嫉妬
「ルイーゼ皇女殿下……いえ、今はクナウスト公爵夫人ですね。お久しぶりです」
その日、新しく配属された衛兵がルイーゼの元へ挨拶に現れ、一礼をしたあとそう言った衛兵は黒髪に少し垂れ目がちの茶色い瞳をした精悍な顔立ちの青年だった。
ルイーゼが「お久しぶり」の言葉に首を傾げると、青年は目を細めた。
「お忘れですか。デニス・ザイガーです」
名前を言われ思い出す。ザイガー侯爵家の三男である。
「まあ。お久しぶりです。……八年ぶりでしょうか。ずいぶんと立派になられていたので気づきませんでした」
ザイガー侯爵はルイーゼの父――皇帝の側近で、友人だ。
そのためデニスも皇族が主催する園遊会には必ず参加していて、同い年でもあったのでルイーゼとも親しくしてくれていた。
当時はルイーゼと同じくらいの身長で細身だったが、顔には面影があるものの、今は見違えるほど身長が伸び、逞しくなっている。
「遊学からお戻りになられていたのですね」
デニスは母方の親戚を頼り、隣国へ遊学に行ったと耳にしていた。
半年前に帰国し、今は軍に所属しているのだとデニスは言った。
「お元気そうでよかったです。どうぞよろしくお願いしますね」
顔見知りのデニスが自分付きの衛兵になるのは心強い。
ルイーゼが微笑むと、デニスは僅かに目を伏せて頭を下げた。
それからデニスとは、ほぼ毎日顔を合わすようになった。
衛兵とは普段は世間話程度しかしなかったが、デニスが話し上手なのもあり会話が弾んだ。懐かしい思い出話に花を咲かせるだけでなく、隣国の情勢や流行なども聞く。見知らぬ土地の話は興味深かった。
デニスとのおしゃべりは楽しかったが、あくまで昔なじみの衛兵という間柄でしかない。
ルイーゼの傍には常に侍女がいたし、密室で二人きりにはなっていない。疚しい気持ちも皆無だった。だというのに。
「あなたが若い衛兵と個人的に親しくしていると耳にしました」
いつになく冷たげな眼差しで、夫……ライナルトがルイーゼを見下ろして言った。
隠す必要がないので、ルイーゼはデニスとの関係を教えたが、たんなる昔なじみだと知っても、ライナルトの双眸は冷え冷えとしたままだった。
「……わたくし、浮気を疑われているのでしょうか」
夫がいるのに別の男性に気を向けはしない。そんな軽薄な性分ではなかったし、そもそもルイーゼは目の前にいる夫を深く愛していた。
なんだか悲しくなって、ルイーゼはライナルトの上着の袖をツンと引っ張った。
「疑ってはいません。ただ、愛らしいあなたに、仕事中にもかかわらず話しかける男が腹立たしいだけです」
ライナルトは僅かに眼差しを柔らかくさせた。
「座ってお茶を飲みながらお話をしているわけではないのです。デニスは仕事を……警護を疎かにはしていません」
自分とおしゃべりしたせいで、デニスが仕事を怠けていると思われるのも心苦しい。そう思い庇うと、柔らかくなっていた眼差しが、また冷たくなった。
ライナルトの長い指が伸びてきて、ルイーゼの唇に触れる。
「この可愛らしい唇で、私以外の男性の名を口にしないでください」
ルイーゼは最近になり、清廉でいつも沈着冷静だったライナルトが実は子どもっぽい一面を持つのだと知った。
「それは、無理です」
嫉妬深く心が狭いライナルトも、もちろんルイーゼは妻として受け入れているし、できるならばライナルトの願いはすべて叶えたいとも思っていた。けれども何か起きれば衛兵を呼ばねばならないし、家令に頼み事をする場合も多々ある。「あの」「その」だけで人を呼べなくもないけれど、不便だし相手に失礼だ。
ルイーゼの返答に、ライナルトは不満げな吐息を零す。
唇に触れるライナルトの手に、ルイーゼは自らの手を重ねた。
「他の殿方の名を呼ばないのは無理ですけど……。でも……ライナルト様。わたくしの唇が触れるのは、あなただけです」
ルイーゼはそう言って彼の指先を唇でなぞった。
「……私の機嫌を取るのが上手くなりましたね」
「夫の心がいつも健やかであるよう気を配るのも妻の役目ですから……ん」
ライナルトの指先が、ルイーゼの唇を割るようにして入り込んでくる。
前歯に触れられ、ライナルトの指を噛んではならないと口を開いた。するとさらに指が入り込んできて、舌に触れる。唾液が口内に溜まり、ルイーゼは思わずライナルトの指をちゅっと吸った。
