両手いっぱいの桃色の花
『……ねえダクマ。もしも虹が出たら教えてほしいの』
『アリーセさまは虹がお好きなのですか』
『ええ好きよ。けれど、見逃してしまうから……』
『それはあなたがいつもうつむいていらっしゃるからなのでは? エルメンライヒは雨が多いので比較的よく虹が出ます。うつむかないでいる努力をなさってみてもいいかもしれません』
見上げた空に、鮮やかな虹がかかっていた。
窓辺に立つダクマはアリーセに知らせようかと思ったが、すぐに思考を切り替えた。いまのルトヘルは、アリーセのよそ見をよしとしていない。虹にすら嫉妬してしまいかねない勢いだ。
ルトヘルは、アリーセと合流次第エルメンライヒから出ると話していたがそうしなかった。彼の向かった先は自身の居室だ。ふたりの世界を邪魔されたくないとばかりに篭ったままでいる。
部屋でなにが起きているかは、見なくてもわかることだった。
たとえ切羽詰まった小さな悲鳴が聞こえてきても、ダクマは助け船を出す気はない。ルトヘルといることでアリーセのうつむき加減の顔が晴れやかになることを知っている。
──いまならあの方も、自身の力で虹を見つけられるだろう。
ぼんやりと仰いでいると、次第に虹は薄れてゆき、やがて空に溶けてなくなった。
ダクマが次に視線を向けた先には、緑色の旗がいくつもはためいていた。
“白の国”と呼ばれていたエルメンライヒは、滅びてスリフカ国の一部になった。
〈そういえば気になるなあ〉
しゃがんで黒い子犬たちの世話をしているセースが言った。
〈なんだ、ラドミル王子のことか〉
〈は。なにを言っている。なぜこの俺が王子のことを気にしなければならない。大体あの人はしつこすぎる。先ほどもルトヘルさまを訪ねてきて俺が断ったが、なにを考えているのか長々と滞在していった。やつは最悪な時間泥棒だ〉
〈当面、王子がエルメンライヒを治めるらしいが〉
セースは〈知ったことか〉と吐き捨てる。彼は遠征中に、王子の長い話に付き合わされて辟易したようで、苦手意識があるようだった。
〈だったらなおさら早くこことおさらばしてコーレインに帰りたいものだ。それはそうと、ルトヘルさまはアリーセさまにコーレインの王であることを打ち明けたのだろうか〉
〈告げていないだろう。ルトヘルさまはアリーセさまに関して臆病だ。よほどあの方に避けられていたことが堪えたとみえる。現状を変えることにひどく慎重だ。私とて、自分が王妃だと知ったアリーセさまがどのように反応するか読めない〉
〈ん? 女性にとって大国の王妃とは最高の喜びだろう? いまやコーレインは在りし日のエルメンライヒをしのぐ大国と呼ばれている。八つの属国を持ち、同盟国はそこかしこにあり、他国との交易もさかんだ。ずいぶんと富んだ国になっている。アリーセさまは驚きこそすれ、悪いようには取らないのではないか?〉
ダクマは肩をすくめる。
〈わかっていないな、だからこそだ。アリーセさまは慎ましい方。大国であればあるほど及び腰になる。なぜルトヘルさまが質素な部屋を私室にしていたか思い出せ。あの方はアリーセさまを萎縮させないために普段纏う服や小物まで気をつけている〉
〈……たしかにそうだ〉
〈だが、問題はそれだけではない。アリーセさまは気弱だが王女としての矜持がある。滅亡した国の王族として自身の立場をわきまえているし、身体の火傷も気にするだろう。ルトヘルさまの妻だと自覚していても、コーレイン王の妃となれば話は別だ。ふさわしくないと考え、ルトヘルさまの不利益になるくらいならと身を引く努力をするだろう〉
セースは〈それはいらない努力だな〉と鼻にしわを寄せた。
〈ルトヘルさまにとって、アリーセさま以外の事柄はごみに等しい。アリーセさまが王妃の座を頑なに拒めば、ルトヘルさまは簡単に王位を捨てる〉
〈ああ、捨てるだろうな。しかし、困る〉
〈そうなれば、我々の十三年にも及ぶ計画や努力はこっぱみじんだ〉
〈いやいやいや、ご破算などありえない。どんなに苦労してきたと思っているんだ。なあ、おまえたち。俺はかなりがんばったよな?〉
セースは子犬たちをそれぞれわしわしと撫で回していたが、ふと手をとめた。
〈おい、まずいぞ。そういえば昨日いとこから手紙が来た。国王夫妻を迎えるために、とんでもなく豪華な馬車がコーレインを出ているらしい。おそらくあと十日ほどでエルメンライヒに到着だ。なんでも黄金があしらわれた金ぴかの馬車だと書いてあった。しかも、護衛に我らが父上たちが立つ。国王代理はこの上なく張り切っているそうだ。……アリーセさまが萎縮せずにいられると思うか? 俺は思わないな〉
ダクマは目を見開いた。
〈なんだと? 父上がエルメンライヒに向かっているのか?〉
