奥様の下剋上
梅雨の気配が近づいた六月の夜のこと。
「私ばっかりだと思ってたの」
いつか彼に尋ねてみたいと思っていたのだ。今日ようやくそのきっかけを得た朱里は、決死の覚悟で声を絞り出す。
「ん?」
案の定、ベッドの中にするりと滑り込んできた夫──杠葉冬季哉は、朱里の発言を聞いて不思議そうに首をかしげた。
「私ばっかりって、なにが?」
冬季哉は入浴後の完全に乾いていない髪を指でかき上げながら、先にベッドに入っていた朱里を腕の中に抱き寄せる。彼の大きな手は妻の体の輪郭をなぞるように動き、そしてネグリジェの下の豊かな乳房を持ち上げていた。
「あっ……待って」
布越しだというのに、冬季哉に触れられただけで全身に淡い快感が広がる。彼の指先に先端をこすられ、思わず身をよじらせる朱里だが、冬季哉は勿論逃がしてはくれない。
「待てなんて無理だよ。あぁ……朱里の体、久しぶりだな。あったかくて柔らかくて……癒される」
甘い声でそうささやきながら、朱里の額にキスをし強く抱きしめる。
「早く君を感じたい」
彼の下腹部が次第に硬く存在感を増していくのを、朱里はドキドキしながら受け止める。
パジャマではなく裸の上にバスローブを羽織っただけの姿からして、当然のように朱里を抱くつもりなのだろう。
「もう……」
冬季哉の髪に指を差し入れて梳ると、冬季哉は気持ちよさそうにうっとりとその手を受け入れる。
大きな猫のような仕草を可愛らしく思いながら、朱里は彼の目元に感じる疲れを感じ取っていた。
そう、冬季哉は仕事で三週間ほど日本を離れていて、帰国後も忙しくあちこちを飛び回っていたのだ。
今日ようやくゆっくりと自宅で眠れることになり、冬季哉は朱里を一刻も早く抱きたくて、濡れた髪でベッドに潜りこんできたのである。
(冬季哉くん……)
夫のその焦燥が全身から伝わってきて、一瞬朱里も蕩けそうになったが、
「でも、ちょっと待って」
朱里はその手をぎゅっとつかみ、胸から強引に外す。
すると冬季哉はおや、という顔をして長いまつ毛を瞬かせた。
「三週間も日本を離れていたから、朱里と小鳥ちゃんたちに寂しい思いをさせたかな」
彼が口にした“小鳥ちゃん”というのは、五年前にふたりの間に生まれた双子の姉弟の愛称だ。冬季哉は四年生の秋に朱里と入籍し、それから半年後、朱里は双子を出産した。
学生結婚であることは周囲の憶測や噂の種になったが、冬季哉が年上の恋人を溺愛し、どこに行くにでも必ずパートナーとして連れて歩いていたこともあり、周囲からは『彼女のほうが年上だから結婚を急いだのだろう』というふうに好意的に取られていた。
ただ冬季哉が一刻も早く朱里を名実ともに自分のモノにしたいだけだったのだが、人は見たいように人を見るものだ。そしてなにより冬季哉は周囲を味方にするすべを、ごく自然に身に着けていた。
天然の人たらしだ。そんな彼の振る舞いのおかげで、結婚して六年も経てば、昔はあれほど気にしていた周囲の評価も、ほぼ朱里の耳には届かなくなっていた。
「──ううん、そうじゃないの」
朱里はゆるゆると首を振る。
「そうじゃないって。それはそれで、寂しいんだけど」
それを聞いた冬季哉がしゅんと眉をハの字に下げ、さらに不満そうに唇を尖らせる。
杠葉の次期当主として政財界で頭角を現し、若さに見合わない能力を見せている冬季哉は『冷静・冷酷な経営者』として一目置かれている。だが愛する家族──双子の子供達や妻である朱里の前では、ころころと表情を変える、朱里にとっては昔となにも変わらない青年だった。
「あ、だからそうじゃなくてっ……」
じれったくなった朱里は冬季哉の胸を押し返して体を起こすと、いくつも重ねておいてある枕の下から、あるものを引っぱり出した。
「これを見て」
「それって……」
細く長いチェーンが繋いでいる、ふたつの銀色の輪っかを見つめ、冬季哉は目をぱちくりさせた。
「そう……手錠よ。クローゼットで発見したの」
朱里は何度か深呼吸を繰り返しながら、いそいそと寝そべった冬季哉の上に馬乗りになり、ベッドの手すりに鎖の部分を何度か巻き付けた。
「覚えてる? これで冬季哉くんが私に三日間もえっちなことしたの」
「勿論覚えてるけど……。それが今どうして俺の両手首にかけられてるのかな」
冬季哉は己の腰にまたがった朱里を下から見上げながら、やんわりと微笑んだ。されるがままになりながらもどこか余裕があって、それがまた朱里には少し悔しい。
「だから、私ばっかりだから気になってたの」
「は?」
「この六年間、ずうっと冬季哉くんに押し倒されてばっかりでしょう。だからたまには私が押し倒そうと思って。下剋上よ」
「下剋上か……それはそれは……お手並み拝見だね」
冬季哉はその瞳に色気をたっぷりのせてくすりと笑った。
(なんなのその余裕の笑みは! 私にはできないって思ってるのね……!)
