虹に似ている
駆けて、駆けて駆けて行く。振り返らずに、前を向く。
その先に、新しい世界が待っている。
雨がすじを作って降っていた。分厚い雲が垂れこめて、道の両側から張り出た木々は重苦しそうにうなだれている。そのなかを芦毛の馬が突っ切った。
馬上にいるのは一見ひとりだけだったが、その背の高い男の前には、ちょこんと小柄な娘が座っている。陰気な空模様とはうらはらに、娘はにこにこしていた。先ほど木のうろで休憩していた際に、わずかな晴れ間に虹を確認したからだ。
「ヨナシュ、見た?」
「何度も聞くな、見たに決まっているだろう」
「で、どう思った?」
「俺に感想を求めるな。あんなものは見飽きている」
「そうなのね。めずらしいものだと思っていたのに……。そういえばわたしね、お天気雨もめずらしいと思っていたの。けれど、雨季のアールデルスではよくあることなのですって」
「ミース、そろそろだまれ」
ぴたりと口を閉じたミースは、肩をすくめてはにかんだ。
ミースはヨナシュがそっけなくても気にしない。それがいつもの彼だからだ。変に愛想よくされたほうが、どうしたのかと不気味に思ってしまうだろう。それに、彼の真意がわかるのだ。ヨナシュは無駄なことはしないし、言ったりしない。だまれの言葉は、舌をかまないようにするための注意喚起なのだと知っている。
しばらく彼に従っていたミースだったが、駆けていた馬が常歩に変わるとまた口を開いた。
「ヨナシュにとって、虹ってどんな存在?」
「また虹の話か、くだらない。ただの自然現象だ。もう聞くな」
「わかったわ。聞かないようにする」
「以前おまえが雨を好きだと言ったのは、大方虹が目当てだろう」
ぱっと振り向いたミースは、目をまるくしながら彼を仰いだ。
「教えていないのにわかるだなんて」
「これだけしつこく問われれば、ばかでも気づく。なぜ虹ごときにはしゃぐ必要がある」
「虹は特別だもの。……そういえば、ヨナシュに似ているのかも」
鼻を鳴らした彼は、あきれたように「わけがわからない」とつぶやいた。
「また、いっしょに見られるといいわね」
ミースが言葉を付け足したのは、前に向き直ってからだった。
「ヨナシュ、生まれてくれてありがとう」
「なんだ唐突に」
それは、彼に出会い、側にいたいと願ってから思い続けていることだ。彼が死を望んでいるような気がしてから、いつか伝えたかった言葉。ようやく言えて満足だ。
「唐突でもいいの。だって、もしヨナシュがいなかったらと思うと、ぞっとするもの。すごく悲しい気持ちになる。だから、生まれてくれてよかった」
ミースは、悪夢を見る彼の苦しみを、少しでも薄められたらいいと思った。つらい過去の重荷が軽くなればいい。なにもかもを半分こして、いっしょに背負えたらいいのに。
──願いは口にすれば叶う。
「ねえヨナシュ」
切り出したものの、どう言い表していいのかわからず、ミースは唇をまごつかせた。悪夢に触れることは、彼の過去に触れること。それは傷をえぐるようなものだ。
うつむいていると、しびれを切らしたのか、彼のあごが頭にのせられた。
「おい、なんだ。呼びかけておいてだんまりか」
「あの……、その……」
「虫の羽音よりも小さくしゃべるな。びくびくせずに堂々としろ。言いたいことがあるんだろう、言え」
うなずいたミースはもそもそと唇を動かした。
「どうして虹は、雨上がりにしか現れないの? 色とりどりなのはなぜ?」
とたんに舌打ちが落とされる。
「また虹か、おまえというやつは。知るか、俺に聞くな」
ミースはうまくごまかせたことに、ほっとした。
ヨナシュはやさしい。ぶっきらぼうでも、彼の怪我している右の手は、つねにミースの小さなおなかにつけられている。ただ触れているだけだけれど、そのぬくもりに励まされていた。
空を仰いだミースは、黒ずんだ雲に、目に焼きつけた王城を描き出す。
