ソーニャ文庫

歪んだ愛は美しい。

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騎士の休日

 可愛い。
 つい先刻まで『話しかけたら殺す』オーラを駄々洩れにしていたヴォルフガングは、帰宅してそれを眼にした瞬間、だらしなくやに下がった。
 場所は自宅の温室。
 貴族の別邸だった屋敷は、小振りながら硝子張りで造られ贅を凝らした温室が設けられている。
 屋敷を買い取った当初は荒れ果てており、いっそ取り壊そうかとも考えたが、コティが『ここを猫たちの憩いの場にしたい』と言ったので、残すことを決めたのだ。
 今では夫婦共に時間があれば入り浸る場所になった。
 そんなわけで、眼前には愛してやまない妻が長椅子でうたた寝をしている。その周囲にはフワフワの毛並みが幾つも丸くなり眠り、日光浴を楽しんでいた。
 この世の誰より愛しく、ヴォルフガングの生きる意味そのもののコティと、可愛いを体現した猫たち。その彼らが無防備かつ幸せそうに昼寝する姿を前にして、怒っていた自分自身が馬鹿馬鹿しくなってくる。
 苛立ちはたちまち眠気へと昇華され、ヴォルフガングは足音を立てないよう、そっとコティらに近づいた。
 ―――ああ、見ているだけで心が浄化される……
 黒猫に白猫、茶白や灰色、まだら模様と様々だ。尾の長いもの、長毛種や耳の垂れた個体まで、見ていて飽きることはない。
 ゆったりと上下する腹を上に向けて安眠し、すっかり野生を忘れた猫までおり、もう口元は緩みっぱなしだ。しかもその中心には、結婚して一年近く経とうとも愛くるしさに微塵の陰りもないコティがいる。
 いや、彼女の魅力は日増しに加算される一方で、ヴォルフガングは日々愛情を募らせていた。
 ―――ここは天国か? いや、地獄だったとしてもかまわない……!
 今、この素晴らしき世界を守れるなら、国王や神、魔王だって一瞬の迷いもなく屠れる。
 自分の理想の幸せを壊そうとする輩がいれば、最大限の苦痛を味わわせて抹殺すると固く心に誓った。
 ―――幸せだ……
 ちなみにこの温室以外に、屋敷の中にも猫のための部屋はある。
 無計画に繁殖しないよう、雄雌分けてそれぞれの部屋で飼っているのだ。今は全部で八匹いるが、将来的にはもっと増えるかもしれない。
 野良生活は、厳しい。それを分かっているから、ヴォルフガングは屋外で痩せ細った猫を見かけると、保護せずにはいられなかった。
 何はともあれ、今の住居は広い屋敷とはいえ二部屋が猫専用に宛てられ、更に専任の世話係も雇っている。
 王都の者たちには『第二騎士団団長様は猫屋敷を目指しているのか……?』と囁かれているが、そんなことは気にならない。
 極度の猫好きであることが露見するのを恐れていたけれど、今のところその心配はなさそうである。
 騎士団の部下からは『奥様は動物の保護活動に熱心ですね』と好意的に受け止められているためだ。
 コティに濡れ衣を着せているようで心苦しくはあるものの、彼女がかまわないと笑ってくれたので、甘えている形だった。
 ―――いっそ大々的に動物愛護を打ち出していくのも、悪くないかもしれないな……
 近頃では減りつつあるが、野犬被害も見過ごせない問題だ。
 きちんと住処と餌を確保できれば、犬たちだってわざわざ人間に危害を加えはしないだろう。誰にとっても万々歳ではないか。
 それにコティが働く孤児院で大きな犬を飼い始めたら、防犯になっているとも聞く。穏やかで子ども好きな犬だが、不審者の侵入は決して許さず頼りになるらしい。
 財政難に喘いでいた孤児院は、ヴォルフガングが寄付を増やし、更に国に掛け合ったことで補助金が増額された。おかげで余裕が生まれ人を雇えるようになり、コティの代わりに住み込みで働いてくれる者が二人も見つかったのだ。そのため現在彼女は通いの職員―――正確には、報酬を受け取らない善意の手伝いになっていた。
 勿論、新しく赴任した院長も人格者で、孤児院に預けられている子どもたちはとてもよく懐いている。
 時折、元院長を思い出し複雑な顔をする子もいるが―――それは時間が解決してくれると信じるしかない。大っぴらに事件の顛末を語ることはなくても、いずれは子どもらの耳に入ることだ。
「……んん……ヴォルフガング様……?」
「ただいま、コティ」
 寝返りを打った拍子に目を覚ましたコティが、やや寝惚けた双眸を瞬いた。
 半覚醒で眼を擦る仕草も愛らしい。数度瞬きし、ようやく焦点がこちらに合う。
「お、お帰りなさいませ! 私ったら居眠りしてしまって……!」
「いや、起こしてしまい、すまない。物音を立てないよう、細心の注意は払ったんだが……」