落ち着いた夫の顔を見おろしながら一瞬唇を尖らせたが、朱里だっていつまでも乙女ではない。
二十歳の時から尋常でない冷静さとタフな精神を持っている冬季哉だが、朱里だってこの六年間、溺れるほどの愛情を注がれて自分を大切に思うようになったし、大人の女性としての振る舞いも身に着けた。
(まぁ、見てるといいわ)
朱里はふふと自信満々に笑って、それから冬季哉が着ているバスローブのウエストの紐をほどき、前をさっとくつろげた。
「あっ……」
鍛え上げられた冬季哉の胸筋や腹筋はいつもどおりだが、その下に存在する彼の男根は隆々と勃ち上がっている。すでに臨戦態勢だ。
「シャワー浴びながら、一回抜いたんだけどな」
屹立を見て硬直している妻を見て、冬季哉がふふっと笑う。
「も、もうっ……」
予定としてはここから冬季哉を焦らしつつも少しずつ攻めていこうと思っていたのだが、いきなり出鼻をくじかれてしまった。とはいえ、やることは変わらない。
朱里は意を決して少し後ろに下がりながら、彼のそそり立ったそれを両手で支えながら舌を這わせ始めた。
夫婦の寝室に、ぴちゃぴちゃと水音が響く。
冬季哉のそれは硬く太い。とても口の中にすべてをおさめられない。なので浮き上がった血管を舌でなぞり、先端を唇でしごきながら冬季哉を見上げる。
「気持ちいいよ」
冬季哉は柔らかく微笑んで、ゆっくりと息を吐く。
「早く入れさせてほしいな……だめ?」
おねだりするように尋ねられて、朱里は慌てて首を左右にぶんぶんと振った。
「だっ、だめっ」
言われてやるようでは下剋上ではないはずだ。朱里は唇を引き締めると、ネグリジェの下にはいていた下着を脱ぎ捨て、彼の肉杭の上にまたがるようにして、自身の秘部を押しつけた。
「まだよ。これで、我慢して……」
ようやく下剋上らしい振る舞いができた気がする。
朱里はちょっとだけほっとしながらも、そしてゆっくりと自身の腰を前後に揺らし始めた。
冬季哉の先端は大きくカサが張っていて、朱里の秘部をえぐっていく。彼のほとばしりと自分がこぼした蜜が絡み合い、いやらしくふしだらな音を立てた。
そうやってしばらく腰を揺らしていると、腹の奥がきゅうきゅうと締まっていくのを感じる。花芽はすっかり大きくなり、冬季哉の先端にこすり上げられるだけで強い刺激に体が震えた。
いつもならもうこの段階で、冬季哉にこの渇望を満たしてもらっているはずだ。
だが彼は朱里の下で横たわっているだけで、自分の意志では指一本動かせない。
(だから、私が……冬季哉くんを気持ちよく、してあげるんだから……)
「んっ……あ、んっ……」
朱里がかすかに声を漏らすと、下の冬季哉が切れ長の目を細めて尋ねる。
「あれ。もう気持ちよくなっちゃった?」
「あっ、ちがっ……」
彼を気持ちよくしてあげるのが今晩の目的で、先に自分がよくなっては意味がない。
だが冬季哉に開発された体は快楽に正直で、そうやって性器をこすり合わせているだけで、朱里をじわじわと追い詰めていく。
「そう……」
冬季哉はその声にほんの少し意地悪なスパイスを添えてささやくと、軽く腰を揺らしてねだるように言葉を続ける。
「でも俺は、朱里の中に入れてほしいなぁ……。もう我慢できないよ」
濡れた前髪の奥から、しっとりとした瞳がのぞいた。
普段滅多にみられない、かわいらしい年下の夫の懇願に、朱里はこくりととつばを飲み込む。
「我慢できないの……?」
「うん。できない。早く君の中に入りたい……。ね、お願いだから……」
普段見たことがないような懇願に、朱里の背筋がぞくぞくと震える。
「そう……仕方ないわね……冬季哉くんがそこまで言うんなら……入れてあげる」
蕩けるように愛されるのも勿論いいのだが、年上の余裕を見せたくもある。
朱里は冬季哉が初めての相手だが、彼だって朱里が初めての女性で立場は同じはずなのだから。
朱里は腰を上げて、愛する夫の顔を見つめながら隆々と立ち上がった肉杭に手を添え、蜜口に押し当てる。そしてゆっくりと腰を下ろしていった。
「あ……っ……」