アールデルスの王城を出てから半日が過ぎていた。特例などはない。ミースは二度と戻れないのだと理解している。首にあるぶち模様の貝殻だけが、父がいて、母がいて、そしてミースがいた証。古びた紐と貝殻は、一昨日、ばあやがひと針ひと針補強してくれた。
ミースは自身の手を見下ろした。雨が手を打つけれど、時折熱を持つしずくも混ざる。
じつのところ、雨がそのつど流してくれたが、ミースはたびたび泣いていた。母とばあやが心配でしかたがなかったし、母を刺してしまった感触は消えずに残ったままだった。
さみしさと、悲しさと、底が知れない罪悪感。苛まれれば、自然と背中がまるくなる。
──お母さま……。ばあや……。
母は言った。
〝好きなように生きて。永久に、祈るわ。あなたの幸せを〟
ばあやは言った。
〝ばあやはどれほど離れていても、生涯味方です〟
ミースはあふれる涙を、手の甲でぐいと拭って、ひとつうなずいた。
これまで幸せに生きてきた。これからも、幸せに生きてゆく。それが、母とばあやの願いであるかぎり。側にヨナシュがいるかぎり。せいいっぱい幸せをたぐり寄せ、かき集め、ヨナシュといっしょに生きてゆく。
おそらくヨナシュはミースの心の機微に気づいているのだろう。ミースが沈んでくると声をかけ、顔を上げさせる。
「寒くないか」
「ちっとも寒くないわ。ヨナシュは?」
「もうじきベレンセという村に着く。おまえに温めてもらう」
思わずまつげを上げたミースは、何度もまたたいた。
「もちろん温めてあげる。寒いの?」
「寒くなくても夫婦は温め合うものだ」
夫婦、の言葉にミースの頬にえくぼが浮かぶ。
「いっしょにぴったりくっついて、いろんなお話がしたい」
「くれぐれも虹の話はやめろ」
虹の逸話について語ろうと思っていたミースは、唇を尖らせる。
「わかったわ。……じゃあ、ヴェーメル教の神話は? ピム記はけっこうおもしろいのよ」
「やめろ。おまえ、夫婦なら他に語ることがあるだろう」
「例えば?」
「めんどうな」
ミースは彼の腕が痛まないよう、その手をそっと撫でさする。指先まで布が巻かれているから状態はわからないけれど、見るからに痛々しくてせつなさがこみ上げる。
「ねえヨナシュ……、痛い?」
「痛くないと言ったはずだ。もう気にするな」
「もしかして、雨で濡れると傷が染みるのではないの?」
「染みたりしない。おまえ、ここまでずぶ濡れになっておいていまさらだ」
「そうだけれど、でも……。わたしが晴れと雨の境目を見たがったばかりに。もとをただせばわたしのせいだわ」
「なにを言っている。おまえが見たがらなくても遅かれ早かれ雨には降られていた。ただ、これ以上遠くへ行くのは避けたい。じきに霧が出るだろう」
ヨナシュは正しい。辺りの木立は、心なしか色あせて見えている。
「ベレンセ村ってどんなところ?」
「さあな、行ったことはない」
「早く村に着いたらいいわね。ヨナシュはすぐに休まなくちゃ。わたしがいろいろするから。まずはひざまくらでしょ。侍女が言うには、それが夫婦の習慣なのですって。それから、ヨナシュの傷にお薬を塗ったり、布を取り替えたり、おひげを剃る練習をしたり」
「やめろ。おまえはこの上なく不器用だ」
自信を持って「そうだと思う」とうなずくと、彼は鼻で笑った。
「おまえには別の仕事がある」
「それって……」
「馬に餌をやれ」
ミースは不満げに唇を尖らせる。
「そんなの、にんじんをあげるだけじゃない。簡単すぎるし、もっとなにかしたいのに」
「気負うな。そのつど指示を与えてやる。──ああ、共に料理を作るのもいいだろう」
「料理? いま、料理って言った?」
振り向きかけると、彼に「前を見ていろ」とさえぎられる。
「俺の手はこのざまだ。癒えるまでおまえに手伝ってもらう必要がある」
「もちろん手伝うわ。わたしがヨナシュの手になってみせる。うんとがんばるから、なんでも言ってね」
