クロちゃんといっしょ
「アーヴィング様、アーヴィング様、見てください!」
鈴の音のような軽やかな声が自分の名を呼んだ。
アーヴィングは読んでいた書類から顔を上げて、声の方を見遣る。
午後の柔らかな日が射し込む温室で、彼の愛妻ハリエットが、愛玩動物の『深淵の黒き炎【ダークフレイムオブジアビス】』——通称クロちゃんと戯れている姿があった。
温室はこの屋敷の中でも特に彼女が気に入っている場所で、しょっちゅうここに入り浸るため、アーヴィングはここに大きなソファとテーブルを設置した。温室の中にソファなど、あまり例にない組み合わせだが、アーヴィングにとっては常識よりも、愛妻が心地好く過ごせることの方がよほど重要だ。温室が好きならここで何時間でも過ごせばよろしい。
ただそうなると、アーヴィングと過ごす時間も減ってしまう。どうしたものかと思案して、すぐに解決策を思いついた。アーヴィングも温室に来ればいいのである。そうすればハリエットは温室で過ごせて幸せで、アーヴィングはハリエットと過ごせて幸せである。万事解決だ。
アーヴィングは目を細める。ハリエットはお気に入りの白いドレスを身に着けていた。
妻の背後から陽光が射し込んでいるのも相まって、神々しいまでに可愛らしい。
(天使かな……?)
心の中で自問して、自答する。——むろん、天使だとも。こんなに可愛すぎる生き物が、天使でないはずはない。ハリエットこそ、神がアーヴィングのために遣わしたもうた、光の使者なのだ。
彼の光の使者は、先ほどまでクロちゃんをバナナの木に登らせて遊ばせていたというのに、今度はしゃがみこんでクロちゃんと握手してニコニコ笑っている。可愛い。
「クロちゃんに、お手、教えていたんです! そしたら今、できたんですよ! すごい! 賢い! なんて賢いの、クロちゃん! 天才だわ!」
盛大に褒め称え、ハリエットはクロちゃんをかき抱いた。すっかりハリエットに懐いたクロちゃんも、なんの抵抗もなくハリエットに抱かれている。可愛いに可愛いが抱かれて相乗効果だ。ああ、可愛い。
「クロちゃん、かわいいですねぇ! クロちゃん、かしこ~い! かわいいですねクロちゃんかわいいですね~~~~!」
ハリエットはクロちゃんに対する時、声が甘くなり語彙が極端に少なくなる。アーヴィングもそうだからよく分かる。何故かは分からないが、愛玩動物を前にすると人間は思考回路の大半を失うらしい。
だが……、と、アーヴィングはハリエットの胸に顔をうずめて満足げにしているクロちゃんの顔に、もやっとしたものを感じた。
(……やわらかく温かい、そしていい匂いがするんだよな。気持ち好いだろう、そこは……)
アーヴィングとて知っている。ハリエットの胸がどれほど柔らかくて温かくて、いい匂いがするかを。
(そこは私のものだけどね……。少しだけなら……お前に貸してあげよう、深淵の黒き炎【ダークフレイムオブジアビス】……。あくまで貸してあげるだけだが……)
なにしろ深淵の黒き炎【ダークフレイムオブジアビス】はアーヴィングの愛すべき小さき命だ。目に入れても痛くないほど可愛がってきたあの子にならば、ハリエットの胸を貸してやるのも……いいだろう。あの子以外ならば、何人、いや何物であろうとも、貸してなどやるものか。最愛の天使に触ろうとしたその手を叩き落とし、切り刻んでやる。
(いいか、深淵の黒き炎【ダークフレイムオブジアビス】、お前だからだぞ……お前だから許すんだからな……)
心の中で呪い……もとい祈りのように唱えていると、ハリエットがクロちゃんを抱いてこちらへ駆け寄ってくる。
「アーヴィング様! クロちゃん、賢いの!」
褒めてあげて! と全開の笑顔で言われ、アーヴィングはウンウンと頷いた。
「そうですね。クロちゃんは賢い。可愛いし、天才」
「ふふふふふ」
アーヴィングが同調すると、ハリエットは実に嬉しそうに笑っている。
(……ああ、この笑顔を守るためならなんだってする)
妻の笑顔に胸がきゅうっと掴まれて、アーヴィングは両腕を彼女に向かって伸ばした。
抱き締めたくて堪らない。ハリエットを愛してから、頻回にこういう衝動が込み上げる。彼女の笑顔や、照れた顔、拗ねたように唇を尖らせた顔などを見る度に、この腕の中に彼女を抱き締めたくて堪らなくなるのだ。
(もしかしたら私は、彼女が本当に存在しているのか、確かめたいのかもしれない)
アーヴィングにとって、世界は贖罪のためだけに存在していた。全てをあるべき姿に戻した後には、自分はどうなってもいいと思っていた。夢も、希望も持っていなかった。目的を果たした後の未来を、思い描く気力すらなかったのだ。
そんなアーヴィングに、未来を思い描く力を与えてくれたのが、ハリエットだった。
まさに、アーヴィングを救うために遣わされた天使だ。
(……だから、いつか目が覚めてしまうのではないかと思ってしまう)
天使はいずれ天に帰る存在だ。いつか彼女が消えてしまうのではないか、この幸福は夢なのではないか——そんな不安が、アーヴィングを苛んでいる。
不安に苛まれるたび、アーヴィングはハリエットを抱き締めて、彼女が夢ではないことを確かめているのだ。
だが、今こうしてハリエットに向けて広げられた腕を見て、彼女は「ああ! ごめんなさい!」と言いながら、クロちゃんを手渡してきた。
えっ、と驚きつつも、咄嗟の反応でクロちゃんを受け取って腕に抱き寄せれば、ハリエットは「えへっ」と笑って頭を掻く。
「さっきから、私ばっかりクロちゃんを抱っこしてごめんなさい! 独り占め、良くないですよね!」
「え、いや……」
「クロちゃーん、良かったですねぇ~! アーヴィング様に抱っこしてもらえて~!」
モゴモゴと口ごもっている間も、ハリエットはアーヴィングの腕の中でコロンと丸まっているクロちゃんを指で擽ってあやしている。
もうクロちゃんに夢中と言った感じだ。
目尻を下げてクロちゃんばかり見つめるハリエットを眺めながら、アーヴィングは心の中で「くっ……!」と悔し涙を流す。
(深淵の黒き炎【ダークフレイムオブジアビス】……!! 私は心底お前が羨ましい……!!)
最愛の妻の関心を独り占めにする、最愛のペットに嫉妬心を燃やしたアーヴィングは、クロちゃんを抱いていない方の手でハリエットの顎を掴む。
「こっちを見て、ハリエット」
いい加減、クロちゃんではなく自分を見て——そう言外に言って彼女の顔を覗き込めば、白い頬がサッと赤くなった。ハリエットが自分の顔に弱いことは、なんとなく気づいている。ようやく愛妻の意識を自分に向けられたことに満足して、アーヴィングはそっと唇を重ねた。
こうして麗らかな午後の温室に、甘い静寂が下りたのだった。