久しぶりに受け入れる夫の熱いモノは、朱里の蜜壺を押し広げながらさらに奥へと侵入する。最奥にたどり着いたところで、朱里は声にならない声を唇から漏らしながら、甘いため息を漏らした。
動いたらすぐにイってしまいそうな気がして、そのままじっとしていると、
「──朱里」
「ん……」
「動いて。俺を気持ちよくしてくれるんでしょ?」
「う、うんっ……」
夫の声に促され、朱里はゆっくりと腰を揺らした。前後、そして左右に。冬季哉の鍛え上げられた腹に手をのせ、腰を振りながら、彼を見おろす。
(気持ちいいけど……)
ふたりが繋がっている部分は十分蕩け切っていて、冬季哉のモノは硬いまま朱里の中におさめられている。だが、足りない。その足りないものの正体が、朱里はわかっていた。
いつもなら、朱里が上になった場合、冬季哉は朱里の腰をつかんで下から激しく突き上げてくれる。だが朱里に押し倒された彼は、無言のままうっすらと目の縁を赤くして欲望に濡れた目で朱里を見上げているだけだった。
「……冬季哉くん」
「ん……? 気持ちいいよ。ありがとう」
そして冬季哉は頭上でベッドの柱に繋がれた手錠を緩く持ち上げて、さらさらと音を立てて揺らす。自分は何もできないというアピールらしい。
(そうよね……私が頑張らないと)
朱里は必死に冬季哉に良くなってもらうべく、彼のモノを出し入れしたのだが──。
「あ……もう、だめっ……」
しばらくして、観念した朱里の瞳が涙に濡れた。
「駄目ってなにが?」
相変わらず落ち着いた冬季哉が尋ねる。
「冬季哉くん、イってくれないしっ……私も、イキそうで、イケないっ……もうっ……ばかぁっ……」
そう、朱里が一生懸命腰を振っても、いつまでたってもよくなれないのだ。
観念した朱里は、朱里の下で横たわっている夫の胸のあたりを、両手でパチパチと叩く。我ながらめちゃくちゃなことを言っていると思うが、もう我慢できなかった。
「クッ……ククッ……」
すると冬季哉が、半泣きになった朱里の下でクスクスと肩を揺らして笑い始める。
「ばか、笑わないでっ……」
朱里がメソメソし始めると、冬季哉は「ごめんね」と言って、にっこりと笑った。
「朱里が一生懸命なのがかわいくて……ちょっと意地悪したくなった。もう気が済んだ?」
「済みました……」
結局自分は、下剋上などどだい無理なのだ。
こくりとうなずきながら、ベッドサイドに置いたテーブルの上に目を向ける。そこには手錠の鍵が置いてあった。
「手錠、外すね」
そしていつも通り抱いてもらおう。素直に可愛がられるほうがよさそうだ。テーブルに手を伸ばしたところで、冬季哉はふうと大きく息を吐いた。
「それは後でいいよ」
「え?」
手錠を外さないと自由に動けないはずだ。朱里がきょとんとした次の瞬間、冬季哉は繋がれたまま鎖を両手でつかみ、思いきり左右に引っ張る。ぱきん、と金属が壊れる音がして、鎖があっけなく切れてしまった。
朱里が目を丸くするのと、冬季哉が手錠をつけたまま朱里の腰をつかむのはほぼ同時だった。
「動きたい気持ち我慢するの、ほんと大変だった……よっ!」
冬季哉が激しく腰を持ち上げ、朱里の奥を突き上げる。
「ああっ!」
極限まで大きくなった肉杭に貫かれる衝撃に朱里は悲鳴を上げる。
「俺を煽ったこと、少し反省しなさい」
「ひあっ……!」
手錠を着けたまま、冬季哉はケダモノのように朱里を犯した。
広いベッドを十二分に使って、ありとあらゆる体位で朱里を責め抜いた。
「や、あっ、やだ、また、いっちゃ、う、ああっ……」
「安心して、俺はまだまだイケるよ、君が俺を煽るから……ほんと、何回出しても萎えなくて困るなっ……!」
「あ、もう、ごめ、あっ、や、ひ、ああっ……!」
まさに夜通し──朝日が昇る時間までたっぷりと彼に愛されてしまったのだった。
翌朝──。
「おかあさまはお寝坊さんをしているから、今朝はおとうさまと一緒に三人で朝食を食べようね」
朝、寝室にやってきた子供たちを抱き上げ立ち去る冬季哉の声を聞きながら、全身にキスマークを残した朱里は、泥のように眠りに落ちる。
(ほんと、下剋上なんて思った私がばかだったわ……)