 天使さながらの妻に見惚れ、無言で熱烈に見つめ続けすぎたのか。流石に至近距離で凝視していたので、コティも気づいてしまったようだ。
「いいえ、謝るのは私の方です。休日もお仕事に出かけられた多忙な旦那様を、待ちながら眠ってしまうなんて……ごめんなさい」
 そんなことはちっとも気にしなくていいのに、誠実な彼女は申し訳なさそうにしている。ヴォルフガングとしては、帰宅したら楽園の光景が広がっていて眼福でしかなかったのだが。
 身体を起こしたコティは深く頭を下げた。
「気に病む必要はない。悪いのは全部、突然騎士団の視察だなどと宣って押しかけてきたお偉方だ。……クソッ、何も俺の貴重な休みに当ててこなくても……確実にわざとだ。許せん」
 事前連絡もなくやってきた貴族連中のあしらいに困った部下から連絡を受け、ヴォルフガングが渋々騎士団に顔を出せば、ニヤニヤと下卑た嗤いを張り付けた男どもがいた。
 顎をそびやかし『案内しろ』と言い放った姿を思い出すと、苛立ちが再燃する。叶うなら、残り少なくなった頭髪を毟り取ってやりたい気分だった。
 しかし残念ながらそんな暴挙が許されるはずもなく、ヴォルフガングは急遽休日返上する破目になったのである。
 前院長の事件以降、ヴォルフガングの評価は大幅に上がったけれど、その裏では面白く思わない者もいる。既得権益を貪ることに腐心していた貴族たちだ。身分しか自慢がない輩ほど、地味な嫌がらせに熱心だった。
 所詮、雇われている身の悲しさか。もういっそ職を辞して、愛する妻と猫と共に地方に引き籠ろうかと、あの一瞬は画策してしまった。
 ―――でもまだ駄目だな。ここで成し遂げたいこともあるし、何よりコティのために金は稼いでおきたい。
 彼女に生活苦を強いるつもりは毛頭ない。むしろ湯水の如く浪費してもらってもかまわないくらいだ。けれどコティは堅実で、一切無駄なものに使おうとせず、それどころか彼女自身のものを買うことにも前向きではなかった。
 ―――そういう倹約家なところも大好きだが、もう少し甘えてもらえたら嬉しい。
 砂糖菓子めいた見た目に反し、コティはしっかり者だ。
 いきなり騎士団団長の妻になっても、部下たちに気を配り、周囲とも上手く交流してくれている。彼女の出身についてあれこれ言う者もいるが、コティの人柄に触れれば大抵が友好的に変わった。
 ―――慣れない世界に飛び込んで、気苦労も多いだろうに……本当に最高の妻を迎えられた。俺は世界一幸福な男だ。だからこそ、夫婦の大事な時間を邪魔した奴らは万死に値する……
「ヴォルフガング様、お顔が怖いです」
「あ」
 突然眉間を彼女に突かれ、ヴォルフガングはそこに深い皺が寄っているのを自覚した。
 しかもコティは人差し指で、険しい谷と化した眉間を摩ってくる。長年顰め面をしていたせいで、簡単には消えるわけもないのに。
「……擽ったい、コティ」
「ふふっ、やっと笑ってくださいましたね。私、ヴォルフガング様の笑顔が大好きです」
 花が綻ぶように微笑んで、彼女が晴れ晴れと告げる。過去、優しい笑みを向けたつもりだったのに、幼子にギャン泣きされた自分としては、非常に嬉しかった。
「……コティは、俺の機嫌を一瞬で最高にしてくれる」
「貴方も、同じです。ちょっとしたことで私をご機嫌にしてくださいます」
 恥ずかしげに頬を染めた彼女があまりにも可愛らしく、ヴォルフガングはその場に片膝をついた。
 長椅子に腰かけたコティと視線の高さがほぼ同じになる。間近で覗きこむ水色の瞳はやや潤んでいて、こちらの心臓を見事に射貫いた。
 脳が蕩けそうになるほど可愛い。丸ごと呑み込み閉じ込めたい衝動とドロドロに甘やかしたい欲求が交互に揺れる。とは言え、前者が勝ることは永久にない。
 ヴォルフガングの望みは彼女の幸せ。それ以外、一つもなかった。
「コティ……」
「ヴォルフガング様……」
「ニャー」
 今まさに口づけようと顔を寄せた刹那、下からニョッキリと二人を阻む黒い毛玉が現れた。
 猫である。
 彼女の隣で丸くなって眠っていた一匹が立ち上がり、前足でヴォルフガングの顔をタシッと押さえ込んできたのだ。
「むぐ……っ」
「あ、こら。駄目でしょ、コロちゃん!」
 その猫の正式名称は『コロコロ』。保護した当時から更に巨大化しているのは、言うまでもない。通常の野良はガリガリに痩せていることが多いが、何故かこの猫だけは丸々と肥えていた。
 ―――拾ったのは俺なのに、こいつはどうしてコティと俺の仲を邪魔してくるんだ。
 おそらく、彼女を取られるとでも思っているのか。コティに懐いてくれるのは嬉しいが、こういう悪戯はいただけない。
 ―――コロめ……猫だから大目に見てやるが、もし人間だったら八つ裂きにしてやる。―――しかし生意気に睨む姿も可愛いな。こいつめ……っ!
