布ごしでは遠すぎる。
爽やかな夏の朝。
離宮で眠りについていたエレナは窓から射しこむ朝陽を感じて、ゆっくりと目蓋をひらいた。
「……あ」
視界に飛びこんできた世にも美しい夫の寝顔にパチリと目をみはり、それから、ふわりと頬をゆるめる。
――いつの間に王宮から戻ってきたのかしら……。
傍らに横たわるリュシアンの艶やかな白銀の髪は、湯を浴びてさほど時間が経っていないのか、ほんのりと湿り気を帯びている。
――朝帰りね。
彼の眠りを妨げないよう、心の中で「おつかれさま」と囁いて、エレナはそっと指先でリュシアンの髪を撫でた。
昨日、南のサンクタムの王と兄の初めての会談が行われた。
幸い、サンクタム王は、兄の父とは正反対の穏やかな人柄を気に入ったようで、諸々の交渉は上手くまとまった。
エレナも招かれた晩餐の席では、サンクタム王はひどく上機嫌な様子で、エレナは心から安堵したものだ。
――ご機嫌になられすぎて、お兄様は困ってらしたけれど……。
ほろ酔いの王に「今宵は一晩飲み明かそう!」と誘われて、晩餐の席でも散々ワインを勧められ、既に真っ赤になっていた兄は「光栄です」と答えながらも泣きそうな顔をしていた。
「……頼むよ、リュシアン。私が酒に弱いのは知っているだろう? 酔って国益を損ねるような行動をすることがないように、私を見張っていてくれ……!」
兄の近衛騎士であり、サンクタム王との通訳も務めていたリュシアンは、そんな風に兄にすがりつかれて、そのまま王宮に残ることとなり――。
そして、夜明けとともに、こうしてエレナの元に帰ってきたというわけだ。
――お兄様、今ごろは、ぐっすりお休みでしょうね。
兄は酒が過ぎると眠りこんでしまう。
そのことを教えてくれたのは、リュシアンだ。
エレナは部屋の隅に置かれたクローゼットにチラリと目を向け、口元をほころばせると、リュシアンへと視線を戻した。
――それにしても、今日も美しいわ……。
眠るリュシアンの顔は、名工が妙なる技術のすべてを注ぎこんで彫り上げたかのように整っている。
彼がエレナ付きの近衛騎士となった日から数えて、三年と数ケ月。
ほぼ毎日顔を合わせているというのに、ふとした瞬間、いまだに見惚れてしまう。
煙るような長い睫毛を見つめながら、エレナはそっと吐息をこぼして、ふと気付いた。
――そういえば、寝顔を見るのは初めてだわ。
リュシアンと共寝をするようになり、一ケ月。
いつも日が高く昇った後、彼からの目覚めの口付けで起こされるのが、エレナの日常となりつつあった。
それは決して、エレナが朝に弱いからではない。
――昨夜は、何もしなかったものね……。
結婚してからというもの、ふれられずにいた期間を取り戻そうとするように、リュシアンは毎夜熱心にエレナを求めてくる。
――愛されるのは、嬉しいけれど……。
彼の指で舌で身体の隅々まで愛でられ、あふれるほどの愛を注がれて、気付けば意識が飛んでいることも珍しくない。
そのような状態で、早起きなどできるはずもないだろう。
ふう、と幸福な溜め息をこぼすと、エレナはふと悪戯心を起こして、リュシアンの頬をつついてみた。
けれど、規則正しい寝息が乱れることはなく、目を覚ます様子もない。
ずいぶんとよく眠っているようだ。
エレナは少しだけ大胆な気持ちになって身を起こすと、指先を彼の頬から首すじへとくすぐるように滑らせた。
「……ん」
形の良い眉がわずかにひそめられ、白銀の睫毛が震える。それでも、リュシアンの目蓋がひらくことはない。
何だか楽しくなってきてしまい、エレナはさらに手を動かして、掛け布の上から彼の肩や腕にふれてみることにした。
「寝台の上では、いつでもありのままのあなたにふれたいから」というリュシアンの希望で、互いに寝衣は身に着けていない。
薄布一枚を通して、彼の身体の感触がまざまざと伝わってくる。
身体の線に沿って流れる絹の掛け布。サラリとした布ごしに伝わる手ざわりは若木のように硬く、けれど適度な弾力があり、逞しさを感じさせた。
――私の腕とは、まるで違うのね……。
運動らしい運動をしていないエレナの腕は頼りなく柔い。
――リュシアンは「愛らしい感触」だなんて、言ってくれたけれど……。
初めて毛布ごしにふれられた日のことを思いだして、エレナの胸に温かな気持ちがこみ上げる。
あの日、エレナが少しの勇気を振りしぼってリュシアンの治療を提案したことで、ふたりの未来は変わったのだ。本当によかったと思う。
父の宛がう交配相手ではなく、愛しい人と結ばれることができて。
普通の男のように、いつかは愛しい人にふれてみたい――そう願った彼の想いに応えることができて。
――幸せだわ。
ふふ、とエレナは頬をほころばせ、あのときのリュシアンがしてくれたように、彼の二の腕を辿り、掛け布の下の手首にふれようとして、あら、と目をみはった。
手首をつかむために布をベッドに押しつけたせいか、横たわる彼の身体の輪郭が浮き上がり、その股間の辺りがほんのりとふくらんでいるのが見えたのだ。
――え、ど、どうして? あっ、朝だから……?
