聖帝と神の花嫁と小鳥のスローライフ
「おいたわしや、姫様っ」
「メ、メアリア?」
火のおこし方を教えようとしていたアリーシェは、ハンカチ片手に泣き出したメアリアにおろおろとなった。
それは以前アリーシェが住んでいた森の小屋の改築が終わり、メアリアとファナ、トムス爺が越してきた初日のことだった。
――私は火のおこし方を知らないメアリアにやり方教えようとしていただけなのに……。
一体、どこにこれほど嘆くことがあるのか。
「メアリアさん、泣き止んでください。姫様が困惑されていますよ。姫様。メアリアさんは本来であれば守られ世話をされてしかるべきだった姫様が、自分で火をおこさなければならない生活をしていたのかと思って嘆いているのです」
「まぁ……」
確かにアリーシェはこれでも一国の王女だったし、冷遇されて離宮に軟禁されていたとはいえ、メアリアたちにかしずかれ、不自由のない生活をしていた。
それが一転、世話をする者もいない森の狩猟小屋での生活を余儀なくされたとなれば、あまりの落差にメアリアが嘆くのも無理はないのかもしれない。
もっとも、アリーシェ本人は零落したとは露ほども思っていない。ここで生活をすることはアリーシェ自らが望んだことだったからだ。
「メアリア、泣かないで。嘆くことなんて一つもないのだから。私、この森でも生活できてとても幸せよ。むしろ、今までどれだけ恵まれた生活をしていたのか身に染みたわ」
アリーシェはメアリアに抱きついた。
「ありがとう、メアリア。それもこれもメアリアが、私のことを産まれた時から守ってくれたからよ。私は少しも不憫ではないわ」
「姫様……ああ、姫様、ご立派になってっ」
ますます泣き出してしまったメアリアに困ったアリーシェは、ファナとトムス爺に助けを求めるような視線を向けたが、その二人も感極まったように涙を浮かべていた。
ようやくメアリアの涙が引っ込んだのは、それからしばらく経った後だ。アリーシェは三人を、大きくなった台所兼居間の大きなテーブルの前に座らせると宣言した。
「初日ですもの。今日は私が火をおこして皆にお茶とパンケーキを振る舞うわ。だから皆は座って見ていて。これは命令です」
アリーシェは手際よく火をおこすと、さっそくパンケーキを焼く準備をする。先ほどトムス爺と畑に行って収穫したオレンジの皮を削り取り、中身を潰してジュースを絞る。そのジュースに砂糖を加えてフライパンに入れてオレンジソースを作っている間に皮を細かく刻んでパンケーキの生地に混ぜた。
「チュチュ!」
外を散策していた小鳥のヴィラントが窓から入ってきて、アリーシェの肩に止まった。どうやらアリーシェお手製のパンケーキの匂いを嗅ぎつけたようで、催促するように鳴く。
「ふふ。もちろん、ヴィラントにもあげるからね」
ヴィラントは森の管理者である隠者グラムの飼っている小鳥だ。真っ白な羽毛につぶらな黒い目をしている。
可愛らしい小鳥の姿からは思いもよらないことだが、ヴィラントの正体は「神鳥」であり、シュレンドル帝国の皇帝「聖帝サージェス」と共に生まれた伝説の鳥なのだ。
小鳥の姿に擬態しているが、本来はもっと大きくて神々しい姿をしている。が、儀式の時や国民の前にサージェスと共に出る時以外、ヴィラントはほぼ常に小鳥の姿をしているようだ。
今はアリーシェのお守り役として常に傍にいて、彼女が作る料理や野菜や果物のおこぼれにあずかっている。
――神鳥なんていうのが信じられないくらい人懐こいし、食いしん坊なのよね。
アリーシェはそんなヴィラントが大好きだった。
「さ、パンケーキをささっと作ってしまいましょう!」
