新しくやってきた幸せ
美しく晴れた春の朝。
無事に産まれたのは、女の子だった。
母子ともに処置を終え『もう面会が出来る』と言われた瞬間、八歳のヨハンが、父と弟たちを差し置いて母と妹の待つ部屋に駆け込んでいった。
――こら、ヨハン! 一人で行くな! 父様は母様が産気づいてから徹夜でここで待っていたんだぞ。
そう言いたいのを、四児の父となったアンドレアスはぐっと堪える。
ヨハンは産室に入るなり「赤ちゃんを抱っこしたいです!」と侍女頭に強請り、母の寝台に腰掛けて、生まれたばかりの妹を抱かせてもらっていた。
待ちわびた第四子、しかもものすごく欲しかった娘である。本当は自分が一番に抱きたかった。
だがアンドレアスは大人だ。息子たちを押しのけてリーラと赤子の寝台に駆け寄るような真似はしない。
『父様が一番に抱っこするんだからどきなさい!』と言い張るのも我慢できた。幼い息子たちの罪なき理不尽さに日々振り回されたお陰で、きつかった性格も徐々に鷹揚になってきたらしい。
寝台のリーラの様子を窺うと、いつも通りの笑顔を返してくれた。
医師からは『安産で異常なし』と報告を受けていたが、身体に大きな障りはないようだ。アンドレアスはほっとして、徹夜明けの疲れた顔で微笑み返す。
「はぁ……赤ちゃんちっちゃい……かわいいよぉ……」
ヨハンは腕に抱いた妹にうっとりと頬ずりしている。
アンドレアスにそっくりの白い頬はばら色に染まっていた。妹が無事生まれて本当に嬉しいのだろう。
「ヨハン、父様にもその子を見せてくれ」
言いながらアンドレアスは身を屈め、赤ん坊のおくるみを少しだけ緩めた。
まだくしゃくしゃの小さな顔が露わになり、思わず笑みがこぼれる。
娘は、一目見ただけで親馬鹿心が全開になりそうなほど可愛い女の子だった。
「母様に似ているな」
そう口するだけで胸がいっぱいになる。
娘の髪は淡い金色だった。
先ほど医師から聞いたところによると、目の色はまだ定まっていないが、青とも紫とも付かぬ優しい色だそうだ。
――ああ……本当にリーラに似ている。なんて美しい、可愛い子だろう……。
抱き取ろうと手を伸ばしたが、なんとヨハンに拒まれた。
「だめです!」
息子たちの理不尽さには慣れたつもりだったが、さすがのアンドレアスも思わず真顔になった。
「ヨハン……」
「今は僕が抱っこしていますのでお待ちください」
交替してくれる気はないようだ。
「父様も抱っこしたいんだが」
「もうちょっと待ってください、もうちょっとだけ」
ヨハンは満面の笑みを浮かべて優しく妹を抱きしめている。
この子も『お母様に赤ちゃんが出来た』と教えた日から、ずっとずっと弟か妹が生まれるのを楽しみに待っていたのだ。
そう思うと無下に赤ん坊を取り上げることは出来ない。
――父様も早く抱っこしたい……六年ぶりのほやほやの新生児が可愛くて愛おしくて身が捩れそうなんだ……。
そのとき、寝台に半身を起こしたリーラの方を向いて、ヨハンがしっかりした声で言った。
「とってもかわいい女の子です! お母様がご無事で良かった。つらいおもいをして赤ちゃんを産んでくださって、ありがとうございました。しっかり身体を休めて、早く元気になってください。ニルスとカールのことは僕がよく面倒を見るから、心配しないでくださいね」
――お、お前……父様が言おうとしたことを一人で全部言うな……!
