ソーニャ文庫

歪んだ愛は美しい。

会員限定特典小説

親子

「ねえ、見て、お母様! 紫色の花びらが空に舞って、とってもきれい!」
 可愛らしいはしゃぎ声に、ルイーザは目を細めて声の方を見遣る。
 そこにはリラの木の下で空を見上げ、両手を大きく広げる少女の姿があった。
 黒い巻き毛に紫のリボンをつけ、銀色の瞳を輝かせているその少女は、この国の第一公女にして嗣子であるゾフィ・ヴィルヘミーネである。
 色彩は父譲りだが、それを確認するまでもなく、彼女を見れば誰もが「なるほど、これが『ヴァレンティアの至宝』と噂される公女か」、と納得する。何故なら、彼女は父親の美貌をそっくりそのまま受け継いでいるからである。
「まあ、ゾフィ。上ばかり見ていては転んでしまうわよ」
 ルイーザは空を見上げたままクルクルと回り始めたゾフィに注意したが、娘は「平気よ! この私が転んだりするわけないでしょう!」と笑うだけでやめようともしない。
 ルイーザはヤレヤレとため息をつくと、それ以上注意するのを諦め、クルクルと回り続ける娘を観察した。
 目を回してすっ転べば、その身をもって己の限界や自己過信に気づくだろう。
「公女様は本当に活発でいらっしゃいますねぇ」
「……そうね……」
 とりなすように侍女が言う言葉に、苦い笑みを浮かべて相槌を打った。
 これは活発を通り越して変わり者と言うのである。
 ゾフィは日々生意気になっていく。容姿だけでなく頭の良さや行動力まで父親譲りのこの娘は、十歳にして、つけた家庭教師を論破して泣かせるほどの女傑へと成長してしまった。
(蝶よ花よと育てたはずだったのに、どうしてこうなってしまったのかしら……?)
 ルイーザは首を傾げつつも、『ガイウスの子だから仕方ない』という、いつもの結論に達してもう一度ため息をつく。それにしても、どうしてこれほどまでに外見も中身もガイウスそのままに生まれてきてしまったのだろう。
(たまにこの子はガイウスそのものなのではないかって思うくらい……)
 頭が尋常ではなく切れる——もう天才の域だろう——せいか、考えていることが常軌を逸している。「そんなこと無理に決まっているでしょう!」と思うようなことでも「何故無理なんだ? ほら、できたじゃないか」と平然とやってのけてしまうのだ。そんなだから、自分の考えは絶対に正しくて、自分に不可能はないと思い込んでいる。
 そして天才ゆえにということなのか、人の感情の機微を捉えるのが苦手なのだ。
(そんなところまで似なくても良かったのでは……?)
 つまり、夫と娘、二人の変わり者の天才に囲まれているルイーザは、気苦労の多い毎日を送っていた。
「ううっ……!」
 物思いに耽っていると、娘の呻き声が聞こえてきて、ハッとなった。
 見れば、ゾフィがリラの木の下に蹲っている。クルクルと回り続けて、目を回したのだ。
「もう、だから言ったでしょう……」
 言わんこっちゃない、とお説教をしようと歩み寄れば、ゾフィは額を押さえながら、「来ないで!」とこちらに掌を突き出した。
「これは……想定内なの。こうして同じ方向に回り続ければ目を回すのは当然よ。解剖医のメルケルが、人間が目を回すのは耳の中にある水が回っているせいだって言っていたから! だから、今から同じだけ逆回転すれば、元に戻るはずなの! それが慣性の法則の証明なのよ……!」
 そう叫ぶように言うと、ヨタヨタとした足取りで、今度は逆に回り始めた。
 娘の謎の気迫に、ルイーザも周囲の者も黙って彼女の奇行を見守った。
「……あの、公妃様。公女様は何のことを仰っておられるのですか?」
「……さあ? わたくしにもよく分からないわ……」
 でも、とルイーザは目を眇めて娘を見る。それから腕を組み、低い声で名を呼んだ。
「ゾフィ。止まりなさい」
「嫌よ。これは証明なの」
「後になさい。お説教よ」
「えっ……」
 母親の冷徹な声色に気づいたのか、ゾフィはサッと顔色を蒼褪めさせる。
 なんだかんだいって十歳の少女である。まだまだ母親のお説教が怖いようで大変助かる。
 ゾフィはヨロヨロしながらもルイーザの前に来ると、おそるおそる母親の顔を見上げる。
 その表情が、まるで亡き愛犬のホフレを彷彿とさせて、ルイーザは笑いたくなるのをグッと堪えた。ガイウスとルイーザを長い間見守り続けてくれた、あの優しく賢い忠犬は、二人が本当に結婚したのを見届けるようにして、ひと月を待たずに亡くなった。
(思えば、ホフレと入れ替わるようにして、この子を身ごもったのよね……)
 そう考えると、ゾフィはホフレの生まれ変わりなのではないかとも思ってしまう。世迷い言だ、と自分でもおかしくなるが、幸せな妄想は悪いことではないだろう。
 とはいえ、それはさておき、今はお説教である。
