小さな世界で願うこと
アレクシアの傷痕は、かなり薄くなった。
顔に関してなら、今はかなり注視しなければ分からないほどだ。流石に脚は完全に癒えたとは言えないけれど、こちらも以前に比べればだいぶ良くなっている。
硬く引き攣れていた皮膚が元の柔らかさを取り戻しつつあるのを実感し、アレクシアはひっそり微笑んだ。
―――あまり気にしていないつもりだったけど……やっぱり嬉しいな。
何よりも、セオドアの心遣いが胸を温もらせた。
彼がアレクシアの気持ちを慮って案じてくれていることが、ヒシヒシと伝わってくるからだ。
大事にされていると感じる。
優しい眼で見つめられ、温かな手に触れられれば尚のこと、セオドアから愛情を注がれている事実に疑う余地はなかった。
アレクシアの毎日は穏やかに過ぎていく。
それも、至極狭い範囲の中で。
外出することはほとんどなく、屋敷の中と庭園、それがアレクシアの世界の全てと言っても過言ではなかった。
普通なら、閉じ込められていると不満を漏らさずにはいられないだろう。
だが、もとよりアレクシアは外の世界をさほど知らないせいか、街中を自由に歩き回りたい欲求も抱いておらず、苦痛は感じていなかった。
その上、自らの意思を無視されて軟禁状態に置かれているのとはわけが違う。
あくまでもアレクシアは己の希望で、ここに留まっているのだ。
けれどこちらが満足しているのとは裏腹に、セオドアはこの状況を憂いていたらしい。もしかしたらアレクシアが無理に我慢していると思っていたようだ。
とある日。彼から突然の贈り物をされ、アレクシアは双眸を瞬いた。
「……馬?」
「アレクシア様へのプレゼントです」
眼前には、艶やかな毛並みをした栗毛の馬がいる。しかもとても賢そうな瞳で、じっとこちらをみつめてくるではないか。
穏やかな気性なのか、初対面のアレクシアに対しても、友好的に見えた。警戒しているのでも、小馬鹿にしているのでもない。
「私に?」
少し散歩をしませんか、とセオドアに誘われたのはつい先刻。
てっきり薔薇が盛りの庭園を散策するのかと思って頷いたら、連れてこられたのは厩舎だった。
そしていそいそと引き合わせられたのが、一頭の馬というわけである。
「え、どうして急に?」
「お好きでしょう?」
「そうだけど……誕生日でもないのに」
他者から贈り物を貰わなくなって久しく、アレクシアは落ち着かない心地で首を傾げた。まして、こんなに立派な馬ならば、相当高価であるに決まっている。
記念日でもないのに軽々しく『ありがとう』とは言えず、遠慮が先だってしまった。
「愛しい妻へプレゼントを贈るのに、特別な理由が必要ですか? 喜んでくださらないのでしょうか」
「と、とんでもない! 嬉しいわ!」
切なげに眉尻を下げた彼を前にして、アレクシアは慌てて首を横に振った。
喜んでいるかどうかで言えば、当然ながらとても喜んでいる。先ほどから胸がドキドキとときめいて興奮しているほどだ。もっと近くで馬を見たいと思っているし、触ってみたいのが本音だった。
「よかった。昔からアレクシア様は生き物がお好きでしたよね」
「ええ。でも何だか……散財させたみたいで申し訳なくて……」
「貴女のために使う金を惜しむわけがありません。むしろ、僕が破産するくらい強請ってほしいと思っています」
柔らかに微笑むセオドアに促され、アレクシアは一歩馬に近づいた。逞しく筋肉質な肉体が見惚れるほど美しい。
そっと手を伸ばせば、馬は素直に撫でさせてくれた。
「わぁ……」
力強い生命力の塊めいた感触に圧倒される。生き物の体温に感動を覚えつつ、アレクシアは瞳を輝かせた。
かつて飼っていたリオンとは、あまり触れ合う機会がないまま『あの事件』で引き離された。
その後、あの子がどうなってしまったのかアレクシアは知らない。
どこかに売られてしまったのか、それとも老衰で亡くなったのか。
ただ、セオドアが屋敷に火を放った際には、もうゴードン家で飼われていなかったそうだ。彼はアレクシアが望むならリオンについて調べると言ってくれたけれど、それは断った。
今更知ったところで、どうにもならない。
取り戻せない過去に思いを馳せ悔やんでも、余計に辛くなるとアレクシアは知っていた。
