罪人の幸せ
ユーウェインは重みのある金の指輪を見つめ、掌の上で転がした。
先日、養父であり義父でもあるクラレンス公爵から譲り受けたそれは、贅沢に黄金を使い、王家の紋章が刻まれている。
装飾品と呼ぶよりも、身分を保証するための品に近い。偽造するにはあまりにも細工が細かい意匠は王家専属細工師の手によるもので、銘も刻印されている。かつ嵌め込まれたルビーは国宝の一つだった。
いずれ殺されるだろう我が子を生かすため、手放すことを決めた父と母。一切関係を断ち、生涯関わらないと決意しながらも、ユーウェインが『我が子』である証を残さずにはいられなかったらしい。
宰相の手で秘かにクラレンス公爵家へ運ばれたユーウェインと共に、この指輪は託された。
『我が友でもあった先々代国王様から、この品と君を預かったんだよ。もしも必要になる時がくれば、渡してほしいと頼まれてね』
どこか飄々としたクラレンス公爵は、ユーウェインが先王の嫡子であると名乗りを上げ、王位を継いだ後、これまでの接し方とは違い臣下として振る舞おうとしてくれた。だがそれを断ったのは自分の方だ。
どうか今までと同じように接してほしいと懇願し、聞き入れてもらっている。
自分にとって父と呼べるのは、やはりクラレンス公爵をおいて他にいない。たとえ、実の父親が誰なのかを知った今でも。
プロツィア国先々代の国王は、数多くの子をもうけながらも、その大半は成人することなく命を落とした。正妃であったルクレティアにより、秘密裏に殺されていたためだ。
特に身分の低い側妃が産んだ子など、後ろ盾もなく簡単に暗殺されてしまう。それを恐れた父は、せめて一人くらい息子をどうにかして無事に生かしたいと望んだらしい。
万が一王太子に何かあった場合、息子が他にいなければ無能な甥や従兄弟が玉座に座り、国が乱れかねない。もっと悪ければ、正妃ルクレティアの母国にいいように呑み込まれてしまうだろう。
親子の名乗りを上げず、二度と会わないことでしか我が子を守れなかったのは、皮肉としか言いようがない。
その上二十年以上経って、クラレンス公爵の娘であるリアナがロードリックの花嫁に選ばれ、その護衛騎士として何も知らない息子が現れようとは、流石に父自身にも予測がつかなかったのではないか。
運命とは時に残酷だ。
ユーウェインが実の父と顔を合わせた回数を数えるには、片手の指で足りる。そのどの機会も言葉を交わすことは勿論、視線を合わせることもなかった。
当然だ。一国の主と皇太子妃の護衛騎士では、許しもなく直接尊顔を拝むことすら身分が違いすぎて不敬に当たる。
故に、ユーウェインには父親と再会したという認識すらなく、もっと言えば何の感慨も抱いてはいなかった。当時のことを思い返してみても、これといった印象すらない。
その上感傷に浸れるほど父のことを知らないユーウェインは、残された唯一の形見である指輪を見つめることしかできなかった。
―――私は情が薄いのかもしれない。
こうして実の両親について考えてみても、悲しみや愛情を感じず、どこか他人事のようでもある。勿論クラレンス公爵へ自分を預ける決断をしてくれたことには心から感謝していた。
それがなければリアナに出会うことも、彼女を手に入れられることもなかったはずだ。幼いうちに王宮で暗殺されていたか、無事に生き残ったとしても、ロードリックと結婚させられたリアナを遠くから眺めるしかなかったに違いない。
―――まるで運命の悪戯だ。本当なら、私が父と同じ椅子に座ることはあり得なかった……今の私を見たら、父と母はどう思うのだろう?