こざっぱりとした小屋にたどり着いたのは、ずいぶん霧が景色を隠してからだった。ヨナシュが下馬したということは、ここがベレンセ村なのだろう。
馬のカスペルとともに残されたミースは、ヨナシュが周囲と小屋の内部を確認しているあいだに、あれこれ思いをめぐらせる。
妻の役目とはなんだろう。ヨナシュのためにできること。彼がミースにしてくれることはたくさんあっても、不器用なミースができることはあまりに少ない。彼は用意周到で、なにごとも先回りして終わらせる。ミースはそれに甘えて抱きついてきただけだ。
──わたしも先回りをするべきだわ。
決意とともに、さっそく荷物をまさぐって、にんじんを五本取り出したミースは、カスペルに食べさせる。終えれば、きょろきょろと辺りを見回しながら、食材になりそうな草や木の実やきのこを探す。採取はなにを集めればいいのかわからなくて不得意だけれど、続ければ、得意になれると思うのだ。
──ヨナシュも言っていたわ。『できるまでやり続けるだけだ。続ければ誰でもできるようになる』って。簡単にできないって言う人は、 すぐにあきらめてしまうから。できない人は、そうしてできないことが増えてゆく。そうはならない努力をしなくちゃ。
ヨナシュに褒められる自分や、彼が食べる姿を想像すると、採取の作業はみるみるうちにはかどった。ほどなくぱんぱんになった小さなかばんに、ミースはひどく満足した。
「おい、なにをしている。雨で地盤がゆるんでいる。じっとしていろと言っただろう」
馬のもとに立つヨナシュを認めて、ミースは得意げに駆けてゆく。彼にさっそくかばんを披露した。
「見て、いっぱいあるの。これでどんな料理ができる?」
「嫌な予感がするな。花がはみ出している。言っただろう、花は食べない」
「これはちがうの。見ていると気分転換になるでしょう? だから」
「必要ない」
めんどうそうにかばんの中身を確認したヨナシュは、即座にひっくり返してしまった。地面には、青色と緑色のきのこがぼたぼた落ちてゆく。最後に花と、どんぐりが転がった。
「なにをするの」
「努力だけは認めてやるが、おまえはなぜこうも毒きのこを選んで取ってくる。言ったはずだ。派手なきのこには毒がある。へびや蛙と同じ原理だ。あと、木の実をよく見ろ。虫食いだ」
「あの……、青色や緑色は派手なの?」
「話にならないほど派手だ。以前は赤、次は青か。懲りないやつめ。これからは、馬の毛色に近い地味なものだけを摘め。芦毛、青鹿毛、栗毛、鹿毛と、いろいろあるだろう」
「わかったわ、そうする」
役立たずだと思い知り、しょんぼりしていると、ヨナシュの腕に包まれて、片手で抱き上げられる。そのさなかに、彼に向けてささやいた。
「大好きよ」
「知っている」
この、〝知っている〟の言葉は、好きを返されているような気がして、ミースは聞くのが好きだった。彼から〝大好き〟と同じ言葉を返されるより、とてもいいと思うのだ。
いそいそとフードを下ろして唇を突き出せば、ヨナシュの口がそこにつく。キスをせがめば必ずと言っていいほど叶えてくれて、満足だ。
「……おい、あまり深くするな」
ミースは彼の唇をけんめいに舌で割り開こうとしていたけれど、素直にあきらめた。
「どうして?」
「どうしてもだ。数日は控えろ」
「数日っていつまで? いつからならいいの?」
ヨナシュが好きでたまらない。気持ちを抑えるのが大変だった。
「くだらないことを聞くな」
──ぜんぜんくだらなくないのに。
軽くあしらわれたミースは憮然としていたが、彼が歩きはじめると、すぐに気持ちを切り替えた。
ヨナシュが小屋に近づけば、ミースは片隅に樽が置かれているのに気がついた。なみなみと水が入ったそれは、雨水を溜めるためにあるらしい。通常、溜まった水は洗濯や洗浄に利用されるとのことだった。