「……ルイーゼ、寝台に行きましょう」
ライナルトの綺麗な顔が近づいてきて、耳元で囁かれた。
指が口内からくちゅりと音を立てて出て行く。自身の唾液でてらりと濡れたライナルトの指を見ると、どうしてか下腹部が甘く疼いた。
「……まだ夕刻です……」
今日はライナルトの帰宅が早かったため夕食はすませていたが、まだ辺りは明るい。
「私の心がいつも健やかであるよう……気を配ってくださるのでしょう?」
情欲をあらわにした空色の瞳で見つめられ、女の部分がライナルトを求めるように収縮した。
最近までルイーゼは自分にこんな情欲があるなど知らなかった。
それを教えてくれたのは目の前にいる夫だ。
ルイーゼがこくりと頷くと、ライナルトの腕が腰に回った。
◆ ◇ ◆
ライナルトにひと晩かけて抱き潰された翌日。
ルイーゼがいつもより遅くに起きた頃には、ライナルトの姿はすでになかった。朝早くから、教会へ出向いているという。ヴェルマーが処罰されてから、ライナルトは教会の手伝いでずっと忙しなくしている。
明日ルイーゼはライナルトとともに孤児院へ訪問する予定が組まれていた。
ルイーゼが子どもたちへ贈る靴下やハンカチーフなどを侍女とともに準備していると、デニスが姿を見せる。孤児院の他に医療施設が慰問先に加わったため、時間の変更や経路について伝えに現れたのだという。
デニスの説明を聞いていたとき、侍女が別の侍女に呼ばれて席を外した。
室内にはデニスと二人きりになったが、ドアは開けてある。ルイーゼは特に気にせず、デニスの説明を聞いていたのだが――。
「ルイーゼ様」
デニスが気にするように入り口に視線を向けたあと、声を潜ませルイーゼの名を呼んだ。そうしてゆっくりと長椅子に座るルイーゼに近づいてくる。
暗く思い詰めたような眼差しに、ルイーゼは身構えた。
ルイーゼの衛兵に配属されたのだから、身辺調査は行われているはずだ。けれどデニスは長期間隣国に遊学へ行っていた。調べきれなかったのだろうか。
ルイーゼはかつて聖王だったライナルトの配偶者だ。熱心な信徒の中にはルイーゼを目障りだと思う者もいるだろう。ライナルトに恨みを持つ者にとっても、ルイーゼは格好の的であった。
「……再会してからずっと、あなたにお伺いしたいことがあったのです」
てっきり命を狙われるのかと思って顔を青ざめさせたのだが――デニスはひたむきな眼差しをルイーゼに向け、目の前でひざまずいた。
「俺は……ずっとあなたに恋をしておりました。あなたに見合う者になりたくて……もしかしたら降嫁していただける機会もあるかもと……遊学をしたのです。ですが……あちらであなたが婚姻したと聞き、帰国をしました」
ルイーゼは驚いてデニスを見返す。
「ルイーゼ様はお幸せですか? この婚姻はあなたの負担になっていると噂する者もいます」
「……負担?」
「ライナルト様のお立場を考えると、あなたは常に危険と隣り合わせの日々を強いられる」
ルイーゼは心の中で息を吐いた。
確かに先ほども、てっきりデニスが自分に危害を加えようとしていると身構えたばかりだった。
危険などない安穏な日々を送れたらと思う。けれどそれは一人で、ではない。ライナルトとともに、であった。
「危ない目に遭ったとしても……わたくしは幸せです」
ルイーゼは素直な気持ちを口にした。
「わたくしライナルト様を……夫を誰よりもお慕いしているのです。負担に思ったことなど一度もありません。たとえライナルト様が原因で命を落とすことになろうとも、わたくしが幸せであるのに変わりはありません」
「……そうですが。あなたが幸せならば、それで……。俺もようやく吹っ切れることができます」
「デニス。わたくしを好きになってくださって、ありがとうございました」
想いには応えられないが、自分に好意を抱いてくれていたのは嬉しくもある。感謝を伝えると、デニスは僅かに顔を歪めた。
「遊学などせず、父に……いえ皇帝陛下にお願いすればよかった」
もしもデニスがそうしていたならば……彼の妻になっていたのだろうか。
ライナルトの妻でない自分をルイーゼには想像できなかった。
「ルイーゼ様……」
ルイーゼの手にデニスが触れようとする。
