猛獣使いになった花嫁
──このところ、アモンの様子がおかしい。
もちろん、彼がもともと変な人だというのはリリスもよくわかっている。
なにせ、自分たちが出会って八年もの間、リリスは彼の思いもよらない行動に散々振り回されてきたのだから……。
ただ、今回はそういった奇行とは少し違うようだ。
ここ一週間ほど、アモンはふとした瞬間に『とある質問』をリリスに投げかけ、それを日に何度も繰り返すといったことを延々と続けていた。
「──リリス」
「は、はいっ!」
その日も、リリスとアモンは朝食を済ませると執務室に来ていた。
アモンはしばらくの間、真剣な眼差しで執務机に向かって書類にサラサラとペンを走らせていたが、一時間ほど経ったところで何やら思い立った様子で声をかけてきた。
リリスはそのとき、執務机のすぐ横に置かれた椅子に座っていつものように彼を見ていたものの、眠気と闘いはじめた頃だったこともあって必要以上に大きな返事になってしまった。
「ど…、どうかされましたか、アモンさま」
リリスは慌てて姿勢を正すと、平静を装って微笑んでみせる。
彼は数秒ほど黙り込んでいたが、やや眉間にシワを寄せてリリスにぽつりと問いかけてきた。
「おまえ、俺のことをどう思う?」
「え?」
「好き…か?」
「……え、えぇ」
脈絡のない問いかけに、リリスはぎこちなく頷く。
すると、アモンは険しい表情から一転して、ぱっと明るい笑顔を浮かべた。
「そうか!」
「……はい」
リリスがもう一度頷くと、アモンはまた真剣な顔になって再び書類に目を落とす。
その後は何事もなかったかのように黙々と書類にペンを走らせ、執務室に静かな時間が流れていった。
──今のやり取り、今日で何度目だったかしら……。
リリスはアモンの横顔を見ながら、こっそりため息をつく。
そう、これが例の『とある質問』なのだ。
今日はすでに四度目……、いや、五度目だったかもしれない。
まだ午前中でこれだ。一日が終わる頃には、間違いなく両手では足りないほどになっているだろう。
一度や二度なら特に気にはしなかったろうが、毎日何度も『おまえ、俺のことをどう思う?』『好きか?』と繰り返されればさすがに疑問を感じるようになるというものだ。そのうえ、リリスが頷くと『そうか!』と笑ってそこで会話が終了する。
彼がこれをわざとやっているのかは、リリスにはよくわからない。
しかし、あまりにアモンが何度も同じことを聞いてくるものだから、段々と自分の気持ちを信用してもらえていないのではないかと思うようになっていた。
──確かに最初は両想いというわけではなかったけれど……。
喧嘩をしたこともあったし、さまざまな行き違いもあった。
それでも、互いの気持ちをぶつけ合って最終的には心を通わせることができたと思ったのに、彼のほうはそうではなかったのだろうか……。
「……よし」
端正な横顔をじっと窺っていると、アモンは机の端に置かれた箱に書類を入れてペンを置いた。
口元が緩んでいることから、今日の仕事はこれで終わりのようだ。
彼は大きく息をついて椅子の背もたれに身を預け、前髪を掻き上げながら、ふとリリスに目を向けた。
「リリス」
「……は…、はい」
気だるげな表情に、リリスは思わずドキッとしてしまう。
結婚前は、彼がこんなに真面目に執務に取り組む人だと思っていなかったから、真剣な表情から切り替わった瞬間はいつもこうなってしまう。
だが、彼はそんな気持ちにまるで気づかずに、またしても例の質問を投げかけてきたのだった。
「リリス、おまえ、俺のことをどう思う?」
「……」
「好きか?」
「……、……えぇ」
「そうか!」
「……」
先ほどのやり取りから、まだ三十分も経っていない。
このペースだと今日も記録を更新するのは間違いないだろう。
ここで何か会話が続くならリリスだってこんなふうには思わない。アモンは今もまた聞くだけ聞いておいて何事もなかったかのように「さて…と」と席を立とうとしていたので、さすがに黙っていられなくなった。
「アモンさま、今日はこれで六度目になります」
「……ん?」
と、アモンは中腰の状態で動きを止めてリリスに目を戻す。
『なんのことだ』と言わんばかりに首を傾げたのを見て、リリスはむっとして言葉を加えた。
「たった今、アモンさまがお聞きになったことです」
「俺、が…?」
「そうです」
リリスが大仰に頷くと、アモンは天井を見上げて考えを巡らせる。
考えるほど難しいことは何一つ言っていないのに、彼は数秒ほどしてようやく「あぁ…」と呟いた。
「好きかと聞いたことか」
「……そうですけど」
リリスの反応に、アモンは満足げに笑みを浮かべる。
ところが、一拍置いて眉根を寄せると、途端に目を見開いた。
「六度目?」
「え? えぇ」
