになれる。
アレクは口元をほころばせて頷いた。
「だから、また赤ちゃんが生まれたら僕が独占するかも」
そのとき、エルヴァーが足にぎゅっと抱きついてきた。
「おとうしゃま、あそぼう」
ルリーシェが優しい笑顔で、幼い息子に尋ねた。
「ねえエルヴァー、貴方、お父様がいっぱいお世話してくださったのを覚えてる?」
「なーに……?」
不思議そうな顔でエルヴァーが首をかしげた。
アレクはもう一度甘えるエルヴァーを抱き上げ、可愛い顔に頬ずりをした。
「いいんだよ、覚えてなくて」
「……? うん!」
エルヴァーがぎゅっと抱きついてくる。
「ぼく、おとうしゃまがだいすきです!」
「父様も君が大好きだよ!」
戯れにぎゅっと抱きしめると、エルヴァーが無邪気な笑い声を上げる。アレクはエルヴァーに何度も『高い高い』をしながら微笑んだ。
――今の僕、父上みたいな顔をしてるのかな。
アレクは、優しかった父の笑顔を思い浮かべる。
家族を愛していた。すべてを奪われて本当に悲しかった。悲しくて悲しくて、真っ暗な場所で一人うずくまっていたとき、不意に光が現れたのだ。
『いきなり何するの! 首なんか絞めたら死んじゃうでしょ!』
……最低の出会いだったのに、妻は今でもアレクの側にいてくれる。
そして、世界一幸せな父親にしてくれた。
アレクはエルヴァーを抱いたまま、ルリーシェを振り返った。
「ルリ」
「なあに?」
「無事に赤ちゃんを産んでね」
「毎日心配してくれてありがとう。大丈夫、絶対元気に産んでみせるから」
そう答えて、ルリーシェは日傘をくるりと回す。
ルリーシェの背後で、咲き誇るスミレが風に揺れた。
懐かしい。母と植えたあのスミレと同じだ。
幼い頃、アレクは幸せだった。そして父親になった今も幸せだ。
――ルリが僕をこの明るい場所に連れてきてくれたんだ……ずっと迷子だった、どうしようもない化け物の僕を……。
一秒でも長くこの時間が続きますようにと願いながら、アレクは言った。
「ありがとう、ルリ」