幸せな日常
妃翠が大雅と出会ってからちょうど一年が経過した。
大雅曰く、この日は結婚記念日ならぬ番記念日なのだとか。彼は数日前から張り切ってワインや食材を用意していた。
大雅が月に一度都内にあるオフィスと島を行き来するたびに大量のお土産（主に食べ物）を持って来てくれるのが楽しみではあるが、一昨日戻ってきたときはいつも以上に量が多かった。まさか大雅が番記念日などを考えていたとは思わず、妃翠は内心かなり驚いた。自分はすっかり忘れていたのだが、正直にそんなことを明かせるはずもなく。『覚えていてくれて嬉しい』と彼に抱き着きながら心の中で謝罪したのは秘密だ。
雲一つない青空と穏やかな海を眺めながら、妃翠はサーフィンをしに出掛けた大雅を探す。大雅はすっかり島での暮らしを気に入り、マリンスポーツにハマっていた。この一年で肌もこんがりと焼けて以前よりも健康的に見えるし、顔がいいのでよりワイルドな魅力が増したようにも感じられる。
砂浜に下りるとすぐに、波乗りをする大雅を見つけた。ちなみに妃翠は日に焼けると肌が赤くなるので、長袖のパーカーと帽子に日焼け止めクリームが欠かせない。
ここは皇家が所有するプライベートビーチのため人目を気にせず水着になれるのだが、妃翠は日が暮れた後も肌の露出をしない。大雅に水着姿を見られてニヤニヤされるのも気恥ずかしいし、水泳は得意ではないのだ。
「それにしても早いなぁ……。大雅と出会ってもう一年になるのか……」
パラソルの下で涼みながらこの一年を振り返る。
大雅と番になって入籍して、彼の祖父が所有する島での暮らしを始めるまでは慌ただしかったが、幸い島暮らしにはすぐに順応した。穏やかに過ぎる時間が心地よくて、少しずつオンラインで習い事をしたり家庭菜園を始めたりと、新しいことに挑戦できている。
人目を気にしなくていい環境というのは、妃翠にとって一番ストレスがかからず居心地がいい。この島暮らしを始めさせてくれて、大雅と彼の祖父にはとても感謝している。今では人の多い都会には戻れそうにない。
この一年で新たにΩが発見されたという報道はないが、Ωを取り巻く環境は変わりつつあった。まず年内にもΩの重婚を禁止する法案が可決されそうなのだ。Ωの重婚は人権の観点で大きく問題視されたため予想以上に動きが早かったのかもしれない。もちろん国外へのアピールもあるのだろうが。
――もしかしたらこれでΩが見つかりやすくなるかもしれないという思惑もあるんだろうけど、どうだろうね……。人権問題が改善されるのはいいけど、私みたいな突然変異で苦しむ人は現れてほしくないな……。
Ωを取り巻く環境は依然として厳しいままだが、少しずつ呼吸がしやすい世の中になってくれたらいい。
そんなことをぼんやり考えつつ手元にあったスマホを弄る。すると予想外のニュースが目に飛び込んで来た。
「た、大雅―！」
妃翠は思わず立ち上がって大雅を呼んだ。ちょうど彼も一休みするところだったのだろう。サーフボードを片手に砂浜を歩いている。
片手で濡れた前髪をかきあげる姿が相変わらず様になるなと思いながら、妃翠は持っていたスマホの画面を彼に見せた。
「どうした妃翠、まさか百瀬隼翔から連絡でも入ったか」
「え？ ううん、違うよ。これ見て、俳優の藍沢君が結婚したって報道が出ててびっくりしちゃって。ほら、この間のドラマで共演していた女優さんと電撃結婚だって」
藍沢とは、妃翠に求婚してきた著名人のひとりだ。
――大雅とあのホテルから逃げた後、どうなったのかわからなかったけど……よかった。ちゃんと幸せになれて。
自分のことを思い続けられたら困るし、きっぱり諦めてくれたことに安堵する。きっとΩの重婚が禁止される方向に向かっていることも、彼が吹っ切るためのきっかけとなったのだろう。
「ほう、α同士の結婚か。無難なところに収まったな」
大雅のクールなコメントには祝福の色は見えない。
「まあ、これで妃翠に近づく可能性が消えるならいい。見合い希望をしてきた男たちの中で、未だに恋人を作っていないαは三人残っているが、そのうち二人は海外に拠点を移しているしな」
「え、なんでそんな個人情報を知ってるの？ まさかずっとあの人たちの情報を収集してたの？」
「当然だろう。もう俺たちに関わらないと確信できるまでは動向をチェックしておかなければ安心できない」
――知らなかった……。
危険人物認定をしている百瀬隼翔に対してならわかるが、その他の人間にまで範囲を広げていたとは思ってもいなかった。きっとまだまだ妃翠には隠していることが多いのだろう。
「ちなみに残りのひとりは隼翔君？」
「ああ、ここ一年は大人しくしているが油断はできねぇな。さすがに無茶な行動はしないだろうが。……まあ、そんな男のことなんてどうでもいい。そろそろ今夜の準備を始めるか」
「え、もう？ まだ十五時過ぎだけど」
大雅に手を握られる。
泳ぎ足りないのではないかと思っていたが、機嫌よく家に帰ろうとしていた。
「今朝釣ってきた魚はアクアパッツァにでもするか。ちょうどアサリもあるし、いい出汁がとれそうだ。ワインは冷やしておいたから大丈夫だろう。この間買ってきた食材でつまみを作って、ピザ釜でピザも焼こう。なにをのせたい？」