両親へ親しみは感じないけれど、今まで欠片も思いを馳せてこなかった実の親について、最近よく考える。それは間違いなく、ユーウェインが愛しい我が子を持ったせいだ。
リアナと正式に婚姻し、息子が生まれ、心境に変化が生じたのは否めない。全く興味もなかった両親について、こうして思いを巡らせる程度には、ユーウェインは変わったのだと思う。
それとも、人としてあるべき姿を思い出したと言うべきか。
愛しい人を守るために、自ら堕ちることを選んだ男であるが、大切な家族に対する愛情に嘘偽りはなかった。
「―――失礼いたします、ユーウェイン様。少し休憩しませんか?」
束の間物思いに耽っていたそのとき、愛してやまない妻のリアナが執務室に顔を覗かせ、花が開くような笑みを浮かべた。その瞬間、やや重苦しさを伴っていたユーウェインの追想はプツリと途切れる。
あっという間に頭の中は、リアナのことで一杯に満たされた。
「勿論、貴女の誘いなら、いつでも喜んで」
「お邪魔でなければ良かったのですが、とても美味しいお菓子があるのです。せっかくだから貴方と食べたいと思って……」
どうやら息子は昼寝中らしい。その隙に彼女はユーウェインと二人で過ごそうとしてくれていると察し、柄にもなく胸がときめいた。
もう結婚して数年になるのに、未だにリアナは初々しく愛らしい。いつだって微笑み一つで自分の鼓動を乱させる。
しかしだらしなく相好を崩すわけにはいかず、ユーウェインは優雅に唇で弧を描いた。
「遠慮する必要はないのに」
「お仕事中に、手を止めさせるわけにはいきませんもの」
リアナをソファーへ座らせ、ユーウェインは持っていた金の指輪を執務机の引き出しにしまおうとした。だが一瞬早く彼女が眼をとめる。
「―――あら? それは……」
「……ああ。私の実父が唯一残してくれたものです。先日、クラレンス公爵から受け取りました。本来ならこれが私の手元にくることを、父も望んではいなかったでしょうね」
ユーウェインがこの指輪を受け取ること―――それはすなわち、命が危ぶまれる危機に陥ったか、国を揺るがす何かがあったということだ。
何も問題がなければ、指輪は今もクラレンス公爵邸のどこかでひっそりと眠っていたに違いない。だからこそ侯爵も、すぐにユーウェインに渡そうとしなかったのではないか。
―――ようやく色々なことが落ち着いて、私が冷静に向き合えると思ったからこそ、手渡してくれたのだと思うのは、考えすぎだろうか……?
父の託した指輪を持ち出した際、昔を懐かしむように眼を細めたクラレンス公爵を思い出し、ユーウェインは緩く息を吐いた。
公爵は、娘の幸せを心から願っている。そのためには、余計な権力争いに巻き込まれることを、望まないだろう。一つ何かを誤れば、命を落としかねないのが王宮という恐ろしい場所だ。
今でこそ平和が築かれているものの、少し前まではまだまだ危険な芽が幾つもあった。
「……とても大切に保管されていたのですね。けれどお父様ももっと早く貴方に返してくださったらよかったのに。そうすれば……」
「いいえ。これを持ち出すことなく平穏であることが、きっと皆の願いだったと思います」
リアナ自身も指輪の存在によって何が変わったとは言い切れないのだろう。彼女の言葉尻は、声になることなく曖昧に溶けた。
ルクレティアが暴走することがなければ。ロードリックがあそこまで愚かでなければ。民が犠牲になることがなければ。仮の話をしても仕方がない。けれど辛い思いをしたリアナは、口にせずにはいられなかったのかもしれない。
「……そうね。貴方の言う通りだわ。それにユーウェイン様が一番苦しい思いをしたのだもの……ごめんなさい。生まれてすぐに家族と引き離されるなんて、辛いに決まっているわ」
「リアナ様……」
どんな時にでも、まず自分を案じてくれる彼女に愛おしさが募り、ユーウェインの胸が締め付けられた。だからリアナに心惹かれてやまないのだと、改めて思う。
この人のためならば何もかも犠牲にして惜しくない。
誇りも命も、全て。どんな至宝であっても、彼女と価値を比べることすらできない。それが玉座であっても同じこと。
ユーウェインにとって、今座っているこの場所は、リアナを得るために必要だったから奪ったものにすぎなかった。父の形見とも言える指輪に対して、さしたる愛着が持てないのと変わらない。
もしも失ったとしても、大した痛痒を感じないだろう。
「……でも、よかった……やっぱりユーウェイン様は、先々代の国王様とお義母様に愛されていたのね」