「……そんなに何度も聞いたか……?」
「……聞かれましたけど」
「……、……そう、だったか」
どうして彼はそんなに驚いた顔をしているのだろう。
もしかして、自覚もなく聞いていたとでも言うのだろうか。
リリスが顔に困惑を浮かべると、アモンは「まいったな…」と苦笑して執務椅子に座り直した。
「それはすまなかった。気を悪くしたなら許してくれ。そんなに何度も聞いていたとは、自分でも気づいていなかったのだ」
「え…っ」
まさか、本当に自覚していなかったなんて……。
予想外の返しに、リリスは戸惑いを隠せない。
もしや、何かの病気だろうか。悶々とした気持ちは残っていたが、本人が自覚していないことをこれ以上責めることはできなかった。
「あ、あの…っ、私、別に嫌だとか思っていたわけではないんです。ここ一週間ほど、やけに頻繁に聞かれるので少し気になったというか……。なんだか気持ちを疑われているようで……。アモンさまはご自分からはそういったことをあまりおっしゃってくださらないのに私ばかり……。あ、いえ、今のは違いますからね。えぇ、不満ではありませんから」
「リリス……?」
「……そうだったのですか。アモンさまは、無自覚でいらっしゃったのですね……」
リリスは内心激しく動揺しながら、無理やり笑顔を作ってみせた。
一度、医者に診てもらったほうがいいかもしれない。
あとで家令のミュラーに相談してみよう。長年にわたる彼の奇行に関係している可能性もある。
そんなリリスの心配をよそに、なぜかアモンの目にみるみる光が宿って、身を乗り出すようにして顔を覗き込まれた。
「リリスは、俺に好きと言ってほしかったのか?」
「えっ!?」
「今、そう言ったではないか。俺からはそういったことをあまり言ってくれないと」
「あっ、あれはそういう意味では……」
「ならどういう意味だ」
「ですからあれは……、あれは……っ」
「やはりそうではないか。おまえ、俺に好きと言ってほしかったのだな」
「……ち、違……」
彼はいきなり何を言い出すのか。
自分はちゃんと『不満ではありません』と言ったはずだ。そんなふうに勝手に解釈しないでほしい。
リリスは動揺のあまり、彼を励ましていたつもりで実際は不満を漏らしていたことにまったく気づいていなかった。
「おまえがそんなに俺を求めていたとは……」
「あ、あの……っ」
「気づいてやれなくてすまなかった。別にお前の気持ちを疑っていたわけではないのだ。実は一週間前、兄上から手紙を貰ってな。どうやら、それがずっと頭に残っていたようだ」
「え…、陛下から?」
いきなりアモンの兄、国王バルドの話になって、リリスは僅かに冷静さを取り戻す。
どういうことだろう。
首を傾げると、彼は自嘲気味にため息をついた。
「あぁ、それがまたずいぶん自分たちの夫婦仲を自慢する内容でな。あの二人は昔から仲がいいのだ。喧嘩したところなど一度も見たことがない。一方、俺はまだリリスに振り向いてもらえたばかりで、焦ってしまったのかもしれない。何度も聞いたのは、求めた答えを貰えるのが嬉しかったからだろう。……あ、いや、だからといって開き直るつもりはないぞ。本当に悪かった」
「アモンさま……」
話を聞いているうちに、リリスはなんとも言えない気持ちになっていく。
彼が焦りを感じていたなら、それは自分にも責任があるからだ。
自分たちの気持ちには、八年間ものズレがある。
リリスはアモンの変わった愛情表現を理解できずにいたのに、彼のほうは出会ったときからリリスを思い続けてくれていた。年数ですべてを計れるわけではないが、仲のいい兄夫婦にあてられて彼がおかしな行動を取っていたとすれば、それは不安によるものに違いなかった。
──私ったら、何も知らないで……。
なんて心の狭い真似をしてしまったのだろう。
そういうことなら、何度でもちゃんと答えればよかった。
午前中で六度目だなんて、指折り数えて嫌みまで言ってしまった。
自分の行いを恥じていると、不意にアモンが自分の椅子をリリスと向かい合うように移動させてくる。膝と膝が軽くぶつかったところでリリスはそのことに気づき、顔を上げた途端、彼は照れくさそうに手を握りしめてきた。
「リリス、今言うと、止められなくなりそうなんだが……、おまえはそれでもいいのか?」
「言うって、何を…ですか?」
「何って、そんなの決まってるだろうが」
「そう言われても……」
「俺に、す…、好きと……、言ってほしいのだろう?」
「……ッ!」
アモンは僅かに頬を赤くして、肩で息をしていた。
それだけで彼が興奮しているのが伝わってきて、リリスはハッと息を詰めて身を固くする。
「いや、折角おまえが望んでいるのに、これ以上野暮なことは訊くべきではないな」
「ア…、アモンさま、あの……っ」