小屋の扉にはきれいに花の模様が彫られていて、味気ない木板に彩りを添えていた。けれど、その飾り扉はミースには文字に見えていた。
「ここって、エフベルトの小屋なの?」
「やつからは狩猟小屋だと聞いている。──ああ、花の模様か。花文字といったな」
「花文字って呼ばれているの? 扉には、女王ローザンネ=サスキアの永久のしもべ、異端審問官の長エフベルト=コルネリスって書かれているわ。あと、聖典の文言も。〝くる日も、くる月も、慈愛と叡智は存在せり。空の風がやまぬかぎり、光あらん〟」
「オーステルゼの町でおまえが言っていたあれか」
ミースの胸は熱くなる。小さなことを覚えていてくれてうれしい。
「そうよ。わたし、お父さまのお話を、エフベルトにも聞けばよかった。お母さまからは聞いたのに」
「できないことを考えてもむなしくなるだけだ。やめておけ」
「そうね、そうするわ」
「その父がつけたというおまえの名前を、俺が呼ぶことはない」
うつむいたミースは、視線だけをヨナシュに向けた。
「それは、わかっているわ。わたしはミース」
「さみしくても我慢しろ。おまえには俺がいる」
「うん、ヨナシュがいる。……それに、これ」
ミースは自身の首につく貝殻をいじくった。
「この貝はお父さまが〝ミース〟って名付けたのですって。お母さまは、そのお名前をわたしにくれたの。だから、ミースという名前が好きよ。それにね、この紐はゆるめばいつもばあやが繕ってくれていたわ。ばあやはわたしが旅に出たいって知っていたから、長持ちするように、ていねいに直してくれたの」
「俺が切った部分も、もはやわからないな」
「そうなの。とても上手でしょう? ばあやは器用だもの。でも、もうお城には戻らないから、ばあやに直してもらえない。だから、これまで以上にうんと大切にするって決めているの」
「心配するな。今後は俺が直してやる」
「ほんとう?」と顔を上げれば、ヨナシュが鼻先を動かした。
「ああ。俺は意外に器用だ。少なくともおまえよりは」
「そうね、知ってる。じゃあ、もしかして檸檬水もできたりするの?」
「おまえ、俺にばあやの代わりを求めるな」
彼の口角が持ち上がる。ミースは無性に、その顔を見たいと思った。
そっとヨナシュのフードを取り去ると、白皙のきれいな顔が現れる。けれど、ところどころ殴られたために痣があるし、唇の端も切れている。ひげはばあやに剃ってもらったからないけれど、髪は手つかずのままだった。銀にも見える淡い金色のはずなのに、すすけているし、黒いものがこびりついている。おそらく乾いた血液だ。
手を伸ばして触れると、彼の眉がひそめられた。
「触れるな。おまえの手が汚れる」
「汚れないわ。……ねえヨナシュ」
ミースが言わんとすることを察したのか、ヨナシュはそっぽを向いた。が、しばらく黙ったあとで付け足した。
「俺の髪を洗ってみるか」
ミースは目をぱちくりさせた。
以前、洗髪してみたくてお願いしたが、すげなく断られた。そして、いまも洗いたいと頼むつもりだったのだ。
「洗っていいの? わたしが?」
「ああ、してくれるか」
それは、耳を疑う言葉だ。ヨナシュが皮肉屋でなく素直だ。うれしい。
ミースは緑の瞳をきらめかせて、元気よくうなずいた。
「もちろんよ。あの雨を溜めている樽の水を使うのでしょう?」
「そうだ」
いつも、小川や湧き水や雨を利用して髪を洗う彼を観察していたから、だいたい手順は把握している。ミースはいまこそ妻として役に立てる時がきたのだと張りきった。
「ねえヨナシュ、わたしを下ろして。で、ローブと上衣を脱いでほしいの。髪を石鹸でごしごしするから。──あ、あそこ。あの石がいいわ。あそこに座って」
「おまえ、やけに生き生きしているな」
「当然よ。やっとわたしの出番がきたのですもの」