「なにのせてもおいしいから、庭で適当に採ってくるよ。アボカドとトマトときゅうりと、ナスも収穫できるかな」
妃翠が家庭菜園として育てているのは初心者でも育てやすいトマトやきゅうりが多い。元々この家の庭には数々の果物の木が育っていた。まさか庭でアボカドやレモンなどが採り放題だとは思わなかったので、発見したときは歓喜したものだ。
外食はできないし、映画館や流行りのスイーツもなければ、週に一回しか本土からの船が来ない。物資もなかなか入ってこないが、妃翠は今の暮らしに満足している。時折顔見知りの島民から収穫した野菜を分けてもらえることもあるし、近すぎない距離感がちょうどいい。
島内にはヘリポートがあるので、緊急時にはヘリで大きな病院に行くことも可能だ。ちなみに大雅はわざわざヘリを呼んで一番近い島の空港にまで行き、都内のオフィスに出勤している。
帰宅後、大雅が軽くシャワーを浴びている間に妃翠は庭でいくつかの果実や野菜を収穫した。今夜のサラダにも使えるだろう。
「毎日外でご飯が食べられるって、やっぱりいいなぁ。ソロキャンプも好きだったけど、自分ひとりだとどうしても周りが気になったし、寂しさもあったもんね……」
バース性に不安を覚えずに行動できて自由に過ごせるのは夢のようだ。大雅の祖父や、大雅の父であり現総理からは、『監禁ではないか？ 本当に大丈夫か』と何度も念押しされたものだが、この暮らしを気に入っているのは妃翠の方だ。二人には安心してほしい。
日が落ちてきた頃、広々とした庭の一画に夕食のテーブルセッティングを完了させた。
すべての準備が整ってから、大雅が庭でピザを焼き始める。このピザ釜は、大雅が急に『ピザが食いたい』と言い、一から作ったものだ。なんでも器用にできる人なんだなと感心したものである。
「この白ワインおいしいね。するする飲めちゃいそう」
「口に合ったようでなによりだが、それはお前の生まれ年のワインだって気づいているか？」
「え、そうなの？ ……あ、本当だわ。大雅ってこういうのにこだわるよね。嬉しいけど、ちょっと気障だなって思う」
「素直に喜んでおけ。気遣いできる素敵な旦那様だろう？」
大雅が焼きたてのピザを皿に移した。その手さばきは、三ツ星のイタリアンレストランにいても違和感ないほど様になっている。焼き上がったピザ生地の焦げ具合もチーズの蕩け具合もちょうどいい。
「頼もしくて、心遣いも細やかで、最高の旦那様だと思ってるわ。いつもありがとう」
テーブルの上は大雅が釣った魚で作ったアクアパッツァやチーズに生ハム、BBQグリルで焼いた魚介類や肉で埋め尽くされていた。妃翠が準備したのは、チーズと生ハムを盛りつけたサラダくらいで、ほとんどすべて大雅が用意してくれたものだ。
焼きたてのピザは格別においしい。
――昨日多めにマリナーラソースを作っておいてよかった。トマトの甘味と酸味もちょうどいい。
「妃翠に褒められるのは最高に気分がいいな。もっとあれこれしてやりたくなる」
「嬉しいけど、もう十分貰ってると思うわ。大雅が傍にいてくれるだけで私はすごく幸せよ」
「番が俺でよかったと思うくらいに？」
大雅の柘榴色の目がスッと細められる。彼は時折なにかを確認したがる癖がある。妃翠が自分の元から離れていかないかと不安に思っているのかもしれない。
――離れたいなんて思ったことないのに。むしろ居心地のいい檻の中にずっと閉じ込められていたいくらい。
「大雅以外の番なんて想像できないわ。私は大雅しか欲しくないもの」
妃翠は軽く手を拭いて、隣に座る大雅の腕にそっと抱き着く。彼の瞳の中に潜む不安が少しでも解消されたらいい。
「でも浮気したら即離婚ね」
「待て、なんで俺が浮気をする方なんだ」
「だってとてもおモテになるでしょう？ 私は大雅と違って、出張中あなたがどうしているのかなんて知らないし」
「俺の不在中になにか起こらないように、この家に防犯カメラを設置しているのは仕方ないだろう。俺はお前が浮気をしたら相手の男をどうするかわからんぞ」
大雅が最悪な想像だと呟いた。その様子に笑いがこみ上げてくる。
「ごめんごめん、大雅が浮気をするなんて思っていないし私も他の男性なんて欲しくないわ。だから、妻としても番としても、私を選んでよかったと思えるようにこれからも幸せになる努力を惜しまないつもりよ。二人でたくさん幸せを増やせたらいいよね」
「ああ、そうだな」
大雅の目尻が優しげに下がる。瞳の奥に潜んでいた先ほどまでの陰りは見当たらない。
「それで、子供は何人欲しいんだ？」
「え？」
「そろそろ一人目を作ってもいいと思うんだが？」
「……っ！ うん、検討します……」
もう少し二人きりの時間を味わいたい気持ちもあるが、彼との子供も欲しい。Ωなら高齢出産になっても身体的なリスクが低いと言われているが、体力的にも若いうちに産んでおいた方がいいだろう。
「大雅に似た男の子ができたらいいな」
「……それはなんか複雑な気持ちになるぞ」
「え、なんで？」
微妙な顔をしてそっぽを向いた大雅の顔が面白かったので、妃翠は小さく噴き出したのだった。
