かみさまと過ごす冬
塔ノ木昂にとって、冬という季節は決して好きになれるものではなかった。
コホ……と小さな咳を一つすると、昂の母は直ぐに顔をしかめた。
「風邪? だったら早く部屋に戻りなさい」
嫌悪感もあらわにそう指さされるのは、この平屋の家でも一番奥の北側の部屋だ。
大伯父と同じ部屋なのだが、夜勤の多い大伯父がその部屋に寝に帰ることはあまりない。
昂は再び喉からこみ上げるむずむずとした感覚を抑えて、「はい」と小さく呟いた。
ずずっと鼻水まで出てくる。
学校では最近風邪が流行り始めていた。昂も気をつけてはいたが、どうやら友達からうつされてしまったらしい。
部屋に戻り布団を敷く。暖房さえ入っていないこの部屋は、冬は大変寒い。いつ干したかわからない重く湿った綿布団を押し入れの中から引っ張り出して、その中にくるまる。
「寒……」
ポツリと呟いた自分の言葉は思った以上に部屋の中に響いてしまった。
誰もいない。誰も来ない。
遠く離れた居間のほうでは、母の新しい夫が意気揚々と何かを話しているようだった。
身体の節々がジンジンと痛くなってくる。これはきっと本当に熱が出るだろうと思った。母にバレたらなんと言われるだろう。そう思うと更に憂鬱になった。
「寒い……」
誰もいないことをいいことに、更にもう一度そう呟いた。本当に寒かった。
どうしてこんなに寒いのだろうと思ったが、きっとそれは暖房がないばかりのせいではない。
寒い。悲しい寂しい。
色んなものがしんしんと心の中に積もっていくのを感じなから、昂はギュッと目を閉じた。
優しい手が、自分の額に触れたのを感じて、昂はゆっくりと目を開いた。
「あ、起きた」
その柔らかい声に、ここは自分の部屋ではないのだろうかと思ったが、ぱちくりと目をしばたきながら顔を動かすと、昂の部屋に臨がいることが分かった。
ひどく――ひどく色あせた夢を見た気がした。
思い出したくもなくて、思わず臨に声をかける。
「どうしてここにいるの……?」
「今日、年休だよって西条社長に言われたから、どうしたのかと思って」
チャリッと見せられたのは、臨に渡しておいた合鍵だ。
諸々のことが片付いて、お金が貯まるまでは引っ越しする気にもなれないと言ったら、なんだかんだと臨は昂に物を譲ってくれるようになった。
曰く、実家で兄が使わなくなった物だとか、父がいらないというからもらってきたとか、なんだかんだと理由をつけては昂の家に持ってこようとするので、手荷物を持たせたまま待ちぼうけをさせるのも悪いと思って、いつでも入っていいよと合鍵を渡した。
だが物事には限度があるということを、臨も臨の兄もわかったほうがいいのではと昂はたまに思うことがある。
「臨ちゃん、あれは何かな……?」
起き上がって、目の前に大きな薄型テレビが、テレビ台付で置いてあった。この家にテレビは置いてなかったはずだ。
「あ、これね……」
「うん」
とりあえず臨の言い分を待つ。
「お兄ちゃんが新しいの買うからってお下がりにくれたの。小さいから昂にあげるって」
「小さい……」
「四十インチじゃ小さいよね」
「……」
元々臨はお金で苦労をした家で育ったわけではない。まして臨自身も自分でかなり稼ぐ高給取りだ。そのせいか、金銭感覚が昂とたまにズレこむことがある。
この貧乏アパートにこんな大きなテレビはいらないと思ったが、目の前であからさまに臨が申し訳なさそうな顔になったので、昂はにっこりと微笑む。
「ありがとう」
嫌なわけではないのだ。ただ、こうして人にあれこれ貢がれるのは好きでないだけで。
「ご、ごめんね。お兄ちゃんがせっかくだから持っていこうって……」
「ううん。いいよ。ただ、いつも申し訳ないと思って」
臨一人では持ってこられなかったはずなので、瑛が手伝ったのは丸わかりだ。
「ちなみにおにいさんは?」
「あ、置いたら帰ったよ」
「そう……」
昂が布団で熱にうなされている横で、デリカシーなくテレビを運び込んだ瑛を思うと、あの人はなぁ……と思うが、間違いなくわかっていてやっているのだから質が悪い。
そして、申し訳ないなあとは感じつつも、このことで昂の矜持など傷つけるとは思っていない臨に対しても、幾ばくか思うところはある。
「臨ちゃんは本当に付き合う相手が僕で良かったよね……」
しみじみと思ってしまう。
こんなに無防備に貢いでしまう女の子、下手をすれば悪い男のカモにされてもおかしくはない。
そうならないためにあの兄がいるのだろうが、交際している男に対してもこうしてたまに圧力をかけてくるのはやめてほしいとは思う。
(まあ、これも含めて“烏丸”なんだぞってことなんだろうなあ)
