愛に傅く
祈ったことはない。
神に願ったこともない。
道を切り開くのは神でも、ましてや奇跡でもなく、己自身だと思っていたからだ。見えもしないものに縋り、ひたすら祈ることなど愚かだとさえ思っていた。
ローレンとエル=ウィステリア国を出て、この異国の地に根を下ろして一年ほど。
孤児院をこの教会の隣に作り、ローレンとふたりで身寄りのない子どもたちを育てている。教会の祭壇には女神像があり、ローレンが子どもたちを連れて祈りを捧げているのを、シリウスは毎日のように見ていた。
この国の人間が信じるのはジアジャルと異なる神ではあるが、やはり人々が求めるのは救いと許しだ。
シリウスは、女神像を目にすれども、それらを願ったことはなかった。
けれども今、無性に何かに縋りたい。
神でも奇跡でも、悪魔であっても構わない。
不安の中にたゆたう心の、寄り辺となる場所がほしいと願ってしまうのだ。
――先ほど、ローレンに自分の過去を洗いざらい話した。
出自はもちろんのこと、ロブ・マッキンジムに命令されて近づいたことも、異母兄弟であるレイフのことも。
シリウスの醜いところも、浅ましいところも、愚かなところもすべて。
話したいときに話せばいいと言うローレンの言葉に甘えて、今の今まで何も語らずにいたが、もう胸の中にしまっておけないと思った。
幸せだと笑うローレンを見るたび、自分も幸せだと微笑むたび、どこか黒い染みのようなものがジワリと胸の中に生まれる。徐々にそれが広がっていって、今では拭いきれないほどだ。
きっと昔なら、ローレンに出会う前ならこんな気持ちになることはなかった。
過去を振り返り悔やんでも仕方がないと冷静に切り捨て、迷いも不安も生まれることなく強くいられたのに。
ローレンがこの国にやってきてからよく言っていた。
幸せ過ぎて怖いと。
何故幸せなのに恐怖を覚えるのか、シリウスには分からなかったが、今ならよく分かる。
だから、恐怖に押し潰される前にすべてを打ち明けた。
一通り話をしたあとに、ローレンが口を開こうとしているのを見て、その場を立ち去った。彼女の言葉すべてを受け止めきれるか分からなかったからだ。
そして、教会に逃げ込んで、柄にもなく神に祈ろうとしている。
怒られてもいい、詰られ、叩かれ、侮蔑の目を向けられても耐えられる。それだけのことをしてきたと分かっているから。
けれども、傷つき頑なになるだろう彼女の心をいつしか解きほぐして、許しを得たい。
それでも側にいると言ってほしい。
シリウスを愛すると、ただその一言を貰えれば、生涯それ以上のものを望んだりしない。
ローレンを愛して、シリウスは弱くなった。ひたすら、喪うことを恐れて必死になっている。痛々しくも無様に、滑稽に。
そんな自分が情けなかった。
祈りたいのに祈り方も分からず、ただ茫然と女神像の前に立つ自分が、酷く小さく惨めなものに思えたのだ。
「――シリウス」
静謐の中、ローレンの澄んだ声が名前を呼ぶ。
振り返ったものの、その顔を見るのは怖くて、しばし俯く。
ローレンはそんなシリウスの態度を許し、静かに近くの長椅子に腰を下ろした。
しばし沈黙が流れる。
ときおり、夢にうなされた子どもの泣き声が教会にまで響いてくるが、今夜はぐっすりと眠れているようだ。子どもの声どころか、梟の鳴き声も、風でこずえが鳴る音も聞こえてこない。
耳が痛いくらいのしじま。
緊張のせいで荒くなった息の音が、聞こえてしまいそうだった。
「……シリウス」
そんな中、ローレンが再び名前を呼ぶ。
返事をするのをジッと待っているらしく、シリウスは小さく「ああ」と返した。
ようやく絞り出した声は掠れていた。