フライパンにパンケーキの種を流し込んでいく。人数分(+ヴィラントの分)を手際よく焼いている間に、もう一つの窯でお湯を沸かしてお茶の準備をする。
十五分後、テーブルにオレンジソースのかけられたパンケーキとお茶のカップが人数分のせられ、爽やかなかんきつ類の香りと紅茶の香りがあたりに漂っていた。
「まぁ、まぁ、まぁ」
とメアリアとファナはアリーシェが料理をしている間ずっと感嘆の声を漏らしていた。
「ああ、まさか姫様の淹れてくださったお茶を飲む日がくるなんて……!」
パンケーキとお茶を前に、ファナが感動したように呟いた。
「さて温かいうちに召し上がれ。紅茶にオレンジソースを入れて飲んでも美味しいのよ」
テーブルの端では小皿に盛られたパンケーキの端と半分に割ったオレンジを美味しそうにつついているヴィラントがいた。
「美味しい! 美味しいですわ、姫様!」
メアリアが目を潤ませながらパンケーキを食べている。また泣いてしまうかと心配したがなんとか堪えることができたようだ。
「姫様、これだけのものを覚えるのは大変だったのではないですか?」
ファナの言葉にアリーシェは過去を思い出しながらしみじみと頷いた。
「そうね。私、一人では何もできなかったから、最初は本当に大変だったわ」
何しろ隠者は森に留まると決めたアリーシェを小屋に案内し、お守り役兼連絡係としてヴィラントを付けると、何ひとつ説明することなくさっさと森の中心に帰ってしまったのだ。
一人残されたアリーシェは見知らぬ小屋でどうしたらいいかわからず戸惑うばかり。幸いにも井戸が小屋のすぐ横にあって、水には不自由しなかったが、火をおこせないアリーシェには暖を取ることもできなかった。
おかげで小屋生活の初日は空腹を抱えて埃っぽいベッドに横になり、不安と心細さに眠れぬ夜を過ごすことになった。
翌日、なぜか小屋の戸口に果物が置かれていて、首を傾げながらもアリーシェは空腹を満たすことにした。
――当時はグラム様が置いてくれたのかと思っていたけれど、今思うと果物を置いてくれたのは霊獣たちよね。グラム様は基本、放置だったもの。
隠者グラムがようやく様子を見に小屋にやってきたのは、アリーシェが森に住むようになって三日目のことだった。
どうやら住むところを与えれば勝手に生活しているだろうと思っていたらしい。ところがアリーシェは火をおこせないまま果物だけでお腹を満たしていたことを知り、グラムは呆れたように言ったのだった。
『お前は自分で自分の世話もできないのか?』
アリーシェが自分を恥じたのは言うまでもない。だがグラムは何も知らないアリーシェに呆れはしたものの、バカにすることはなかった。
『誰にでも初めてがある。最初から何でもできるやつはいないさ。お前が何も知らないのなら今から覚えればいい。面倒だが拾った以上、俺にもお前が一人で生きていけるように仕込む義務はあるからな』
後から知ったことだが、聖帝として生まれた彼は力を制御できずに不用意に近づいてきた人間を何度も殺しかけていたらしい。彼に近づけるのも世話ができるのも、限られた人間のみ。
そんな彼を心配した父親である先代の皇帝はまだ十歳にもならなかったグラムを森に連れて行き、当時小屋に住んでいた木こりに一人でも生きていける術を学ばせたのだという。
――人を傷つけてしまい、そのことで傷ついているグラム様の心の負担を少しでも軽くできるようにと思ったのでしょうね。
グラムは自分を「聖帝」扱いせずに一人の人間として接してくれる木こりに懐いて、彼のもとで色々と教わったらしい。森で生きていく方法を、一人でも生活していける術を。
アリーシェが何も知らないとわかった時、グラムはどうやら過去の自分を思い出したようだ。