「あなた、メルケルと言ったわね」
 指摘すると、ゾフィがあからさまに「しまった」という表情になる。
 メルケルとはこのヴァレンティア公国のお抱え解剖医だ。解剖というだけあり、普通の医者とは違い、人体を文字通り解剖してその構造を解明する者だ。解剖には遺体が要る。むやみやたらに遺体を解剖して良いはずがなく、国が定めた法律に則って行わなければならない。つまりメルケルは死罪となった罪人の遺体を解剖する権利を得た医者なのだ。
 ゾフィは幼い頃から人体に非常に興味を示し、メルケルの存在を知ってからは、その研究室に入りびたるようになってしまった。無論、人体解剖をしている現場である。
 公女が人体解剖をしているなどと噂が立てば困ったことになりかねない。母としてはその知的好奇心を満たしてやりたいとも思うが、それが国利を侵害するようならば話は別だ。
「メルケルの所に出入りするのは禁じたはずよ」
 厳しい声で問えば、ゾフィはしょんぼりと眉を下げた。
「でも……」
「でも、ではありません。あなたはこのヴァレンティア公国の嗣子なのです。この国を継ぐ者として、妙な噂が立つような真似をしてはいけないと言ったでしょう」
 ルイーザの叱責に、グッと唇を引き結んだゾフィが、次の瞬間弾けるように叫んだ。
「分かっています! 分かっているからこそ、私はこの国のために、医療をもっと極めたいのです! 人体をよく知れば、病気も怪我も治すことができるものがもっと多く出てくる! これは確実なのに、不吉だから、気味が悪いからという理由で解剖学は忌避される! そんな曖昧な恐怖のために、もっと多く救えるはずの国民の命を捨てるのですか⁉ 人は国だとお母様は言ったではないですか! 救える命が増えれば、国力が上がるということでしょう⁉ 医学はもっとずっと早く進歩できる! 私がしてみせる!」
 ゾフィの熱弁の迫力に、ルイーザは圧倒されていた。
 まだ小さいと思っていた娘は、いつの間にこれほど大人になっていたのか。いつの間に、これほど深く物事を考えるようになっていたのか。ただ単に子どもっぽい好奇心からメルケルの所に通っていたのだとばかり思っていたルイーザは、自分の浅薄な思い込みを恥じた。
「ゾフィ……」
 どう声をかけようかと思案したルイーザの背後で、低い艶やかな声がした。
「では、証明してみせよ」
 ハッとして振り返れば、そこには背の高い美丈夫の姿があった。
 この国の公主の登場に、周囲にいた者たちが一斉に膝を折る。
「ガイウス……」
 ガイウスは愛しい妻の声は聞き逃さない。ルイーザの呟きにニッコリと微笑みを浮かべると、いそいそと彼女の傍へやってきてその額にキスを落とす。
「やあ、私の美しい妻。久しぶりだね」
「……先ほど昼食をご一緒したばかりでしょう?」
「私にはとても長い二時間だった」
 嘆くように言いながら、ルイーザの白金色の髪にもキスを落としている。そしてついでとばかりに、ルイーザの髪に鼻を埋め込んで、すーっと息を吸い込んだ。自分の匂いを嗅がれていることは分かっていたが、ルイーザはされるがままになっている。以前なら顔を真っ赤にして怒っていただろうが、結婚生活も十年を超えると、夫の変態じみた行動にも動じなくなってしまった。慣れとは本当に恐ろしいものである。
 父親の変態行為に我慢がならないのは、妻ではなく娘だったようだ。
 登場するなり自分との会話を放置して母とイチャコラし始めた父に、ものすごく冷たい目を向けて言った。
「お父様、私のお母様に変態行為はおやめください」
「お前のお母様かもしれないが、その前に私の最愛の妻だ。そしてこれは変態行為ではない。求愛行為だ」
「変態か求愛かは、見解の相違かとは思いますが、前者の方が一般的です……てもう! お母様から離れてください! 今は私の時間でしょう! お父様はあっちに行って!」
 ゾフィは公女ぶった話し方をやめ、すっかり素に戻って父親の腕を引っ張るが、ガイウスは娘の手を手加減なしに払い落とす。
「やめろ。娘といえど、私からルイーザを奪おうというのなら容赦はしない」
「やめなさい、ガイウス、大人げない。ゾフィもお父様に食って掛かってはいけません」
 ルイーザはため息をつきたいのを堪えて、二人の間に入って引き剥がした。
 似た者同士のせいか、とにかくこの二人は仲が悪いのである。とはいえ原因の八割は、ガイウスの大人げなさにある。
「お母様! だって今は私の時間でしょう⁉」
 ゾフィが腹を立てながら訴えてくる。彼女の言う『私の時間』とは、ゾフィがルイーザを独占してよいと決められた時間のことである。ルイーザはこの国の公妃だから、毎日こなさねばならない公務が山のようにある。娘との時間をなかなか取ってやれないので、一日の中で数時間「この時間はゾフィと一緒にいる時間」を確保することにしたのだ。