めんどうそうに舌打ちされることも、嫌な顔をされることもなかった。ヨナシュは、指示どおりにミースを下ろすと、石に腰掛ける。そして、ローブを脱いでゆく。
ミースは、彼が上衣を脱ぐのを手伝った。顔同様に、布で巻かれた身体の皮膚も変色している。地下牢でよほどひどい仕打ちを受けたのだ。薄暗い独房ではなく、空のもと、ミースにありありと伝わった。しかも、明らかに痩せている。
「なぜ泣く」
彼の背後にまわっているのに、どうして泣いていることがわかるのだろう。ミースはぼたぼた涙をこぼす。
「だって……、ヨナシュが生きていてほんとうによかったって……お、思うもの。わたし……、見たの。知っているから」
いかに、異端審問官が残虐であるかを。
「ヨナシュが死んでしまうなら……、生きていたくない。そんな世界は、いや」
振り向いたヨナシュはミースの手をつかみ、自身の前に引き寄せる。腰に腕がまわされた。
「誓ってやる。おまえよりも先にくたばらない。おまえをひとりで逝かせない。俺もすぐに後を追ってやる。傷を見て泣いているんだろう? 俺は出征していた男だ。こんな傷、何度も受けたことがある。慣れたものだ。もう泣くな」
「……わたしが死んだら、ヨナシュは後を追うの?」
ぐずぐずな目で見つめると、彼の口が「ああ」と言う。
ミースが死んでもヨナシュには生きていてほしい。けれど、うれしく思ってしまう。ヨナシュが夫で、ミースが妻。それは、永久を約束されたかのようだ。
「俺の死生観はおまえと違う。間違いなく真逆だろう。人は肉の塊だ。死ねば消える。取るに足らない存在だ。生まれ落ちた瞬間に、死に向かって歩き出す。なにを成し遂げようとも残らず、生きているだけで苦痛を伴う。朽ちるためだけに生きている。死んだほうが楽だろう。だが、おまえを肉の塊だとは思えない時点で、俺の価値観など意味を為さない。魂など信じていないが、おまえを娶った以上、合わせてやる」
「わたしに合わせる……」
「おまえは決してひとりにならない。さみしいと思うひまなどない。身体が朽ちようとも俺がいる。言っただろう、幸せにしてやる。俺はおまえを死なせないために生きてやる。だから、二度と離れるな」
小刻みに、うん、と首を動かすミースの目から涙が散った。
「二度と離れない。ヨナシュ……。でも…………あの……、し、死んだほうが楽だとほんとうに思うの? 死にたいって思う? 生きているだけで、苦痛?」
「いまは思わない。生きる道を捨ててまで死を選ぶ価値などない」
「それって……」
「おまえとなら、生きる意味はあると言っている」
感極まって、がたがた震えるミースは、ひしとヨナシュに抱きついた。
「……ヨナシュ、大好き。愛してる」
「知っている。いいか、おまえは一度愚を犯している。夫を置いて勝手に城に行きやがって。ふざけるな。おまえの信用は地に落ちきっている。生涯をかけて挽回しろ」
「挽回するわ。約束する。わたしが、一生ヨナシュを幸せにする。あなたが生きていてよかったって、心から思えるようにがんばる」
大きな手に目もとを拭われ、ミースは鼻先をすんと持ち上げる。
「おまえはよく泣く。そのうち干からびそうだ」
「困ったことに、どんなに泣いても涸れないみたい。ちょっとは涸れればいいのに。……わたしをガキだと思う?」
「思わない。婚約した時からガキ扱いしていないだろう」
──そうかしら。出会ったころから変わらない気がするけれど。
もんもんと考えをめぐらせるミースが口を引き結んでいると、彼が言う。
「そもそもガキだと思っているなら結婚しない。俺は小児性愛者じゃない。ましてや、ガキと性交などありえないことだ」
「じゃあ、わたしをちびだと思っていないということね?」
「なにを言っている、おまえはちびだ。事実から目をそむけるな」
「そむけてないけれど……。じゃあ、ちびでも、少しは大人っぽいと思ってる?」
「思うわけがないだろう。鏡を見ろ」