〈──はは。きみは別の意味で窮地だな〉
にたにたと笑みを浮かべたセースは言った。
〈きみのその格好、ボスハールト侯はさぞかし腰を抜かすだろうな。十三年ぶりに会う自慢の息子が、どこからどう見ても美しい娘にしか見えないとは。……ああそうだ、賭けをしよう。俺はボスハールト卿が激怒するほうに賭ける。きみは?〉
〈セース、貴様、殺されたいか〉
つかつかと歩いたダクマは、壁に立てかけてある剣をとる。
〈おい、やめてくれ。そこは怒るところじゃないだろう?〉
ダクマはだまって鞘を床に放った。剣はぎらりと光を帯びる。
〈待てって。冷静に考えろ、褒め言葉じゃないか。きみは二十七歳だというのに、美しい娘に見えるんだぞ? さながら十代だ。これをうらやまない者がいるだろうか。いや、いない。一体どれほどの女が若さを保つことに躍起になっていると思っている? きみを知れば、女どもは嫉妬で頭がおかしくなるだろう。で、その若さの秘訣はなんだ?〉
十四歳からダクマは女として生きてきた。過度な食事制限で身体の線は細いまま保たれ、栄養不足からなのか、身長の伸びは止まっている。体型は十四歳のときからほぼ変わらない。しかし、それを指摘されるのは禁忌といえた。
剣がかち合う音が響く。セースは当初、冗談めかした顔つきだったが、それでも騎士だ。ダクマの切っ先を、腰から剣を抜いてすかさず受けとめる。
殺気を放つふたりは対峙した。
部屋のすみっこで、子犬たちがぶるぶる震えはじめる。その時だった。
〈なにをしている〉
裸に黒いガウンを引っ掛けたルトヘルが現れた。彼は冷ややかに辺りを見回して、ダクマとセースに鋭い視線を向けた。
〈それほどひまなら、いますぐありったけの桃色の花を摘んで来い〉
〈…………え?〉
間の抜けた声を出したのはセースだ。
〈妻が目覚めた時、歓声をあげるほどの量を摘むまで戻ってくるな〉
〈歓声をあげるほどとは……〉
〈両手に抱えるほどに決まっている〉
ダクマはうんざりしながら鞘を拾って剣を収めたが、セースも同じ気分のようで、うんざりした顔つきだ。昔からふたりがけんかをすれば、ルトヘルは決まって桃色の花を摘んでくるよう申し付けるのだ。じつに、五年ぶりのけんかであった。
部屋から出ようとしたところで、ルトヘルは付け足した。
〈ついでに国王代理に文を飛ばせ。私は妻が身ごもるまでエルメンライヒを出る気はない。万が一迎えが来たらすみやかに追い返せ〉
早く行け、と付け足すと、ルトヘルはアリーセのもとへ姿を消した。
残されたダクマとセースはけんかを忘れ、ふたりで顔を見合わせた。
* * *
窓からさしこむ光のまぶしさに、アリーセはまつげをふさふさ動かした。
うっすらと開いた緑の瞳に映るのは、豪華な居室──はじめてルトヘルと結ばれた部屋だった。
なにも纏っていなくても、背後から彼に抱きしめられているため寒さは感じない。
アリーセは、彼と隙間なく肌をつけあっているとき、夫婦なのだと自覚する。おなかのなかに彼がいればなおさらだ。たとえ自分が彼に相応しくないとしても、彼の存在が勇気をくれて自信が持てる。
──生きていてよかった。
心からそう思えるのは、彼が何度も首すじにくちづけてくれているからだ。それだけではなく、二の腕や肩などの火傷の痕も愛おしげに触れてくる。きっと、普段からも眠っている間にこうしてくれていたのだろう。それを思うと感極まって瞳がうるむ。
ぐす、と洟をすすると、目覚めたことに気がついたのか、彼の唇が頬へきて、そっと口を塞がれた。
「アリ、おはよう」
彼を見つめると、ふたたび「アリ」と名前を呼ばれる。
「愛してる。きみは?」
銀色の髪がきらきら光る。そのすきまからのぞく銀の瞳も、愛を訴えかけてくる。
こんなにも夢みたいに幸せでいいのだろうか。幸せすぎて溶けそうだ。
早く愛を返したいのに、せつなさで胸がいっぱいで、声が出ない。
「アリ?」
「わたしも……。わたしもよ、ルトヘルさん。……愛しているわ。大好きなの」
彼は、ちゅ、と短く唇を触れあわせると、アリーセの額に額をつけてきた。
「ねえアリ、ぼくをユトって呼んでくれないの?」
「それは……」
湖で彼に助けられ、長い話を聞いたのは、この部屋に移動してからだった。
二歳で出会い、五歳で悲しい別れがきたことも、ずっと見守ってくれていたことも教えてくれた。
けれど、アリーセが思い出した記憶のなかの少年──ユトは、いまだに靄がかかったように容姿はぼんやりしていて、背の高いルトヘルとは重ならない。それに、同一人物だからといって、突然彼の呼び方を変えるのは、気恥ずかしさが勝ってしまう。
