ソーニャ文庫

歪んだ愛は美しい。

会員限定特典小説

死神騎士の愛妻

 その日、休暇中にも拘らずギデオンに呼び出されたデュランは、不服そうな表情を消してから王の執務室をノックした。
 入室の許可を得て扉を開けると、執務机に齧りつくようにして執務をこなすギデオンの姿があり、その傍らには隣国タリスから呼び寄せた優秀な側近――文官の格好をした小柄で美しい女――の姿もあった。
「陛下。俺に何か御用でしょうか」
「ああ、デュラン。休暇中にすまなかったな。少しリリアナに頼みたいことが……おい、リリアナは連れてこなかったのか? 一緒に来るようにと連絡を送ったはずだが」
「リルは屋敷で休んでいます。彼女に用があるなら、俺から伝えますよ」
「リリアナには、王族として他国から来た賓客の相手をしてもらいたいんだ。私だけでは手が足りん」
「リルはもう王女ではなくマクレーガン公爵夫人です。それに――俺たちは結婚したばかりです。俺も、久しぶりの長期休暇中なんですよ」
 デュランとリリアナは二週間前に結婚式を挙げて、今は絶賛蜜月中だ。
 新婚夫婦の時間を奪われたことを不満に思っていると遠回しに伝えたら、ギデオンが手を休めて苦笑する。
「それについては悪いと思っているが、私の周りにいる連中、特に貴族の中にはジゼル王妃や公爵と繋がりが深かった者も多い。賓客の相手をさせようにも、誰が信頼に値するかを見極めている最中だからな。ゆえに、リリアナに助力を請うたんだが」
「ならば、俺が執務を手伝います。ルーベンも呼びましょう。おそらく屋敷で暇を持て余していますから。それで、少しは陛下の負担も減るはずです」
「リリアナは呼ばんのか?」
「リルはだめです」
 デュランが頑として言い張ると、ギデオンは諦めたようにやれやれと首を横に振った。


 部屋のベランダに出て、木々の葉がさわさわとこすれ合う音に耳を澄ませていたリリアナはぽつりと呟く。
「デュランがいないと、暇ね」
 今朝、ギデオンから「城まで来るように」と呼び出しの書簡が届いたのだ。
 書簡にはリリアナも連れて来いと書かれていたようだが、デュランは寝ぼけ眼の彼女をベッドに押し戻し、
『俺が行ってくるので、貴女は寝ていてください』
 有無を言わさぬ口調でそう言い聞かせると、慌ただしく出仕していった。
 珍しく機嫌が悪そうだったのは、寝ぼけたリリアナに大人の悪戯を仕掛ける朝のひとときを邪魔されたせいだろう。
 結婚式を挙げてからは何をするにもデュランと一緒だったので、彼がいなくなった途端に言いようのない寂しさがこみ上げる。
「馬のお尻にでもしがみついてでも、デュランと一緒に行くべきだったわね。退屈で仕方がないもの」
 リリアナの物憂げな呟きを聞き、後ろに控えていたメアリーが小さく噴き出した。
「リリアナ様。それこそデュラン様に叱られてしまいますよ」
「そうね……きっと口調も変わって、烈火のごとく怒るはずよ」
 しみじみと頷いた時、胸のあたりに違和感が生じた。遅めの朝食を取ったばかりだが、吐き気のような気分の悪さを感じる。
 ――ここのところ、どうも気分が悪い時が多いのよね……ああ、だめ。吐きそう。
 リリアナが手すりに寄りかかって体調の異変を訴えると、メアリーが慌てたように執事を呼びに行った。