他の人間とは違う。財力もそれ以外も含めて。
そういう人と一緒に生きていくことは、なんだかんだと歪みやすいとも思っているのだろう。だからってわざとこうして潰しにかかるのはどうかと思うが。
「えっ……ご、ごめん。本当にごめん……」
怒らせてしまったのかと、更に身体を小さく萎縮する臨を、昂はぎゅっと抱きしめた。
ふんわりと優しい香水の匂いがした。
自分のことを地味顔だなんだと臨は言うが、本当はとても綺麗な女の子だと昂は知っている。
凜とした立ち姿に迷いのない表情。
彼女は自分の仕事、生き方に自信を持っている。
そこが迷いながら生きてきた昂とはまったく違うところで、だからこそ自分はこの女性に惹かれたんだろうなと昂は思う。
すうっと臨の匂いを嗅ぐと、「わわっ」と臨が声を上げた。
「か、嗅がないで」
「そう? 臨ちゃん、いい匂いだけどなあ」
「あ、そうだ……ちょっとごめん」
昂の胸の中で、臨がもぞもぞと動いた。
昂の胸に手を当てて、小さく一言。
「呪われろ」
ドキリとした。昂には今は何も見えないが、スウッと身体の中の淀んだものが臨に流れていったような気がした。
「臨ちゃん!」
昂が険しい顔をして臨を胸から引き剥がすと、へへへと小さく臨は笑った。
「どう? 少しは楽になった?」
「楽になったって……」
確かに体調の悪さは一瞬にして和らいだ。
風邪だと思っていたコレは、どうやら少しばかり誰かの呪いが影響していたらしい。
そして臨は昂にふりかかるソレを、自分に移すことができてしまうので、ためらいなくすぐにそうしてしまう。
(ああ、もう本当にこの子は……!)
またぐっと自分の胸に抱き寄せて、臨の体調に異常はないか確認してしまう。
ペタペタと背中などを触っていると、
「昂くん、くすぐったいよ」
と、臨が可愛らしく言った。
「臨ちゃん、体調は?」
「んー、特には……?」
元々、呪術師という家系もあってか、同じように呪いを受けても臨は影響が他の人より少ないのだと言う。それでも自分の呪いを肩代わりされてしまうことを昂は申し訳ないと感じてしまう。
「あんまり、しないでね?」
そう言うと、
「それは無理」
力強く否定された。
目の前で黒曜石のようにキラキラと煌めく黒い瞳は臨の意志の強さの表れだ。
「だって昂くんがしんどいの嫌だもの」
「俺だって臨ちゃんがしんどいの嫌だよ」
コツンと臨が昴の額に自分のを合わせてくる。そして、くすりと小さく笑った。
「今までいっぱいしんどい思いしてきたんだもの。その分、昂くんは報われていいんだよ」
(どうして僕の人生にこの子が来てくれたんだろう……)
子供の頃の、寒い部屋で薄い布団にくるまっていた自分は、こんなふうな未来が自分に来るなんて信じてくれるだろうか。
風邪を引いたら一人で我慢しろと言われて生きてきたのに、大人になった今ではそれで我慢できるのに、それでもわざわざこうして来てくれる。
昂が人に恨まれたり妬まれたりするのは、昂自身の責任だというのに、それさえ肩代わりしてくれようとさえするこの優しい人は、どうして自分のところに来てくれたのだろう。
「一生分の幸運を使い切った気がする……」
思わずそう呻くと、胸の中で臨がまた笑った。
「いいじゃん、一生一緒にいるんだから、ずっと幸運だよ」
「あー、もう、臨ちゃん好きぃ!」
ぎゅうぎゅうと抱きしめて、キスをしていく。
最初は軽いキスのつもりだったのに、だんだん深くなっていく。舌を絡めたり、吸ってみたり。
戯れに耳に彼女の綺麗で柔らかい髪をかけてあげると、くすぐったいのか肩をすくめた。
「ん……」
甘い声が漏れて、ついいたずらに手が動き始める。ふんわりとちょうど触り心地のいい胸に手を置くと、
「こら、病人でしょ?」
と言われた。
「もう治った」
「うそだあ」
「ほんとほんと」
事実、臨が呪いを昇華してくれたから身体は少し楽になった。
それに臨がいるだけで、部屋の中が温かい。
「だから、しよ」
耳元でそう囁くと、わかりやすく臨がピクリと固まった。こういうところは年相応で経験値が浅いところもたまらなく可愛い。
「ね、おねがい」
最後にもう一息、ふっと息を吹きかけてそうおねがいする。顔を離して視線を合わせると、照れだけではなく顔を赤くした臨が、一言、
「ずるい」
とぼやいた。彼女のソレが「いいよ」という言葉の代わりだってことぐらい、もういい加減わかる程度にはなってきた。
「やった」
いそいそと布団の上に臨を押し倒す。自分が寝ていたところなのでしっとりしているかもしれないと思ったが、臨は気にならなかったらしい。
「なんか……昂くんの匂いがいっぱいする……」
むしろ、目を潤ませながらそう言われてしまったら、もっと自分で一杯にさせたくなる。
