あなたの好きなプリン
ラーシュレイフに与えられた領土は、マダナリスティア王国の最北端にあった。
霧がかった山壁の中腹からせり出すようにして建てられている屋敷は、精緻で芸術性の高い石の屋敷だ。先端が針のように尖った屋根を持つ棟が幾棟も連なる厳粛さが漂う建物は、屋敷というより寺院と呼ぶにふさわしい。眼下にはごうごうと飛沫を上げて流れる渓谷がある。人の背丈はある落石が点在する川には、たまに雲間から顔を見せる太陽が虹の橋を架けた。
岩と石ばかりのこの地は、人が暮らすにはやや不便な土地。
だが、魔獣を従える辺境伯爵の住処には、うってつけの環境でもあった。
何しろ、周りに人の気配がまったくないからだ。
山の麓まで降りれば人里があるが、ラーシュレイフが賜った屋敷は、そこよりも気温は低く、心なしか空気も薄い。一日の半分は霧に包まれているような場所だった。
最初は数人の使用人がいたのだが、みなそのうち体調を崩して辞めてしまった。確かに、
こんなところにいたら、大抵の人間は気が滅入ってしまうだろう。
だが、使用人がいなくなったことで、屋敷のすべてをリアンヌとラーシュレイフが手分けして行う羽目にもなっていた。見た目ほど部屋数はないとはいえ、やはり森の住処よりも広い。そこでリアンヌたちは日常的に掃除するのは普段使う部屋のみとし、ほかの部屋は来客があるときだけと決めた。
リアンヌは主に料理と炊事洗濯。ラーシュレイフは領土の管理のほか、屋敷の修繕や家畜の世話を担当している。
リミトスが自給自足を見越して家畜を数頭用意してくれたのは、本当に助かっている。
(おかげで、毎朝絞りだてのミルクが飲めるもの)
牛が二頭と鶏が六羽飼育するための小屋の前にはわずかだが牧草が生えた庭があり、動物たちは日が出ると、そこでひなたぼっこをしている。そうでないときは、たいがい小屋で昼寝をしているグラテナにひっついていた。
不思議なことで、彼らはグラテナを自分たちの仲間と認識しているらしく、今も真っ白い羽毛の雄鶏が、立派な角と角の隙間にすぽっと体を嵌めて満足げに目を閉じている。あの短い足でどうやってグラテナの頭まで上ったのかはなはだ疑問だが、グラテナも振り払わない辺り、懐かれることは満更でもないらしい。
(いったい、グラテナって元はなんだったのかしら?)
森にいたときは、これほど獣に好かれていなかった。本来、動物が魔獣に懐くなどあり得ないのだが、現実に目の前で仲良く昼寝をしている光景を見せられれば、何事にも例外はあるのだと認めざるを得ない。
その安心しきっている姿に、種族を超えても通じ合えるものがあることを教えられる。
「卵、もらっていくわね」
彼らを起こさないよう、小声で告げてリアンヌはわらの中にある卵を籠に四つ入れた。
今から、これを使ってプリンをつくるのだ。
レグナルドの大好物だったプリン。
ようやく引っ越し作業も一段落したので、久しぶりにプリンを作ろうと思い立った。
「えっと、容器はこれと、これ……」
――私のプリンは二個だぞ。
「はいはい、わかってます――」
聞こえた空耳に返事をしながら、後ろを振り返ったところで、そこに誰もいないことに気がついた。テーブルには人数分以上に出してしまった器が並んでいる。一人二個ずつだから、四個でいいのに、テーブルに出した器は六個。
(そっか、もうレグナルド様の分はいらないのよね)
わかっていても、リアンヌはテーブルにいない黒猫の姿を探すように、調理場を見渡した。
(ひとりって、こんなに静かだった?)