 デュランが帰って来たのは、日もすっかり沈んだ夜だった。
 私室のベッドで休んでいたリリアナは、荒々しい足音を聞きつけて目を開ける。
 直後、バタンッ! と大きな音を立てて扉が開け放たれ、デュランが飛びこんできた。
「おかえりなさい、デュラ……」
「リル! 体調を崩して医者を呼んだというのは、本当ですか!」
 駆け寄ってきたデュランがリリアナの言葉を遮り、眦を吊り上げながら尋ねてくる。
 リリアナは目を白黒させると、落ち着かせるように彼の肩を撫でてあげた。
「医者を呼んだのは本当よ。でも、大丈夫。病気ではなかったし、身体のどこかが悪いというわけでもなかったから」
「ならば、いったいどうして……」
「デュラン。ちょっと手を貸して」
 デュランの手を取り、自分のお腹へ持っていく。ちょうど下腹部のあたりに添えて、リリアナは声色を和らげる。
「ここに、新しい命が宿ったみたい。それで体調を崩したのよ」
「――え?」
「つまり、私とあなたの赤ちゃんができたってこと」
 優しい口調で言い換えたら、デュランが隻眼を見開いたまま石像のごとく固まった。頬をつついてみても反応がない。
 彼が喜んでくれるという確信はあったから、リリアナは思考回路が停止しているデュランの頬をつまんだり引っ張ったりを繰り返す。
 やがて我に返ったデュランに手首を掴まれ、次の瞬間にはきつく抱きしめられていた。
「リル! 俺の子供ができたんですね!」
 喜びの極みに至り、いつものように遠慮なくぎしぎしと締め上げてくるデュランの腕の中で、リリアナは苦しげに声を絞り出した。
「デュラン、ちょっと腕の力を緩めて……赤ちゃんが潰れてしまうわ」
「!?」
 デュランが弾かれたように身を引き、追い詰められた犯人のように両手を挙げた。
 リリアナはホッと一息つくと、労わるようにお腹をさする。
「私だけならいいんだけど、もう一人の身体じゃないから。これからは、少し力を加減してくれると嬉しいわ」
「分かりました。十分に気をつけます」
 真面目に答えたデュランだが、そわそわと肩を揺らしているので、どうやら子供ができたことへの喜びが隠しきれないようだ。
 そんな彼の思いを汲み取り、リリアナは夫の手を取って自分の腰に回した。
「軽く抱きしめるのは大丈夫よ」
「はい……ああ、リル。俺と貴女の子ができたなんて、本当に嬉しいです」
 お互い家族とは縁の薄い人生を歩んできた。二人の血を引く子供が生まれたら、これまで以上に絆が強まるだろう。
 リリアナとデュランは万感の想いで相手を抱擁し、メアリーに夕食だと声をかけられるまで離れなかった。
 夕食後、湯浴みを終えてカウチで寛ぎながらリリアナは切り出す。
「ねぇ、デュラン。お願いがあるんだけど」
「貴女の願いなら、何でも叶えますよ」
 上機嫌のデュランが額に口づけて、愛おしむようにお腹を撫でてきた。まだ下腹部はぺったんこで傍目からは懐妊したことが分からないが、もう少しふっくらとしてきたら、あれをするなこれをするなと彼に口うるさく咎められそうだなと、リリアナは予感を抱く。
 まぁ、先の話なので今から頭を悩ませる必要はないだろう。
 それよりも、リリアナは以前から気になっていたことがある。
「その話し方、そろそろやめてほしいの」
「話し方、ですか?」
「ええ。ずっと敬語でしょう。私たち、もう対等な夫婦なのよ。だから、敬語なしで話してほしいの」
 出会った頃から敬語だから、すぐには難しいかもしれないけど。
 そう付け足したら、急にデュランが黙りこんだ。さりげなく表情を確認すると仏頂面をしている。
「デュラン、もしかして嫌だった?」
「違います。……いや、違う」
 敬語を抜いた、ぎこちない返答。
 リリアナは目をパチパチさせて首を傾げた。
「じゃあ、困ってる?」
「困ってもいませ……困って、ない」
「……迷惑だった?」
「迷惑なわけ、ありま……迷惑じゃ、ない」
 言い間違えるたびにデュランの顔が苛々と顰められる。癖というものは、なかなか抜けないらしい。