 目つきの悪い悪人面でも、猫だと可愛さしかないのだから、反則である。
 どんなに思い通りにならず手を焼かされたとしても、『猫である』一点に於いて、ヴォルフガングは全て許さざるを得なかった。猫の下僕なのだから、仕方ない。
「コロちゃん、大人しくして」
 コティに抱かれて撫でられた猫が、ゴロゴロと喉を鳴らしている。圧倒的に愛くるしさしかないのだが、勝ち誇ったようにヴォルフガングを横目で見るコロは好敵手でもあった。
「こっちにおいで、コロ。お前は少し痩せなくては駄目だな。このままでは身体に悪い。よし、運動しろ」
 半分本物の気遣い、残りの半分は計略で、ヴォルフガングはむっちりとした黒猫を抱き上げた。
 そしてそのまま高い位置にある猫専用の通路へコロを乗せる。この温室には猫が自由に動き回れるよう、高所に一周ぐるりと板を渡してあり、ところどころ彼らが身を隠せる箱などもあるのだ。
「ふぎゃっ?」
 時間と金をつぎ込み仕上げたふくよか体型のコロは、高所から自力で下りられない。だから唐突に高い場所へ放置され、不満の唸りをあげた。
 当然、ヴォルフガングは分かっていてしたことである。
「少しは動く努力をしろ。どうしても下りられなければ、後で手を貸してやる」
「ゥウ……ッ」
 こちらの思惑に勘づいたらしい猫は威嚇の声を上げて耳を後方に反らした。だが早々に『自分で下りるのは無理』と白旗を揚げたらしい。不満たらたらの様子でふて寝を決め込んだ。
「諦めがいいな。そんなところも可愛いが、痩せなきゃならないのは、本当だぞ」
「そうですね、コロちゃんは少し横に大きくなりすぎですよね……おやつ、控えているのに……」
 純真なコティはヴォルフガングとコロによる水面下の戦いにはまるで気がついていないのか、うんうんと何度も頷いている。まさか夫と飼い猫が己を取り合っているなどとは、想像もしないに違いない。
 ヴォルフガングとしても猫を相手に嫉妬しているとは思われたくなくて、さも何でもない風を装った。
「コロ、お前のためを思って厳しいことを言っているんだからな?」
 大きな掌で頭を撫でてやれば、コロは恨めしげにこちらを一瞥し、その後背中を向けてしまった。どうやら本格的に眠るつもりのようだ。
「少しは頑張れよ。後で鼠の形をした玩具で遊んでやる」
 コロはヴォルフガングに対し反抗的な一面はあるけれど、それでも噛んだり引っ掻いたりしない辺りは、一応飼い主として認めているのか。
 ペシペシ尻尾を叩きつけることで返事をした黒猫に、思わず笑ってしまった。
 それでもコロなりに『見ていませんよ。お好きにどうぞ』の意思表示だと勝手に解釈し、ヴォルフガングは愛しい妻に向き直る。
「せっかくの休日に、一緒にいられなくてすまなかった」
「お仕事ですもの、仕方ありません。でももっと遅くなるかと思っていました。ひょっとしたら、ご夕食もお客様とされるのかと……」
「コティが家で待っているのに、何が楽しくてよく知らないオッサンたちと顔を突き合わせて食事しなければならないんだ。新手の拷問か」
 流石にそこまでつき合わされたら、暴れたくなる。
 本当はそれとなく接待を要求されたのだが、断固断って速やかにお帰り願った。どうせ視察など建前で、実際の目的は平民出身のヴォルフガングを嘲笑いに来たのは明白だ。
 今更『空気の読めない無骨者』と悪評が一つ二つ増えたところでどうということはない。こちとらそういった貴族様のあしらいには慣れているのである。
「そんなことをおっしゃって大丈夫ですか?」
「問題ない。その程度のことで揺らぐ働きはしていないつもりだ」
 貴族に生まれたことだけを自慢にしている者たちに表向き頭は垂れても、本気で支配されるつもりは欠片もなかった。自分を真実操れるのは、たった一人。この世で唯一、ヴォルフガングに愛を教え、狂わせもする存在―――
 ヴォルフガングはコティを抱きしめ、艶めいた唇に口づける。
 瞬間、恍惚で満たされた頭に不穏な考えがよぎった。
 ―――ああ……このまま彼女を閉じ込めて、自分だけのものにしてしまいたい―――
 けれどそんな妄想は、瞬き一つの間に振り払う。
 コロ以外の猫がヴォルフガングの帰宅に気がつき、『遊んでくれ』とじゃれついてきたからだ。
「ふふふ、ヴォルフガング様は大人気ですね」
「ああ、こら、爪は出すなよ」
 やんちゃな猫を抱き上げて、コティと一緒に微笑み合った。柔らかな毛玉は、手の中でぐにゃぐにゃと動き回る。
 この上なく幸せだ。だからそれを壊すようなことは決してしてはならない。
 彼女と猫たちの穏やかな生活を今後も全力で守ってゆくと、ヴォルフガングは固く心に誓った。

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