「あの……、わたしのなかでは、あなたはルトヘルさんなの。ユトだと理解はしているけれど……でも、まだ呼べないわ。ごめんなさい。……だって、ユトの記憶はすべて思い出したわけではなくて、あなたとの記憶のほうが強いから。だから……、うまく言えないけれど、もう少し待っていてくれる?」
こんなにたどたどしい言葉でも、彼は一言一句漏らすまいと耳を傾けてくれる。アリーセの声はただでさえ小さいのに、すべてを拾おうとしてくれる。アリーセは、そんなやさしいルトヘルをどうしようもなく愛している。正直なところ、ユトよりも。
「いいよ、いくらでも待つから急がないで。ゆっくりでいい」
彼はじっとこちらを見つめたあとで、部屋を見回した。
「この部屋。ぼくたちは十四年前にここで暮らしていたんだ。三か月の間だけだけれどね」
「……そうなの?」
「うん。だからアリと結ばれるのはこの部屋がいいと思った。はじめての場所は記憶に残るものだから、ふとしたときに過去を思い出してくれるかもしれないという打算もあったが。この寝台でぼくたちは結婚の約束もした。ぼくのなかでは十四年前からきみはぼくの妻だった」
ぱちくりと目をまたたかせると、彼は懐かしそうに目を細める。
「きみは記憶がなくても、過去のしぐさはそのままだ。いまの瞬きも」
「ほんとう? ……そんなにも前から結婚を考えてくれていたなんて」
「おかしいかな? ぼくは運命だと思っているけれど。なぜかきみ以外は考えられなかったから。前に麻薬の話をしたけれど、ぼくにとっての麻薬はきみだ。二度と手放せない。離れれば狂ってしまう」
大きくて形のいい手がアリーセの金茶色の髪を撫で、後頭部に当てられる。そっと引き寄せられて、ふたりの唇が重なった。
「……ルトヘルさん」
「ん?」
「これだけは知っていてほしいの。わたしはどうにかなりそうなほど幸せよ。きっと世界で一番幸せなのだわ。だって、愛している人が愛してくれて、わたしに記憶がなかったにもかかわらず、約束を守って妻にしてくれたのだもの。こんな奇跡がわたしに起きていいのかしらって思う。わたしは、愛するふたりを夫にできた」
彼の唇が弧を描き、音を立ててアリーセの口を吸う。
「愛するふたりだなんて、きみはいじわるだ。子どもころのぼくに嫉妬させたいの?」
「……あの、違うわ。なんて言ったらいいの? うまく言えないわ」
彼の唇が頬に移動して、耳にたどりつく。そして甘やかにささやかれた。
「ねえアリ。愛しあおうか。ぼくを幸せにしてくれる?」
こくんとうなずくと、脚を割り開かれて、彼の硬い切っ先が当てられる。
すでに秘部がぐずぐずにうるんでいるのは、つい先ほどの行為のなごりだ。そのふたりの液を、彼は自身の昂ぶるそれに、くちゅくちゅと纏わせる。
行為とは愛であり、幸せになる手段だ。それは彼と何度も確かめあった。たとえ疲れていたとしても、彼とは結ばれていたいのだ。
「先に言っておくけれど、きみは身ごもるよ」
「突然どうしたの?」
「ぼくは、きみを身ごもらせるつもりでいるから。子ができるまでやめない」
真剣なまなざしだ。けれど、アリーセはなぜいまさら告げられるのかわからなかった。
「それは……あなたと結ばれた日から身ごもるかもしれないと理解しているわ。性交は愛の行為だけれど、子どもを作る行為でもあるもの。あなたの子どもなら授かりたいと思ったから、わたしはあなたに貞操を捧げたの。だから……」
「うん、ぼくがきみの貞操をもらった」
彼はアリーセの手を取り、まるで宝物のように、そっと指にくちづける。
「ねえアリ。本当はきみが身ごもるのは二年後がいいと思っていた。きみは華奢で小さく、か弱いから、出産に耐えうるのか不安でたまらない。けれど、きみがぼくを思い出してくれたからどうしてもほしくなった。きみとぼくがいる証がほしい。記念、というのは言葉が悪いが、二度ときみと離れないために、結婚を約束したこの寝台で作りたい。ぼくの子を産んで。……アリ、いい?」
「もちろんよ。だって、わたしもあなたの子どもがほしいと思うから」
告げたとたん、彼が覆いかぶさり、荒々しくくちづけてくる。
そのまま交わるのだと思っていたが、違った。身を起こした彼はクッションに背をもたせかけ、アリーセに手を差し伸べる。
「アリが入れて。きみにぼくを求めてほしい」
気高い彼が、幼子のようにアリーセを見つめる。気のせいかもしれないけれど、どことなく不安げで、捨てないでと懇願しているようだった。
アリーセは彼の頬を手で包み、目と目をあわせる。接吻しながら遠い過去に思いを馳せた。
このとき、ルトヘルとユトが完全に重なる。
アリーセは、行為が終わった時に、きっと彼をユトと呼べると思った。