それからグラムはアリーシェに火のおこし方や薪の割り方、料理の仕方などを厳しく教えた。アリーシェも何度も失敗を繰り返しながら必死に覚えていった。
……覚えないと森では生きていけなかったからだ。生きるために必要なことだったのだ。
ようやくグラムから合格点を与えられた時、生まれて初めてアリーシェは達成感を得ることができた。自分にも自信が持てた。
あの離宮がアリーシェの原点ならば、ここはアリーシェの全てだ。
森の全てをアリーシェは愛した。その厳しい生活さえも。
「きっとこれから毎日メアリアたちには驚きが待っているでしょうね。でも、この生活に慣れた時には、森が好きになっていると思うわ」
アリーシェがそうだったように。
オレンジのパンケーキに舌鼓を打ち、二年間の別離の間の話をしているうちに帰る時間になった。
「ピー、ピー」
ヴィラントが森の中心の方を見ながら警告するように鳴いた。
どうやら森の中心にある水晶の神殿にアリーシェがいないことに、帰宅した隠者グラムことサージェスが気づいたらしい。
「名残惜しいけど、私は戻るわね。おこした火はそのまま朝まで絶やさずにね。トムス爺様、畑の手入れは頼んだわ。きっと驚くだろうけど、トムス爺様ならすぐに慣れると思うから」
いくつか注意事項を口にすると、アリーシェはグラムのために取っておいたパンケーキを籠に入れると、急いで森の小屋を出た。
森の中心に向かって小道を走っていると、隣で空を飛んでいるヴィラントが「ピーッ」と甲高い声を上げる。
すると道の向こうから悠然と歩いてくる黒い人影に気づいた。
もちろんそれは隠者グラムこと聖帝サージェスだ。アリーシェを迎えに来たのだろう。
「サージェス様!」
アリーシェはサージェスに駆け寄った。
「遅くなってごめんさない。すっかり話し込んでしまって。小屋でパンケーキを作ったからサージェス様の分も持ってきたわ」
「そうか」
黒いローブに身を包んだサージェスは籠を示して小屋でのことをあれこれ話すアリーシェの肩をさりげなく抱き寄せた。
「楽しかったようで何よりだ。俺が仕事で王宮にいる間は彼らのところで羽を伸ばすがいい」
「ありがとう、サージェス様」
本来であればサージェスは神聖な森に他人を入れたくはなかっただろう。けれどアリーシェがあの三人に傍にいて欲しいと願ったから、森に住むことを許したのだ。
アリーシェのために。アリーシェの願いに応えて。
それを知っているからアリーシェはサージェスに感謝の言葉を贈るのだ。何度でも。
――それにこれは私のためでもあるし、サージェス様のためでもあるもの。
森はサージェスの庭だ。サージェスは花嫁であるアリーシェを大勢の人間が集まる王宮ではなく森に置きたがっている。彼の手の内に入れておいて安心したいのだ。
そしてアリーシェもまた、人が多い場所にいることを好まない。これは離宮で隔離されて育ち、人前に出る時は好奇の視線に耐えなければならなかったアリーシェの育ちに関係している。
今でもアリーシェは大勢の人がいる場所に出るのが苦手だ。皇妃となったのだから克服しなければならないと思い、公務の間は頑張って我慢しているが、今でも本音を言えば人が怖かった。
――だから森に囲われるのはちっとも苦じゃないの。
王宮の人たちは森に軟禁されているアリーシェを気の毒だと思っているようだが、実際は違う。アリーシェが自ら望んで森という安全な庭にいるのだ。
「サージェス様。ずっとずっと私を傍に、森に置いてくださいね」
胸に頬を寄せて囁けば、アリーシェを抱くサージェスの手に力がこもった。
「もちろんだ。お前は俺のもの。俺の花嫁だからな」
「はい」
二人は身を寄せ合いながら森の中心に向かって歩き出す。
彼らの頭上を白い小鳥が嬉しそうに旋回していた。