臨の上質な服を丁寧に脱がせて、自分のドラッグストアで特価品だったスウェットは乱暴に放り投げた。
塔ノ木の家に縛られることはなくなっても、昂の臍の上、身体のちょうど中心にある痣は消えない。呪いはもうないと臨は言っていたが、こうして形として残るものは消せないようだった。
臨がそこにいたわるように触れてくれる。
誰も触れることのなかった場所を、彼女だけが触れてくれる。
彼女だけにそれを昂は許す。
「臨ちゃん、いい匂い……」
胸の谷間に顔を埋めると、臨が震えながらしがみついてくる。
キスを首筋に。舌をはわせて鎖骨を味わう。
合間に聞こえる甘い吐息が、ますます臨の匂いを強くさせる。
寒かったはずの部屋は、次第に熱の籠もった部屋になる。
(このままずっと籠もっていられたらいいのにな)
舌先で胸の先端をつつくと、臨が可愛らしく啼いた。そのままじゅっと吸えば、簡単に腰をそらせる。経験の浅い身体は、昂の与える快感を素直に快楽として覚えてくれる。
「触っていい?」
「そんなの聞かないで……」
顔を真っ赤にしながら恥じらう姿が可愛いからわざと聞いてしまうと、臨が知ったら絶対に怒るだろう。けれど今は知らないから、いつも昂はわざと尋ねる。
「臨ちゃんの恥ずかしいと思っているところ、いっぱい触っていい?」
「ばかっ……! んあっ!」
怒られる前にさっさと触ってしまう。たっぷりと濡れているそこに指を這わせると、それだけで臨は可愛らしく身じろぎする。
「だ、だめっ……んっ……んんんっ」
触っているだけなのに、素直に反応してくれるからだが可愛い。
熱量がかさ増ししていく部屋の中、自分の息も荒くなっているのがわかる。
馬鹿みたいに興奮していた。この可愛い子が自分の恋人で、その子とセックスできていることが、馬鹿みたいに嬉しいと思えた。
「ごめん、すぐに挿入れてもいい?」
本当ならもっとほぐしてあげたいのに、今日ばかりは早く身体を繋げたくてそう願うと、臨は顔を真っ赤にさせたまま、コクコクと肯いた。
臨と付き合うようになってから、避妊具はいつも本棚の一番下の小箱に入れるようにしていた。いつでもすぐ取り出せるように。
だから今日も直ぐに手を伸ばして、そこから避妊具を取り出して着ける。
臨が白けないように、何度もキスを繰り返す。この急いた思いを彼女にも感じて欲しくて、舌を絡めると、臨の咥内も昂と同じくらい熱かった。
「はっ……」
臨の足をゆっくりと広げてその間に自身を沈めていく。もう幾度となく重ねた身体は、きちんと昂の形を覚えていて、すんなりと迎え入れてくれることが嬉しい。
「ん、臨ちゃん、気持ちいい」
「くぅん……」
犬みたいに啼く臨がたまらなく可愛かった。その表情から痛みはないのだとわかる。
「昂くん……昂くん……」
ゆっくりと沈めていくと、一生懸命に臨が手を広げてくる。
「ぎゅっ……ぎゅって……して!」
「ああ……もう本当に……」
普段はあまり表情を変えないようにしている彼女が、こんなときだけ甘えてくるのが溜まらない。
気がついたらしっかりと臨の奥に入り込んでいた。そのままゆっくり腰を揺らすと、それだけで気持ちいい。
「溶けそっ……」
「んっ……んっ……」
寝込んでいたせいか、それほど早くは動けなかったが、それでも十分に気持ちが良かった。
ゆすゆすと臨を揺すると、臨も気持ちがいいのか、可愛く啼いてくれる。
「臨ちゃん、好きだよ……愛してる」
「ん……んっ……私も……!」
彼女の全身に手を触れる。
彼女の顔中にキスを降らせる。
今まで散々経験してきたことが、何一つ彼女の前では役に立たないことが歯がゆくて、それでもこうしてゆっくりと繋がるだけで気持ちが良くて。
すっかりと暖まった身体は、そのまま果てるまでずっと温かいままだった――
冬が好きではなかった。
そもそもどの季節も好きという感情が湧かなかった。
自分が何のために生きているのかも、何のために生きていくのかも分からなくて――
「わ、すごい」
二人で軽く風呂に入った後、すっかり温かい部屋の中で、臨のそんな声が聞こえてきた。
台所で夕飯の支度をしていた昂は「どうしたの?」と、部屋の方を振り返る。
すると臨はカーテンを少しだけ開いて外を見ていた。
部屋の中の温かさですっかり結露した窓を手で拭いた跡がある。外は随分寒いらしい。
そして、すっかり暗くなった外に、部屋からの暖かい光が漏れて見えたのは――
「見て、雪が降ってる!」
そう言った瞬間の、彼女の顔がとても綺麗で、温かくて。
あれだけ寒くてしんどくて辛かった、
冬という季節が、
昂は、臨のたったその一言だけで、好きになった。