―――それでも、どこかで幸せに暮らしてくれていたらと願わずにはいられないな……
懐かしさと切なさが同時に込み上げ、アレクシアは栗毛の馬を何度も撫でた。首を垂れた馬に鼻先を擦りつけられ、自然と口元が綻ぶ。愛おしさが募り、かつてを取り戻す勢いで一層熱心に馬を撫でた。
「名前をつけてもらえますか?」
「私が? いいの?」
「勿論。アレクシア様の馬ですから」
命名権を与えられたことにアレクシアが眼を丸くすると、セオドアが楽しげに双眸を細めた。
温かな昼下がり、かつて共に藁まみれになった日のことを思い出す。
ただあの時の緊迫感とは違い、今日は随分穏やかな時間が厩舎には流れていた。
「嬉しい。ありがとう、セオドア。でもじっくり考えたいから、時間をくれる? せっかく貴方からのプレゼントだもの……最高の名前をこの子につけてあげたいの」
贈られた馬が新たな宝物になるのは確実で、簡単に決断できない。熟考して決めようと、アレクシアは心に決めた。
「そんなに大切に思ってもらえるなんて、僕も嬉しいです。では名前が決まったら、二人で馬に乗って出かけましょうか」
「え……セオドア、乗馬ができるの?」
通常、馬に関わる職務でもない限り、使用人が馬に乗ることはない。当然乗馬の技術は持っていないと思い込んでいた。
今の彼はかつてゴードン家の下働きだった少年とは違うけれど、つい過去の感覚を引き摺ってしまい、アレクシアは驚いた。
「できますよ。先代頭首に拾われてから色々なことを仕込まれましたから。もっともここ最近すっかりご無沙汰だったので、多少腕は落ちているかもしれませんが……おそらくアレクシア様よりはマシだと思います」
悪戯めいた表情は、アレクシアを揶揄っているのだろう。
アレクシア自身も己の乗馬技術が未熟であることは理解しているので、悔しさから唇を尖らせた。
「……セオドアったら、意地悪ね」
「申し訳ありません。アレクシア様のそういう表情を拝見できるのが自分だけだと思うと、つい」
とは言え、アレクシアも本気で怒っているわけではない。
こういう軽口を叩き合える関係は、尊いものだと思っていた。まるで昔に戻ったようで心地よくすらある。
そのため仏頂面は長く続かず、すぐに破顔した。
「ふふっ、まぁいいわ。それより早くこの子と出かけたいから、一所懸命名前を考えなくちゃ」
「ええ。僭越ながら僕がアレクシア様に乗馬をお教えしますよ」
それは楽しみだと心の底から思う。
以前なら考えられなかった未来の約束に、胸が大きく高鳴った。
「セオドアが教えてくれるの?」
「はい。これでも僕はなかなか上手いのですよ」
おそらく謙遜だろうことは想像に難くない。彼が言うなら、『なかなか』どころか相当な腕前なのだとアレクシアは思った。
「ただ、貴女を危険に晒すわけにはいかないので、あまり遠出はできませんけどね。その点は先に謝ります」
さも申し訳なさそうに告げるセオドアに、アレクシアは笑顔で首を横に振った。
「そんなこと、何も問題じゃないわ。私は貴方と一緒に過ごせるだけで、充分幸せ」
彼の立場を考えれば、呑気に遠乗りができるなんて最初から思っていない。護衛が大変な上に、アレクシアのために余計な危険を招きたくはなかった。
―――また襲撃を受けた時みたいに、周囲の人を巻き込みたくはないもの―――
あんな思いは二度としたくない。
それにアレクシアを喜ばせようとしてくれたセオドアの気持ちだけで、存分に満足してしまった。
だから仮に、一生この屋敷に閉じ込められることになっても自分は構わないのだ。
小さな世界がアレクシアの全て。彼と共に生きると決めた自分は、自ら望んでセオドアに囚われている。
彼が闇の世界でしか生きられないなら、アレクシアも共に沈もう。
そこでほんのひと時セオドアの心を和ませる花になれたら、それ以外望むことは何もなかった。
「アレクシア様は、欲がなさ過ぎますね……」
「そんなことはないわ」
むしろ自分はとても強欲だとアレクシアは知っていた。
どこか寂しげにこぼす彼に笑み返し、アレクシアはひっそりと思う。
―――私が無欲だなんて、とんでもない。仮に何も望まず清廉な人間であったら、何を犠牲にしても愛する人と一緒にいたいと願うわけがないでしょう?