「話をしてくれてありがとう。……おそらく、貴方にとって辛いことだったはず。できれば話したくない過去だった……そうでしょう?」
「でも、いずれは話さなければならなかった」
だから、辛いなんて本来は思ってはいけない。怖がってもいけないし、不安に思うことすらおこがましい。
話したあとにその場に留まって、ローレンの言葉を一身に受けなければならなかった。
それなのに、彼女はそんな弱い男を追いかけてここまで来てくれた。そして優しく語り掛けてくれる、慈悲深い人。
――シリウスだけの聖女。
「逃げてしまって、すまない」
「いいの」
「お前の言葉を聞くのが、怖かった。あんなことをしておいて何を今さらと思うかもしれないが、……ただ怖かったんだ」
「分かるわ」
「無理に分かろうとしなくてもいい。許そうとしなくてもいい」
「しないわ。無理に自分の心を偽ることはしない。貴方に対しては、絶対」
ローレンはそう口にすれども、声は穏やかだった。
だから彼女の本心が見えない。
何を思い、何を考えてここに来たのか。
無性に顔が見たくなって、シリウスはようやくローレンを振り返る。
そこにあったのは、いつもと変わらぬ、美しくも強い、慈悲に溢れたローレンだった。
「貴方の話を聞いて最初に思ったのは、貴方も私と同じく父親に利用されていた憐れな子どもだったということ。私より過酷で、私より残酷な目に遭ってきた子ども。でも、抱いたのは怒りでも憐れみでもなくて、……喜びだった」
「……喜び?」
「ええ。変な話よね。本当にごめんなさい。貴方が悲惨な目に遭っていて嬉しいとかではないの。むしろ、胸を痛めたわ。その頃のシリウスに会っていたら、守ってあげたかった」
ローレンは言っていた。子どもの笑顔は守るべきだと。
そのとき、シリウスは彼女に守ってもらえる子どもたちが羨ましいと密かに思ったのを今でも覚えている。
自分にもこんな人がいてくれたら、もう少し血の通った人間になれたのだろうかと考えてしまうほどに、子どもじみた羨望を持った。
「でも、そんな過去を持った貴方だからこそ、あの国で『聖女』を求められる私の苦しみを分かることができた。父に利用され続ける愚かさ、自分がない、傀儡のような生の虚しさも教えられた。その過去は貴方を苦しめる一部だけれど、同時に私が愛する今の貴方を形づくった一部でもある。それを知れて、ただただ嬉しかったの」
ローレンはシリウスに意味のある生をくれる。
どんなに忌々しくとも、苦痛にまみれたものであったとしても、彼女は優しく微笑み、シリウスを血の通った人間たらしめてくれるのだ。
「……俺がお前を騙して近づいたことは?」
シリウスはふらりと覚束ない足でローレンに一歩近づく。
「守ろうとしてくれたことには変わりないわ。それに、きっかけはどうであれ、貴方が側にいてくれたから今の私がある」
二歩、三歩近づいて、シリウスはローレンの目の前に立った。
こちらを見上げる彼女の嘘も迷いもない顔を見て、――シリウスへの愛を湛えたその姿を見て、一筋の涙が頬を伝う。
「……許して、くれ……ローレン」
膝を折り、地面に突く。
ローレンの腹に顔を埋め、縋るように腰にしがみついた。
優しくシリウスの黒い髪の毛を撫で、ローレンは微笑む。
「私の貴方への愛は、すべてを食らうの。過去も罪も、貴方を苛むものすべて。だから、許すわ、シリウス。貴方も自分を許してあげて」
幼い頃愛を与えられなかった、ローレンと出会うまで愛を知らなかったシリウスは、ただただ彼女の無上の愛に咽び泣く。
――あぁ、やはり神に願いはしない。
愛も許しも希うのはたったひとり、ローレンだけなのだと、温かな彼女の膝に縋りついた。