お父さんが泣いていい日
まさか、急ぎの仕事で麓の街の商人に原石を届けている間に、マリカが産気づくとは思わなかった。
追ってきた村人に『大変だよマイアーさん、もうすぐあんたんとこの赤ん坊が生まれるよ』と知らされ、アデルは客との会食を断り、慌てて自宅へと馬を急がせた。
麓から鉱山の村へはどんなに急いでも半日はかかる。
安全な出産などない。だから絶対に付き添う予定だったのだが、まさか予定が十日も早まるとは。上の二人が予定通りに産まれたので油断していた。
――早産だったのかな。マリカと赤ん坊は大丈夫か……それに子供たちも急なことで不安がっていないだろうか……。
家に着いたのはもう辺りが真っ暗な時間帯だった。
窓からは明かりが漏れ、玄関の扉が開いて女たちが出入りしているのが見えた。馬を繋ぎ、慌てて玄関に駆け寄ると、布の塊を抱いた近所の主婦が笑顔で言った。
「赤ちゃんは無事に産まれたよ、おめでとう。ちょうど、うちの子の使わなかったおむつを差し入れに来たところ」
アデルは頭を下げて布の塊を受け取る。何度も水にさらした綺麗な綿だ。落ち着いたら礼をしなくてはと思いつつ、アデルは家に入った。
寝室から赤ん坊の泣き声がしてくる。
アデルの気配に気付いた産婆が顔を出し「おかえり、昼過ぎに元気に生まれたよ」と言った。安堵のあまり、アデルは大きく息を吐き出す。
「部屋には手と顔を洗ってから入るようにね。麓の街で疫病を拾っていたら、赤ん坊と嫁さんが死んじまうから」
「はい」
アデルは言われたとおりに、くみ置きの清水で手と顔を念入りに洗った。
飲用可能な共用井戸の水で、土が付いた手や顔は、必ずこの水で洗うようにと領主から指導されている。
曰く、異なる文明を持つ遙か東の国々では、水で毎日手洗いをするのが習慣らしい。その際に手に塗る薬液もあるのだとか。疫病の悪魔は清らかな水と、汚れ落としの薬液を嫌うのだそうだ。
ロカリア王国ではあまり馴染みのない『手洗い』だが、東の商人たちが持ち込んだこの習慣のお陰で、村では流行病が起きにくいと領主は言っていた。
――確かに土が付いた傷は膿むからな……見えない疫病の悪魔はそこらにいるのかもしれないな。
手と顔を清めたアデルは、産婆に指示されたとおり汚れた上着を脱ぎ、寝室に入った。
部屋はふんだんに火が焚かれて暖かく、寝台にはマリカと赤ん坊が横たわっている。泣いていた赤子は今は眠っているようだ。
「お帰りなさい、見て……つるんと産まれてくれた親孝行の男の子よ」
アデルの姿を認めたマリカが、横になったまま笑いかけてきた。
細い手を、赤ん坊の胸の辺りでとんとんと上下させている。おくるみからはみ出した赤ん坊の髪の毛は、姉二人に似た茶色だ。その髪の色を見た刹那、待望の三人目が無事に産まれたのだと実感でき、身体の力が抜けた。
「ただいま……無事でよかった……大変なときに一人にしてごめん……」
「ううん、いいの。私も今日生まれると思ってなかったわ。貴方を送り出したら急にお腹が痛くなって、あっと言う間に出てきちゃったの。この子、お父さんをびっくりさせたかったのかしら。私に似て悪戯っ子なのかも」
マリカが優しい笑顔で、生まれたばかりの赤ん坊の頭を撫でた。
アデルも身を屈めて、初めて見る息子を覗き込む。
――可愛い子だ……まん丸で……。
口元をほころばせ、アデルはそっと生まれたばかりの赤ん坊を抱き上げた。久しぶりに感じる尊い重みだ。
「お父さんが抱っこしてくれているのよ、分かる?」
マリカの愛おしげな声に気付いた様子もなく、赤ん坊はすやすやと眠っている。
「月足らずなのかと心配したけど、大きいな。セティアより大きい気がする」
そう言ったとき、産婆が歩み寄ってきて笑った。
「ちゃんと元気に生まれたから安心しな。大事に育てるんだよ。じゃあ私は帰るから、何かあったらすぐに呼んでおくれ」
「ありがとうございます」
アデルは頷き、息子の小さな小さな顔をもう一度覗き込む。
「ねえ、この子、ミリアムに似てると思わない?」
「ああ……似てる。君に似てるんだ」
幸福感が胸に満ちてきて、アデルは赤ん坊の額に口づけた。
ニコニコしていたマリカが、そのときはっとしたように起き上がった。
「そうだ! ねえ、アデル、子供たちを山羊牧場のお家に迎えにいってくれる? 急に産気づいたから、奥さんが預かってくださったの」
そういえば娘たちの姿を帰ってから一度も見ていない。アデルは慌てて頷いた。
「分かった、すぐに迎えに行く」
アデルは起き上がったマリカに赤ん坊を抱かせ、慌てて隣の山羊牧場に走った。
――隣とはいえ遠いな……!