勝手に話を進められそうになって動揺するリリスだったが、反論しようとして途中で言葉を呑み込んだ。
よくよく思い返すと、アモンを勘違いさせるようなことを言った気がする。
『──なんだか気持ちを疑われているようで……。アモンさまはご自分からはそういったことをあまりおっしゃってくださらないのに私ばかり……』
確かに言った。勘違いどころか、そうとしか取れない言い方だった。
実際、直接的な言葉でアモンに告白されることが滅多にないと密かに不満に思っていたのは本当のことだった。
「リリス、とりあえずもっと近くに来てくれないか。そうだ、俺の膝にのってくれ。離れていると妙に気恥ずかしいのだ」
「ま、待ってください。これにはわけが……っ」
「今さら何を恥ずかしがっているのだ。もしかして、俺にそっちに行ってほしいのか? おまえの椅子のほうが小さいが、たまには狭いところがいいとかそういう趣向なのか?」
「そ…、そんなこと…──あっ!?」
あれこれ言いながら、アモンはぬっと手を伸ばしてリリスを抱き上げてしまう。
そのまま横抱きにした状態でくるりと半回転すると、すとんと腰を落として、これまでリリスが座っていた椅子に腰掛ける。
あまりの早業に、リリスは小さな声を上げることしかできない。
気づいたときには、抱きかかえられたまま彼の膝にのせられていた。
「……やはり狭いな……。だが、こういうのもなかなか……」
「あの、アモンさま…っ、せめて部屋に戻ってからではだめでしょうか……っ」
「なぜだ? ここでするのが嫌なのか?」
「い、嫌とかそういう問題ではなくて……っ。こんな、いつ誰が来るかもしれない場所では落ち着きませんし……。それにそろそろお昼の時間ですから……っ」
「なに?」
やはり彼はここでリリスを抱くつもりだったようだ。
好きと言うだけでどうしてそこまで話が飛躍するのかと思ったが、このままなし崩しになるのはやはり躊躇いがある。以前に一度だけ執務室で抱かれたことはあったが、あのときと今では状況がまるで違っていた。
「……もう…そんな時間か……。なら仕方ない……」
リリスの気持ちが伝わったのか、アモンは思いのほか簡単に引き下がってくれた。
部屋の柱時計に目を移して、彼は残念そうに肩を落としている。
どのみち、今から部屋に戻ってもすぐに昼食の時間になってしまうから、そんなことをしている場合ではないのだ。
とはいえ、以前の彼なら強引にでも行為に及んでいただろう。
そう思うと、自分の言葉をちゃんと聞き届けてくれたことが嬉しくて自然とリリスの口元は緩んでいた。
「アモンさま、私はこうしているだけで嬉しいです」
「……リリス……」
「本当です。ただこうしているだけで……」
そう言ってリリスがアモンの背中に腕を回すと、彼もリリスの背に腕を回してくる。
そのまま肩口に顔を埋められて、彼の髪をそっと撫でると甘えるように首筋にぐりぐりと額を押し付けられた。
──なんだか、猛獣使いになった気分……。
密かに失礼なことを考えながら、リリスは感慨に耽る。
自分には、とても手に負えない人だと思っていた。こんなふうに自分から彼に触れたいと思うときが来るなんて、彼と結婚する前は想像したこともなかった。
「……リリス」
「はい」
「す…、好……だぞ」
「……っ」
不意打ちの告白にリリスの心臓が大きく跳ねる。
アモンはリリスの首筋に顔を埋めたままだったが、その耳は真っ赤になっていた。
その様子を目にしただけで、リリスまで顔が熱くなって彼の背中に回した手に力が入ってしまう。すると、アモンのほうもリリスをぎゅうっと抱きしめてきて、服越しに彼の手の熱が伝わって目眩を起こしそうになった。
──コン、コン。
「……ッ」
と、そこで扉をノックする音が響き、リリスはハッと我に返った。
あの音はたぶんミュラーだ。きっと昼食の準備ができたと伝えに来たのだろう。
アモンも同じことを思っていたようで、二人で扉に向かうと、思ったとおりミュラーが立っていた。
「アモンさま、リリスさま、昼食の時間でございます」
「……あぁ、わかった」
アモンは静かに答え、リリスを先に廊下に促して自分も続く。
先ほどは耳まで赤くしていたのに、今の彼はもういつもどおりだ。
なんとなく名残惜しい気持ちになっていると、すっと腕を差し出された。
リリスが顔を上げると、アモンはじぃっと物言いたげに見つめてくる。その目が何を求めているのかがわかって、リリスは素直に彼の腕に腕を回した。
「い、行こうか」
「はい…、アモンさま」
心なしか、アモンの口元は嬉しそうに綻んでいた。
なんだか恋人同士のようで、心がくすぐったい。
廊下を進む二人の足取りはいつになくゆっくりだ。そんな自分たちを見て、ミュラーはいつものようににこにこと微笑んでいた──。