だがアレクシアは選んでしまった。
罪深く血生臭いこの道を。『セオドアと共に生きたい』というただ一つの願いを叶え、己の我が儘を貫くために。家族すら切り捨てて。
そんな悪辣な女が無欲だなんてとんでもない。逆にこの世で一番強かで罪深いとさえ言えた。
「……貴方は私を買いかぶり過ぎだわ」
「そうですか? ではお互いまだ相手について知らない面があるということですね」
彼の長い指がアレクシアの髪を梳く。こめかみ辺りに触れた指先は、そのまま頬を滑り落ち唇の輪郭をそっと描いた。
「でしたらこれから知っていくのが楽しみです」
落とされた口づけはとても甘い。
うっとりと眼を閉じたアレクシアは、キスが解かれた後も余韻を味わった。
この幸せが危ういものだと理解している。
昨夜遅くに帰ってきたセオドアは、全身を入念に清めてからアレクシアの寝室にやってきた。
それが意味するところは、考えるまでもない。
数日ぶりに愛しい彼と会えた喜びの裏で、きっとまた誰かが命を落とした。
今度は何人か。それとも何十人か。
けれど重苦しい事実がアレクシアの耳に入ることは決してなかった。ひょっとしたら、自分が本気で望めば、セオドアは教えてくれるのかもしれない。
―――私が全て教えてくれと言ったら、彼はきっと頷いてくれる。血を流しながら何もかも吐露してくれると思う。だけど……語ることでおそらく彼自身も致命傷を負う。本当は優しい人だから、これ以上傷ついてほしくないの……
今のセオドアの立場を考えれば、彼自らが手を下したのではないだろう。それでも、アレクシアの前に現れる際はいつも、全ての汚れを洗い流してからセオドアはやってくる。そうせずにはいられない彼の心情を思えば、問い質すのは躊躇われた。
セオドアの手は血で汚れている。繊細に動く指も綺麗に整えられた爪も。どんなに清潔にしたところで、染みついた臭いまでは消せやしない。
時折、ふとした拍子に鉄錆の匂いが鼻を掠める錯覚があった。
それともアレクシア自身の後ろめたさが、幻臭を引き起こすのだろうか。
何故なら彼が罪を犯すのは、自分のせいでもある。セオドアを地獄に堕としたのはアレクシアの家族だからだ。ならば責任の一端は、自分にもあった。
―――でも、それでもいいの。
とっくにアレクシアは共に堕ちると決めている。彼が茨の道を行き深淵に沈むなら、寄り添うだけだ。
こうして傍にいられる事実こそが奇跡。
アレクシアはセオドアの胴に両腕を回し、彼の胸へ顔を埋めた。
清潔で糊のきいた服からは、香しい香水が漂う。いつもセオドアが使っている、彼のため特別に調合されたとてもいい匂いだ。
だがその奥に微かに血の臭いを嗅ぎ取ったのは、自分の想い違いだとアレクシアは眼を閉じた。
「……大好きよ、セオドア」
「僕も貴女をこの世の誰より愛しています」
愛情を免罪符にして、泥濘から逃れるつもりは全くない。彼が犯す大罪は、アレクシアのものでもある。
いつか贖う時がきたなら、共に償う覚悟はとっくにできていた。
再び重ねられた唇の狭間から、肉厚の舌が侵入してくる。粘膜を絡ませる淫靡なキスに溺れ、どちらからともなく肢体を密着させた。
「……は……っ」
混ざった唾液を嚥下して、体内に愉悦の焔が灯る。陶然と瞬けば、彼も同じ熱を瞳に宿していた。
「……部屋に戻りましょうか?」
「……ぁっ」
言われて初めて、アレクシアはここが厩舎であったのを思い出した。
すぐ傍には飼い葉を食べる馬がいる。人間の行動など興味がないと言わんばかりに馬は悠然としていた。
そんな長閑な光景に、逆にとてつもなく気恥ずかしさを覚えたのはアレクシアの方だ。
「す、すぐに戻りましょう!」
自分たちが何をしようとしていたのか、馬に分かるはずもないけれど、羞恥で頬が赤く染まった。慌てふためいたアレクシアが一刻も早くこの場を立ち去りたくてセオドアの手を引けば、彼が小さく吹き出す。
「ふっ……積極的なアレクシア様も可愛らしいですね」
「え? ぁ、そ、そういう意味じゃ……!」
自分の発言がまるで『すぐに部屋へ戻って口づけの続きをしたい』と宣言しているかのようだと気がつき、アレクシアは狼狽した。
そんな淫らな意図はまるでなかったけれど、誤解されても仕方ないやりとりだ。
真っ赤になって否定するほど嘘臭くなるのか、セオドアが官能的に微笑む。しかも意味深に腰を抱き寄せられて、より心拍数が加速した。
「セオドア……!」
「違うのですか? 残念です」
秀麗な顔貌を悩ましげに傾げ、眼差しに懇願をのせるのは狡い。
否定するつもりだったアレクシアは、たちまち何も言えなくなった。
言葉は、喉につかえて一つも出てこない。ただ無為に唇を開閉するだけ。それすら甘いキスに塞がれてしまった。
「ん……っ、ふ、ぁ……っ」
「僕はすぐ部屋に戻って、そのまま二人きりになりたいです」
真正面から見つめられ、クラクラする。強い酒を飲んだかのように、アレクシアの視界も思考もふわふわと滲んだ。
「僕の望みを叶えてくれませんか……?」
頬に添えられた彼の指先が熱い。
顎を引く以外、アレクシアに何ができたのか。
操られるまま首肯したアレクシアは、愛しい夫と何度も幸福で罪深いキスを交わした。