「……え?」
金の指輪をじっと見つめていたリアナがふと漏らした言葉に、ユーウェインは首を傾げた。
確かに、むざむざと死なせたくない程度には気を配られていたと思う。だが所詮は身分の低い側妃の子。しかも数多いる内の一人にすぎない。だからこそ秘密裏に外へ出すこともできただけだ。
これが力のある家柄の側妃が産んだ赤子なら、ルクレティアに眼をつけられて難しかったに違いない。
または王位を継ぐ可能性のある子として、王宮の奥で大事に育てられたはずだ。
「父の気まぐれだと思います。相当に好色だったと聞いていますし、子どもの一人ぐらい外に出しても構わないと考えただけではありませんか?」
多少の情はあっても、『愛されていた』というのは、やや違和感がある。本当に大事に思っていたら、他に方法はあった気がする。
愛しているなら傍にいたい―――それが、ユーウェインの考えだった。
「……傍にいることも、愛情です。けれど離れることでしか守れないものもあると思います。私、母になって初めて気がついたことが幾つもあります。その中で最も痛感しているのは、我が子と引き離される苦痛は、想像を絶するということです。まして、生まれて間もない赤子を手放さなければならないとしたら……どれだけ辛かったのか、考えたくもありません」
立ち上がったリアナがユーウェインに近づいてきて、そっと手を重ねてきた。ユーウェインの掌には指輪がのせられたまま。自然と、二人で指輪を包み込む形になった。
「我が子を守るために生涯会わないと決めるのは、身を引き千切られる苦痛だったでしょうね。誰にでも下せる決断ではありません。ですから、この指輪に込められた思いは、とても切実で大きなものです。他には何も持たせずユーウェイン様を私の父に託したのなら……この指輪一つで全てが伝わると信じたかったからではありませんか? 何も預けず、秘密を全て闇に葬ることもできたはずですもの。でも、それをしなかったのは、か細い繋がりを完全に断つことができなかったからだと私は思います」
じっとこちらを凝視する彼女の眼差しは、至極真剣だった。
眼を逸らすことも、軽々しく否定することもできない。心のどこかで、リアナの言葉に頷いている自分がいるからかもしれなかった。
ユーウェインには、己が両親に愛されていたという感覚がひどく希薄だ。
育ての親であるクラレンス公爵夫妻には心から感謝しているが、心底甘えられたわけではない。やはり他人であるという認識が拭い去れないためだろう。
そんな心の穴に、リアナの言葉が温かく響いた。
言われて初めて、『嬉しい』と感じている自分に気がつく。
もはや当事者はおらず、確認しようがないのなら、真実は彼女が語ったものであってほしいと本心から思えた。
「ああ……」
ユーウェインの父である先々代の国王は、御しきれない正妃の思惑によって、約二十年ぶりに現れた我が子を前に、いったい何を思ったのか。確かめることはもはや不可能だ。
一言も言葉を交わすことなく、父は逝ってしまった。あまりにも呆気なく。
母に至っては、顔すら分からない。肖像画の一枚も残されてはいないからだ。
けれどリアナの言葉を聞いて、ひょっとしたら両親と自分は似ているとユーウェインは思った。
我が子を手放し、遠く追いやることで守ろうとした父と母。対してユーウェインは、血の涙を流しつつ愛する者の傍に居続けることを選んだ。
形は違えど、『どんな手段を使ってでも守りたい』気持ちは同じだ。そういう点で、ユーウェインは初めて両親へ親近感を抱いたと言っても、過言ではなかった。
「私は……望まれて生まれた子どもだったのでしょうか……」
「当たり前です。私の父も母も貴方を大事に思っています。そして私と息子にとって、ユーウェイン様以上にかけがえのない方はいません。貴方がいなければ、私は今こうして生きてはいられないでしょう」
リアナの心情の籠った言葉が、ストンと胸に落ちる。
ずっと遠かった両親との距離が、突然縮まった気がした。
握っていた金の指輪が、ひどく宝物のように感じられる。自分にとって『守りたい大事なもの』が、一つ増えた瞬間だった。
―――リアナ様は言葉一つで、私をいとも容易く救ってくださる……
己のものにできるなら、正気を手放しても構わないと思えるほど、欲してやまない人。こんな愛しい存在に出会えたことは、奇跡としか言えない。
その機会を与えてくれたのならば、過酷な運命も喜んで受け入れられるとユーウェインは思った。