 ちなみにこれを決めた時、ガイウスはものすごく不機嫌になった。その理由が『私と過ごす時間が減る』だったので、無視しても良いと判断したが。
「もちろんあなたと過ごす時間だけれど、そこにお父様が加わってもいいでしょう?」
「お父様は私とお母様の邪魔をするからイヤ!」
 キッと顔を上げて拒絶の意思を示す娘に、ガイウスがニヤリと口の端を上げた。
「そんなことを言っていいのか、ゾフィ。折角メルケルの所で解剖学を学ぶことを許可してやろうと思ったのに……」
「えっ⁉」
 父の発言に、ゾフィがパッと顔を上げた。
 娘の良い反応に、ガイウスがフッと笑みを零す。
「医学を進歩させてこの国の国力を上げてみせると言ったな。いいだろう。それを証明してみせろ」
「い、いいのですか……⁉」
 先ほどルイーザに言った時には、きっと実現するとは思っていなかったのだろう。あれは説得というよりは、どちらかというと心の中で思っていることを吐露したという感じだった。
 自分の願いがアッサリと叶ったことに驚くゾフィに、ガイウスは「おやおや」とでもいうように眉を上げた。
「私は証明してみせよと言ったのだ。できなければ、お前は死体をおもちゃにする『狂人公主』となるだけだ」
 突き放す物言いに、負けず嫌いなゾフィの目に力がこもる。
 自分と同じ瞳に、ガイウスは満足そうな笑みを浮かべた。
「できると思うならやれ。そして証明しろ。私はそうやって、全てを証明してきたぞ」
 そう語る父が、実際に不可能を可能にしてきた事実を知っている娘は、挑戦的な笑みを浮かべて頷く。
「証明してみせます! 父、ガイウス・ジュリアス・チェザレ・カタネイの名に懸けて!」
 言うや否や、クルリと踵を返して走り出した。
「あ、どこへ行くの? ゾフィ!」
 驚いたルイーザが訊ねると、走りながらこちらを振り返ったゾフィが「メルケルの所です!」と答えた。あっという間に走り去った娘を見送りながら、ルイーザは隣に立つ夫に言った。
「……良かったのですか? あんなことを……」
 ガイウスを信じているし、ゾフィの意欲も理解してやりたいが、一歩間違えれば大惨事となる。死体を解剖するという行為が宗教的に異端だと判断されれば、大陸中から戦争をしかけられてもおかしくない状況となるだろう。
「あの子の見解は正しいからな」
「見解……?」
 ルイーザが首を傾げると、ガイウスは具体的に説明をしてくれた。
「この世の理は、神だとかいう曖昧なものではなく、確固たる物の理によって成り立っている。氷が水になり、やがて霧になるのは、精霊の仕業などではなく、温度だというのと同じように。医学とて、まじないではなく、根拠のある理に基づいているのだ。人の身体の理を解明しようとするのが解剖学だ。正しい位置から物を見て成せば、事は必ず証明される。要は、正しい位置に立てるかどうかだ。あの子は既にそれができている」
 証明してみせるのはそう遠い日ではないだろう、とガイウスは笑いながら肩を上げる。
 なるほど、とルイーザは思いながらも、その発言はガイウスのような境地に至っていなければできないものだなとも感じた。
 ガイウスは実際にそうやって多くのことを成し遂げた人間だから言えるのだろう。
「……あなたが父親で、あの子はとても幸せね」
 ガイウスのような天才肌の人間でなければ、同じ天才肌のゾフィの期待には応えられなかっただろう。そう思って言った発言に、ガイウスの灰色の目がギラリと剣呑な光を放った。
「……私以外の誰があの子の父親になれると?」
「そ、そんな話ではなかったでしょう⁉」
 飛躍しすぎだ、もしくは被害妄想だ、と焦るルイーザに、ガイウスはニタリと捕食者の笑みを浮かべる。
「口は災いの元、だな、愛しい人。私を不安にさせる発言をすれば、どうなるか分かっているね?」
 そう言うと、ひょいと妻を横抱きにして歩き出した。
 向かう先は、もちろん寝室である。何年経っても変わらない夫の執着に、ルイーザは眩暈がしそうだ。
「いい加減にして、ガイウス! 心配になんかなっていないくせに!」
「まさか! いつだって心配だ。私は愛しい妻が離れてしまえば、狂ってしまうんだからな。どうか私を狂わせないように、ずっと傍にいてくれ、ルイーザ」
 笑みを含んだ甘い声で囁いて、ガイウスは最愛の妻にキスを落とす。
 愛を強請る夫のキスに、ルイーザは文句を言う口を閉じた。結局のところ、夫から愛されることを嬉しく思っているのだから、自分も同じ穴の貉である。
 ヴァレンティア公主夫妻の仲睦まじい様子を、周囲の者たちは平和を実感しながら見つめたのだった。

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