健康な男性は朝方、生理現象でこのような状態になるのだと聞いたことがある。
――けれど、何だか……いつもとは違う感じなのね。
ドキドキと騒ぐ胸をなだめるように押さえながらも、エレナはジッとそこを見つめてしまう。
平常時よりも存在感が増していることは確かだとは思うのだが、それでも、閨で目にするものよりは控えめに感じられた。
ちょうど中間の状態といったところだろうか。
――どうなっているのかしら……。
思い返せば、リュシアンがエレナの下肢に奉仕することはあっても、エレナのほうからリュシアンのそこにふれたことはない。
彼を喜ばせたい気持ちはたんとあるのだが、いつも気付けば一方的に翻弄され、お返しをする機会も余裕も持てずにいたのだ。
――今なら、さわっても大丈夫……よね?
エレナは湧き上がる好奇心に負け、チラリとリュシアンの顔を窺い、眠っていることを確めると、そろそろと彼の股間に手を伸ばした。
そっと指先でふれて、布ごしに伝わってくる熱に小さく息を呑む。
――すごく、熱い。
恐る恐る先端の辺りを押してみれば、不思議な弾力が伝わってくる。硬いことは硬いが、腕や肩とはまた違った硬さだ。
どうして同じ人間の身体なのに、これほど違うのだろう。
戸惑いつつ、むにむにと指で摘まんで感触を確かめているうちに、ふと、エレナは異変に気付いた。
――何だか、育ってきてしまったのだけれど……!
絹の布を慎ましく押し上げていたふくらみは、いまや激しい自己主張をしはじめていた。
これではリュシアンが起きたとき、はしたない悪戯をしかけていたことが露見してしまう。
――ああ、ど、どうしましょう!
エレナは新緑の瞳を潤ませながら、どうにかなだめて小さくできないかと、焦る心のまま、キュッと彼の雄を握りこんだ。
途端、それはトクンと脈打ち、グッと手の中でふくれたと思うと、エレナの指を押し返すようにビクリと跳ねた。
「――っ」
思わず上げかけた悲鳴をどうにか呑みこみ、慌てて手を引いたそのとき。
「……もう、おしまいですか?」
「きゃぁっ」
艶やかな低音が耳をくすぐり、エレナは今度こそ悲鳴を堪えきれなかった。
「残念です。もう少し、つづけていただきたかったのに」
くつくつと楽しげに笑うリュシアンに、エレナは唖然と問いかける。
「リュ、リュシアン、あなた、いつから起きて……?」
「あなたに髪を撫でられたときからです」
それでは、ほとんど最初から起きていたことになる。
「そんな……どうして寝たふりなんてしたのですか……っ」
エレナが羞恥に身を震わせながらなじると、リュシアンはエレナをなだめるように「申しわけありません」と微笑んで、悪戯っぽく囁いた。
「寝たふりをしていたら、今日はエレナのほうから目覚めの口付けをしてくださるかと思ったもので」
「そ、そうだったのですか」
「もっとも、それ以上に目の覚めることをしていただきましたが……」
甘く蕩けるような声で告げられて、エレナは頬どころか耳まで熱くなる。
「あ、か、勝手にさわってごめんなさい……!」
「いいえ。あなたにならば、いつ、どこをふれられても、何をされてもかまいませんから」
いつかエレナが彼に告げたのと同じような言葉を口にすると、リュシアンはエレナの手をつかんで、バサリとめくった掛け布の中に引きずりこんだ。
「ぁ……っ」
シーツに倒れこみ彼の腕に捕らわれて、絹の繭に包まれるように淡い闇の中、ふたり向かい合う。
手探りで頬を撫でられたと思うと、そっと吐息が近付いて、エレナの唇にやさしい口付けが落とされた。
「……エレナ、図々しいお願いをしてもかまいませんか?」
「どうぞ……あなたの願いを図々しいなどとは思いませんわ」
「ありがとうございます」
感謝の言葉と共にもう一度唇を重ねると、リュシアンはそっとエレナの耳に囁いた。
「先ほどのつづきを……布ごしではなく、直接さわっていただけますか」
「……はい」
エレナは小さく喉を鳴らしてコクリと頷くと、彼の下肢に手を伸ばし、すっかりと膨れ上がったものをそろそろと握りこんだ。
「……っ」
遮る布がなくなった分、その熱も硬さも、そりかえった幹に浮かんだ血の管がドクドクと脈打つさままで、すべてが鮮明に手のひらや指に感じられる。
いつもこれほど猛々しいものが、自分の中に入っているのか。
そう思えば不思議な感慨を覚えると同時に、エレナの胎がそれを求めるように、きゅうと切なく疼いた。
――ああ、私ったら、はしたない……!
彼を悦ばせる初めての機会だというのに、何もしないうちから自分が悦ばせてもらう期待をしてしまうなど……。
「っ、リュシアン、あの、この後はどうすれば? どうしたら、あなたに悦んでもらえますか?」
上擦る声で尋ねれば、一呼吸の間を置いて、くすりとリュシアンが笑う気配がした。
「……色々としていただきたいことがあったような気がするのですが、それよりも、あなたにふれたくなってしまいました」
「え?」
「エレナ、昨夜愛しそびれた分を埋め合わせてもよろしいですか?」
心を蕩かすような甘い甘い誘いに、エレナは小さく身を震わせると「はい」と消え入るような声で返した。
「……どうぞ、愛してください」
途端、エレナの背に回ったリュシアンの腕に力がこもって、強く抱きしめられたと思うと唇が重なる。
そうして、熱にうかされた肌を合わせ、剥きだしの手足を絡ませ、口付けに溺れていきながら、エレナは思った。
やはり愛する人との間には、たとえ布一枚でも入ってほしくない。
何ものにも遮られることなく、一番近く、深くで愛しあっていたい。
もう、布ごしでは遠すぎるわ――と。