 デュランの苛立ちを間近で見ながら、リリアナは口端をぴくりとさせた。
「なんだか抵抗があるみたいね。私を怒るときみたいに、さらっと話せばいいのに」
「敬語が抜けるのは感情が高ぶったときだけです。貴女と接するときは敬語だと、身体に染みついているんですよ」
 その言葉通り、自然と敬語に戻っている。
 ――子供の頃からやっていることだし、そういうものなのかしら。
 リリアナは「仕方ないわね」と答えたが、今まで見たことがないくらいデュランの眉間に皺が寄っていたから、思わず口角を緩めた。
「深刻に考えないで。少しずつ変えてくれればいいのよ」
「待った。今、笑いましたか?」
「笑ってないわ」
「いいえ、笑いました。間違いなく」
 至近距離に顔を近づけられ、鼻の頭がちょんと触れ合った。
「自分では意識していなかったけど……」
「じゃあ、無意識に笑ったんですね。もう一度、笑ってみてください」
「無茶を言わないで」
 答え終わる前にデュランの腕が巻きついてきて、そっと抱き上げられた。そのままベッドへ運ばれて壊れ物みたいに降ろされると、ゆったりとしたイブニングドレスの中に手が入ってくる。
 リリアナは硬い口調で咎めた。
「だめよ、デュラン。しばらくは、あなたと肌を重ねるのは控えろって言われたの」
「分かっています、抱くつもりはありません。少しくすぐるだけです」
「くすぐるって……」
 脇腹のあたりに手が這ってさわさわとくすぐられて、リリアナは表情こそ口元をぴくりと動かすだけに留めたが、もどがしげに身を捩った。
「デュラン、くすぐったいわ。やめて」
「こうすれば笑うかと思ったんですが、ものの見事に表情が変わりませんね」
 身を乗り出してデュランの肩に顔を押しつけると、彼がくすぐる手を止めて心配そうに声をひそめる。
「リル? どうしました?」
「……なんでも、ないわ」
 くすぐったさに堪えきれなくて、語尾が震えてしまった。
 すると、デュランもピンときたらしい。リリアナの肩を押して顔を覗きこみ、再びお腹をくすぐってくる。
 今度こそ、リリアナは我慢できなくて引き結ばれた唇が緩むのを感じた。
「やめてちょうだい、デュランっ……すごく、くすぐったいの」
 口角が持ち上がって声が弾む。勝手にくすくすと笑いがこみ上げてきた。
 途端にデュランのアイスブルーの瞳がキラキラと輝き、控えめに身を捩るリリアナを優しく抱きしめて、堪らないとばかりに唇を塞いでくる。
 たっぷりと甘いくちづけをしたデュランは、リリアナの紅潮した頬にもキスをした。
「貴女の笑顔を久しぶりに見ました。泣き顔よりも、ずっと可愛らしいですね」
「っ……あまり見ないで」
「だめです、隠さないでください。――俺にだけ、見せて」
 まるで夜の営みへ誘う時みたいな色気のある声で囁かれ、両手で顔を隠そうとしていたリリアナは降参した。
 デュランは緩みきった彼女の口元を指でなぞり、じっくりと堪能してから再び腰が抜けるようなくちづけを仕かけてきた。
 そして新たな命が宿ったお腹をゆっくりと撫でながら、こう呟く。
「この子が生まれる日が楽しみです。俺の子を腕に抱きながら微笑む貴女は、とても美しいでしょうから」
「生まれてくるのは、まだ先の話よ。デュラン」
「分かっていますよ。ただ、待ち遠しいんです。お腹が大きくなった貴女もまた、美しいでしょうね」
 デュランは破顔してリリアナを抱き寄せると、砂糖をたっぷりまぶしたような甘ったるい声で囁いた。
「――本当に、楽しみです」
 貴女は俺のものだ、と囁く時と同じ低いトーンで言うから、リリアナは緋色の目を細めながら黙ってデュランを抱き返す。

 デュランの子を生む――。

 それが、永遠にデュランのものになることと同義であるのを知っていたから、なんだかリリアナも堪らなくなって、久しぶりに自分の意思で口角を持ち上げていた。

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