林を抜けて走ること数分、大きな山羊牧場の傍らに立派な家が建っているのが見えた。
その家から、幼い女の子の泣き声が聞こえてくる。
山羊牧場の子供たちはもう大きく、夫妻にとってミリアムとセティアは孫のような年齢だ。
手が掛かる幼子二人を見るのは、さぞ大変だったに違いない。
アデルが扉を叩くと、ぬいぐるみを手にした牧場の主人が現われた。疲れきった顔をしている。心から申し訳なくなり、アデルは深々と頭を下げた。
「申し訳ありません、無事三人目が産まれまして、娘たちを迎えに来ました」
「おお、それはよかった……ただセティアちゃんが泣きやまなくて……お人形で遊んでやってもダメで……泣かせっぱなしで申し訳ないね」
主人に案内された居間では、奥方に抱かれたセティアがよれよれになって泣き続けていた。その傍らには、ミリアムが途方に暮れたように佇んでいる。
セティアの疲れきった顔を目にした瞬間、涙が出そうになった。
どれだけ長い時間ああして泣いていたのだろう。声が嗄れきっているではないか。
ミリアムと違い、セティアはまだ人に預けたことがない。両親が側にいない経験をしたことがないのだ。
訳も分からず母と引き離されて、大人しいセティアはどれだけ不安だったのだろう。
――赤ん坊が産まれることもまだよく分かっていないからな……三つだし。
そう思いながら、アデルは奥方とセティアに歩み寄った。
「ほら、セティアちゃん、お父さんがお迎えに来たよ。ちゃんと来たでしょ、大丈夫だからね」
目の下にクマを作った奥方が、抱いていたセティアをアデルの腕に預けた。
――ずっとあやしていてくださったのか……。
セティアは可哀想だし、くたびれきっているご夫婦には申し訳ないし、本当に心が痛んだ。
しがみつくセティアをあやしながら、アデルは三人目が無事に産まれたことを改めて告げ、何度も夫婦に頭を下げる。
「いいえ、赤ちゃんが無事産まれてよかったわ。落ち着いたら赤ちゃんを連れて遊びにいらしてね」
人のいい夫婦は文句も言わずに娘たちを引き渡してくれた。
「マイアーさんは麓から来た山羊泥棒を何度もとっ捕まえてくれただろう、うちもお世話になってるからお互い様だよ」
夫婦に見送られ、アデルはセティアを抱き、ミリアムの手を引いて林の道を歩き始める。
セティアは両手両脚でアデルにしがみついたまま寝てしまった。どんなに不安で寂しかったのかよく分かる。
「ごめんな、お迎えが遅くなって」
アデルの言葉に、ミリアムが無言で首を横に振る。こちらも元気がない。
「どうした、ミリアム。どこか痛いのか?」
「……あのね、わたしお姉ちゃんなのに、セティアを泣きやませられなかったの」
けなげなミリアムの言葉に、アデルの目に涙がにじんだ。
「いいんだ、セティアはまだ小さいからしょうがない」
「でも、ずっと泣いてた……おとうさん、おかあさんって泣いてた。ごめんねセティア……お姉ちゃんじゃダメだよね……」
ミリアムが小さな拳で目元を拭う。
しっかり者とはいえ、ミリアムだってまだ幼いのだ。
大事な妹がずっと泣きやまなくてどんなに心配だっただろうか。そんなときに父も母もいなくて、さぞ不安だったに違いない。
――そんなことを言われたら、お父さんまで泣いてしまうだろう……。
アデルは目に涙をにじませ、愛する娘に言った。
「ごめんな、ミリアム……偉かったな……留守番させて悪かった……」
「おどうざんはわるぐない……わだじもえらぐない……セティア泣かせちゃった……」
「いや、偉いよ……お前はいい子だ」
「おどうざぁぁぁん……」