握手くらいならよいのだろうか。部屋には二人きりだし拒むべきか。
考えていると侍女が戻ってきたのか入り口でカタンと音がした。
デニスにも聞こえたのだろう。慌てて立ち上がり、ルイーゼと距離を取った。
ルイーゼは入り口に目をやり、ドキリとする。入り口にはライナルトが立っていて、こちらを冷たげに見つめていた。
「……っ。では明日の予定をお伝えしましたので私はこれで失礼いたします」
デニスが慌てた風に言って、一礼をして部屋をあとにしようとした、まさにそのとき。
「きちんと吹っ切ってくださいね」
ライナルトは笑顔でデニスにそう声をかけていた。
「疚しい行為は一切しておりません」
デニスが退出したあと、誤解をしているならば早く釈明せねばと、ルイーゼは言った。
ライナルトは長椅子に座るルイーゼにツカツカと大股で近づくと、身をかがめて噛みつくような口づけをしてきた。
不用意に二人きりになったのも事実だ。いつになく乱暴な口づけに驚くものの、ルイーゼは謝罪の意味を込め、ライナルトの首に手を回し、口づけに応えた。
「……っ、……申し訳ありません」
唇が離れてから謝罪を口にすると、ライナルトは眉間に皺を寄せ言った。
「謝るようなことをしたのですか?」
「いいえ、してはおりません。けれど……ライナルト様に不愉快な思いをさせてしまいました」
「侍女が衛兵にあなたを任せることもあるでしょうし。二人きりになるのは不愉快で腹立たしくはあるけれど……仕方がないとも思っています」
ライナルトはそう言うと、ルイーゼの横に座った。そうしてから、長い腕でルイーゼの腰を引き寄せる。ルイーゼは腰を抱かれ、ライナルトの膝の上に座らされた。
「私のあなたに横恋慕する男が許せないのもありますが……可愛すぎるあなたのせいなので、これも仕方がないことだと諦めています。ただ……私が原因で命を落としても幸せだとの言葉は……撤回して欲しいです」
ライナルトはルイーゼの頬に手を宛てがい、眉を顰めて続ける。
「私が原因……いえ、あなたが命を落とせば……私はきっと正気を保てなくなる。私が狂っても、あなたは幸せだというのですか」
狂うなど大げさだと思うが、ライナルトの双眸は不安げに揺れていた。
長い間ヴェルマーに謀られていたと知ったからだろうか。ライナルトはルイーゼに依存しているような態度や言葉を時折みせるようになった。
「わたくしは何があってもライナルト様とともにいられるのが幸せだと言いたかっただけなのです。わたくしは、ライナルト様を裏切ったり騙したりはしませんし、ずっと傍にいます」
ライナルトはしがみつくように、ルイーゼの胸元に顔を埋めた。
「ずっと死ぬまで……いえ、死んでからも傍にいてください」
難しいお願いをされる。
「努力いたします」
ルイーゼはそう答え、ライナルトのさらさらの髪を指で梳いた。
婚姻し、愛し愛される夫婦になった。けれど幸せになったからといって、そこで終わりではない。
幸せだからこそ、いつまでこの日々が続くのかと不安にもなるし、これからも夫婦であり続けるために、越えねばならない山もあるだろう。
それでも二人で手を繋いで一緒に越えていけたらと、ルイーゼは思った。
「仕方のないことだと……諦めておられたのではないのですか」
翌日。ルイーゼは家令からデニスの配属先が変わったと聞いた。
やはり疑っていたのかと、じとりとライナルトを見上げて言うと、ライナルトは薄く笑った。
「仕方のないことですが、嫉妬はしますので。恋敵をあなたの傍に置くほど、心の広い夫でもありませんし」
「恋敵といっても、昔のことです……吹っ切ると口にしておられましたし」
「あなた付きの衛兵でいるということは、愛らしいあなたを毎日見る、ということです。そうそう吹っ切れはしませんよ。陛下付きの衛兵に配属されたそうですし、栄転です。彼のためにもよかったと思います。それとも……そう拗ねるのは、あなたも少しは彼に気があったせいでしょうか。あなたの頭と心が私でいっぱいになるよう努力せねばなりませんね」
「わたくしの頭も心も、ライナルト様でいっぱいですよ」
「体も私でいっぱいにして差し上げます」
ライナルトが冗談か本気かわからぬようなことを口にして、ルイーゼは頬を染めながらも少しだけ呆れていた。