そう言いたいところだが、もちろん呑み込んだ。
アンドレアスはこれまで、『ヨハンがその場に即した発言が出来るように』と真剣に教育してきた。
その成果が今しっかり確かめられたのだ。
嬉しいことではないか、まだ八歳の子が、こんなにきちんと母をねぎらうことが出来るなんて。
――でもちょっとは……父様が言いたかった……。
ヨハンが赤子を落とさないよう見張りながら、アンドレアスはため息をつく。
「ありがとう、ヨハン。赤ちゃんはとても小さいでしょう? 貴方も産まれた時はこのくらい小さかったのよ」
リーラが幸せそうに微笑む。
「はい、お母様。そうか、僕が赤ちゃんの時もこんなに可愛かったんだぁ……」
ヨハンの言葉に、アンドレアスは思わず噴き出した。リーラも目を丸くしたあと、クスクスと笑い出す。
「本当にヨハンったら……おもしろい子ね」
「ヨハンは誰に似たんだろうな」
笑いながらこぼすと、リーラが優しい顔できっぱりと答えた。
「貴方ですわ」
「いや、顔以外はお前だろう? おっとりのんびりなところがお前にそっくりだ」
「いいえ。我が道を行くところが貴方にそっくりです」
「そうか……? 日頃からお前そっくりだと思っているんだが……」
アンドレアスは首をかしげる。
何度もこの件は話し合ったが、夫婦でお互い『ヨハンはそちらにそっくりだ』と言い張って終わるのだ。
そのとき、双子のニルスとカールがヨハンにぴったりと貼り付き、眠っている妹を覗き込んだ。
「兄さま、赤ちゃんかわいいね」
「かわいい、おめめ何色?」
「目に触るな、無理に目の色を見ようとしては駄目だ」
アンドレアスは慌てて双子を注意する。この二人は六つになっても悪戯ばかりでまだまだ目が離せないのだ。
「大丈夫、大丈夫だよ」
「そんなに心配しないで、お父様」
双子は、いつの間にこんな口を利くようになったのか。一人前の口は利くのに悪戯は止まないのは何故なのか……。
「小さい手……」
「髪の色が僕たちと違う……」
双子につつき回された赤子が目を覚まし、不意に泣き出した。
……抱っこの機会は今しかない。
「泣いてしまったではないか。ほら、父様に抱かせなさい」
ヨハンの腕からほぎゃほぎゃと泣いている娘を抱き取り、アンドレアスは顔をほころばせた。
新生児のぽってりした重みと温もりに、八年前初めてヨハンを抱いたときのことを思い出す。
あの日は、元気に産声を上げる我が子を抱けてただ嬉しかった。
リーラと『大切に育てよう』と初々しく誓い合ったことが懐かしい。
双子が産まれた時は、ヨハンよりもずっと小さくて、か細い声で泣いていて、不安でいっぱいだった。
医者が『小さくてもちゃんとお乳が飲めるので大丈夫です』と言ってくれているのに、どうしようもなく心配だったことが昨日のことのように思える。
あの時の赤ん坊たちが、今では一人前の顔で妹を可愛がっている姿に、胸がいっぱいになった。
――そうそう、お前たちもこの子のように小さかったんだ。父様は今も昔も、ひたすらお前たちが可愛くて……。
アンドレアスは目を細めて娘の顔を覗き込んだ。
ひとしきり泣いた後はまたすやすやと眠っている。
待望の小さな娘を無事に抱けたことがたまらなく嬉しい。
このところずっと、お腹に赤ん坊がいるリーラに異変がないかと心配し通しだったから、安堵で気が抜けそうだ。
――ああ、なんて可愛いんだ。いかん……気が緩みすぎて……涙が……。
アンドレアスの目から僅かに涙が伝い落ちたとき、不意にヨハンの声が聞こえた。
「お父様、失礼します」
ヨハンが寝台の上に立ち、背伸びをして、ハンカチでアンドレアスの目元を拭いてくれた。ついこの前まで赤ん坊だったヨハンに一人前に労られ、驚きのあまり涙が止まる。
「ああ、ありがとう、ヨハン」
アンドレアスは礼を言い、ヨハンの額に口づけをした。
ふと見ると、何故か双子が足元にくっつき、前後から腹と腰をさすってくれている。
「……お前たちは何をしているんだ?」
「お父様、また腰が痛い?」
「それとも今日は胃が痛い?」
アンドレアスは、双子の言葉に思わず笑った。
泣いているからどこかが痛いと誤解されたのだろう。
どうやら『座りっぱなしで腰が痛い』だの『阿呆ばかりで胃が痛い』だのとリーラにこぼした愚痴を双子は聞き覚えているようだ。
「大丈夫だ、ありがとう」
リーラも双子の頓珍漢な優しさに笑い出す。
「ニルス、カール、お父様は痛くて泣いてるんじゃないのよ」
「そうなの?」
「そうなんだ?」
双子がアンドレアスから離れ、ヨハンの両脇にちょこんと腰を下ろす。
アンドレアスはリーラの腕に赤ん坊を抱かせ、汗で髪が貼り付いたままの額に口づけした。
「一日がかりで大変だっただろう、お前が無事で良かった」
リーラの額に貼り付いた髪を丁寧に剥がし、整えながら、アンドレアスは言った。
「はい、この子も健やかでいてくれて、本当に嬉しゅうございます」
リーラはそう言うと、優しい手つきで眠っている赤ん坊の頭を撫でた。
「名前を付けないとな……」
アンドレアスの言葉に、リーラが美しい笑顔と共に頷いた。大人しかった子供たちが一斉に声を上げる。
「僕も付けたいです」
「僕も」
「僕も」
「いや、この子の名前は父様と母様が決める」
ヨハンが庭に来る猫たちに『お皿』『林檎パイ』『青インク』という前衛的な名前を付けていたことを思い出しつつ、アンドレアスはきっぱりと首を横に振った。
「じゃあ、僕の考えた名前を半分使って?」
ヨハンが食い下がってくる。
「……駄目だ。そんなことをしたら、めちゃくちゃな名前になってしまうだろう」
斬新なヨハンの発想に、アンドレアスはまた噴き出した。
やはり子供たちとリーラが愛おしくて仕方がない。名前がまだない小さな娘も、きっとたくさんの思い出をくれることだろう。
アンドレアスの人生に、また一つかけがえのない宝が増えたのだ。
そう思いながら、アンドレアスは、息子たちとリーラ、一人一人の額に口づけをした。