──なによ、そんなのガキ扱いされているようなものだわ。
頬をぷっくりとふくらませたミースは、手に石鹸をこすりつけ、小さな指を彼の髪に差し入れる。以降、ヨナシュは目を閉じて、力加減をあれこれミースに指図した。
ヨナシュは妥協をゆるさない、完璧主義者だ。彼の髪を洗っている最中はだめ出しの連続で、とても苦労したけれど、最後は認めてもらえたようだった。ミースのなかに、とうとう彼の役に立てた充足感が広がった。
「わたし、うまくできた?」
「ああ。だが、おまえは歌を歌いすぎだ。なんなんだあの歌は」
「女神エスメイへの賛歌よ。ヨナシュが退屈しないように歌ってみたの。わたしが知ってる歌は、賛歌と子守唄しかないから……」
「無理に歌うな。めいわくだ」
石に座っていたヨナシュは立ち上がり、濡れた髪をかきあげる。その後、ミースを抱き上げた。
きれいになった彼の髪に満足し、ミースはにっこりはにかんだ。
扉に向かうヨナシュの首に手を巻きつけていると、ふと、頭によぎるものがある。
ヨナシュは、料理を共に作る提案をしてくれた。不器用すぎるミースに髪を洗わせてくれた。それは、以前雨やどりをした洞窟内でミースが告げた願いごとだ。少しでも役に立ちたいと、彼に訴えた願いごと。
腕が折れていても、彼は着替えることができたし、ミースを乗せて馬まで駆っている。ミースが関わるいずれのことも、彼がひとりでできないわけがない。むしろ、ミースは足手まといになっている。それでも彼は、さりげなく手を差し伸べてくれている。
「……ヨナシュ」
ミースの顔を覗いた彼の眉間にしわが寄る。まるい頬に次々と涙が滴っているからだ。
「今度はなんだ、泣く理由を言ってみろ」
「わたし、わかってしまったわ。願いを叶えてくれているのね」
「なんの話だ」
彼は知らないふりを決めこむようだが、ミースは確信に近かった。
「やっぱり、ヨナシュは虹みたい」
「言うに事欠いて、また虹か。しつこいちびめ」
あきれた顔で、ミースを下ろして小屋の扉を開けたヨナシュは、あごをしゃくって入るようにうながした。けれど、ミースは彼の腰に手を回し、ひたむきに彼を仰いで動こうとはしなかった。
「なんのつもりだ」
「どうして虹に似ているって言うのか、理由を聞かないの?」
「どうせくだらないことだろう。早く入れ。料理を作らないのか」
「もちろん作るけれど」
「おまえというやつは、世話がやける」
ミースは有無を言わせず、ヨナシュにひょいと抱えられる。拒否されても、かまわず理由を話し出したのは、ふたりの視線が交わってからだった。ミースは彼の青い瞳を見つめるのが好きなのだ。
「あのね、虹を見ればうれしくなるし、元気になるわ。晴れ晴れしい気持ちになる。思い出すだけで胸がぽかぽかしてくるの。虹は、空がくれる贈り物。ヨナシュもそうなの。見ているだけで幸せになるし、いっしょにいるだけでうれしくなる。いつでも誇らしいと感じているの。わたしにとって、ヨナシュは奇跡。……ほらね、ヨナシュと虹は似ているでしょう?」
「よくしゃべる」
ヨナシュが小屋のなかに入ると、その瞬間、ミースは身を乗り出して、油断している彼の唇に口を押し当てた。驚く彼の隙をつき、唇のすきまに舌を差し入れる。
好きだから、唇どうしを合わせたい。好きだから、ヨナシュを深く感じていたい。
舌と舌が絡みあう。雨の音のあいまに、ぴちゃぴちゃと音が立っていた。むさぼり、むさぼられて、食みあった。ミースもだけれど、ヨナシュの吐息が荒さを増して、喜びがせりあがる。
「好き」
「……おまえ、あれほどやめろと」
「深い接吻のこと? でも……大好きだもの。苦しいくらいに大好きよ」
至近距離でささやけば、観念したようにヨナシュが言う。
「知っている。おまえというやつは」
彼が長い足で扉を小突くと、きしみをあげて閉じてゆく。完全に閉まりきる前に、ふたたびふたりの口が重なった。