アデルとミリアムは共に啜り泣きながら家に帰った。
ぼろぼろ泣きながらミリアムに手を洗わせ、眠っているセティアを起こして同じく手を洗わせ、顔を濡れた布で拭う。
そして三人でマリカの待つ寝室に入った。
マリカが泣いているアデルとミリアム、それから泣きすぎて顔がパンパンのセティアを見て目を丸くする。
「三人ともどうしたの?!」
マリカの目はアデルを凝視していた。
幼い娘二人がぐずっているのはまだしも、なぜアデルまで泣いているのか、という顔だ。
「うちの子たち……頑張って留守番したんだ……」
そこまで言って、胸がいっぱいになり、アデルは袖で顔を拭った。
今日一日の娘たちの頑張りを思うと、どうにも涙が止められない。
そのとき、泣きやんだミリアムがアデルから手を離し、マリカのところへ駆けていった。
「お母さん、お腹痛い? 大丈夫?」
――えっ? もう泣きやんでいるのか?
けろっとした声だ。数秒前まではアデルと一緒に泣いていたのに。
続いて、泣いて泣いて消え入りそうだったセティアも、姉を追いかけて母の寝台に飛び乗る。
「おかあしゃん、いたいの……へいき……?」
娘たちに囲まれたマリカが嬉しそうに笑い、娘二人に交互に口づけして、腕に抱いている赤ん坊を二人に見えるよう抱き直した。
「お腹はまだ痛いわ。でも貴女たちがいい子にしてくれたらすぐに元気になれると思う。ほら、見て……可愛いでしょう? この子が貴女たちの弟よ……お父さんが泣きやんだら名前を考えてくれるって」
妻子の視線が集まるのを感じ、アデルは慌てて再度目元を拭う。
子供たちの立ち直りが早すぎてついていけない。自分は妻子が無事揃った光景を見てまた涙が溢れてきたというのに。
「お父さん、赤ちゃんの名前は何にするの?」
ミリアムに冷静な声で尋ねられ、アデルは目元に自分のハンカチを押し当てた。
「そうだな……ちょっと待って……候補はたくさんある、でも今は決められない……」
「じゃあ私が決めてあげる。早く赤ちゃんの名前呼びたい!」
ミリアムは賢い。わずか六つにして非常に合理的なのだ。早く可愛い弟に名前を付けてあげたいから、泣いている父に任せず自分で決めようと思ったのだろう。
しかし新婚当初マリカに約束したのだ。
『赤ちゃんの名前は全部アデルが付ける』と。
この約束は娘にも譲れない神聖なものだ。最愛の妻に必ずそうすると誓ったのだから……。
「お父さんが決めるから待ってくれ……六年前はお父さんが一人でお前を迎えたんだ。だから懐かしくなってしまって」
泣き続ける父に呆れたように、ミリアムが寄ってくる。
「じゃ、ちょっと休憩、休憩」
普段のマリカの口ぶりそっくりだった。マリカがぷっと笑い、アデルは娘の成長ぶりにますます涙を流す。
「はい、座って。お父さん」
ミリアムはアデルの手を引き、マリカの寝台の端に腰掛けさせてくれた。
そして、ぐしゃぐしゃになったハンカチでアデルの顔を拭きながら、「大丈夫?」と尋ねてくる。
ハンカチは湿っていて汗臭かった。二人の娘の臭いがする。
ミリアムはきっと、お留守番の間、セティアのこともこうやって泣きやませようとしたに違いない。
――どうしてこんなにいい子でしっかり者なんだ……お前だってこの前まで赤ちゃんだったのに……。
そう思ったらまた泣けてきた。今日はダメだ。本当に涙腺が壊れたようだ。
「お母さぁん……お父さんが泣きやまないよ……」
途方に暮れたようなミリアムの言葉に、マリカが明るい声で答えた。
「いいの。今日はお父さんが泣いていい日なのよ。赤ちゃんの名前は、お父さんが泣きやむまで待ってね」