使い慣れていない調理場には、まだなんの思い出も染みついていない。レグナルドと過ごした時間は、全部リアンヌが燃やしてしまった。
こつこつと集めた薬草が入った瓶も、市場で買ってきたきらきらしたものの、補修しては使っていた籠も、何一つ残さなかった。
妖精が使っていたものには、魔力が宿るからだ。一つでも残せば、もし人の手に渡ったときにどんな災いをもたらすかわからない。だからこそ、力を失ったときは、すべて燃やし尽くすよう教えられていたのだ。
羽根を受け継ぐ者としての役目から解放されたら、自分はもっと自由を感じることができるのではと思っていたけれど。
(なんだか、前よりもずっと窮屈に思えてくる)
こんなとき、レグナルドがいてくれたらどんな言葉をくれただろう。
「レグナルド様」
もうリアンヌには妖精の声を聞くことも、その姿を見ることもできない。
「レグナルド様……、返事をして」
プリンが大好きだった人は、闇と共に消えてしまった。人間が大嫌いだったくせに、最後はその人間を守るために命を使ってくれた。
(――あ……)
気がついたときには、淡い黄色の液体に雫が一粒落ちた。
滑らかな水面に波紋が広がる。一粒、また一粒と零れる涙を、リアンヌは慌てて手のひらで拭った。
「ふ……っ、……く……ぅ」
馬鹿だ。今頃になってようやくレグナルドがいないことを実感するなんて。
もうどれだけ名前を呼んでも、黒い小さな猫が姿を見せることはない。揺れる水面に映るのはリアンヌだけ。消えた右肩の重みも、頬に触れる柔らかな毛並みも、二度と感じることはできない。
(ラーシュがいないときでよかった)
こんなふうに泣いている姿を見たなら、彼のことだ。望んで彼の側にいると決めたと言っても、きっと魔女の森からリアンヌを連れ出したことを悔やむだろう。
失った存在の大きさに涙をこぼしていると、ふと視界の端にきらりと光るものが映った。
(また?)
リアンヌは手で涙を拭い、窓を開ける。
庭の隅にはこんもりと盛られたたくさんの木の実と、薬草があった。
魔女の森なら見慣れたものだが、木々の緑より岩肌のくすんだ灰色のほうが多いこの地では、自生していないものばかりだ。
それらは、時々こうして庭に出現する。
最初はラーシュレイフが魔女の森に取りに行ってくれたのだと思った。どれほどの辺境地であろうと、グラテナに乗ればどこへでも一足飛びだからだ。
はじめてリアンヌがそれら見つけた日、領土の視察を終えて戻ってきたラーシュレイフにお礼を言ったのだが、彼は自分ではないと言った。
「それに、取ってきたならちゃんとあなたに渡すよ」
もっともな理由に、リアンヌは首をひねる。
ラーシュレイフでないなら、誰なのか。
届けられるものは、リアンヌに害をなすものではない。むしろ、懐かしさを感じさせるものばかりだ。
甘酸っぱい果肉の木の実は乾燥させてもいいし、生で食べても美味しい。硬い殻に覆われたものは割るのには少しコツがいる。
まだみずみずしさを保つ薬草は、取って間もないことを伝えてきた。一枚を手に取り、匂いを嗅いだ。
(いい香り)
香りがくれる安堵は、つかの間魔女の森の気配を蘇らせてくれる。
ラーシュレイフと生きることに後悔はしていないが、住み慣れた場所を恋しく思うのはどうしようもない。まるで、これらは「森を忘れないで」と語りかけているようだ。
あの頃の自分は森での生活になんの愛着もなかったくせに、そんな暮らしに懐かしさを覚えるのだから、人の心も案外いい加減だ。
また薬師として働きたい衝動がむくむくと湧き上がってくる。けれど、リアンヌはもう伯爵夫人だ。
ラーシュレイフが何も変えなくていいと言っているが、彼が王族の一人であることには変わりはない。せめて彼が恥ずかしい思いをしない程度の教養は身につけておきたくて一日の半分を勉強に充てる今は、薬をつくる余裕などなかった。
多種多様な木の実や薬草に共通することは、どれもリアンヌの好きなものばかりだ。
(まさか妖精?)
可能性としては考えられなくはないが、リアンヌは彼らにとても嫌われていた。そんな彼らがわざわざリアンヌの好物を選んで持ってきてくれるとは思えない。
とはいえ、ラーシュレイフが大丈夫だと言うならと、あえて気にしないようにしていたのだが、やはり、こうも続けば送り主の正体を知りたくなる。
何よりもらいっぱなしというのも、気が引けた。
悩んだ末、リアンヌは領土で採れる鉱石を使ったブレスレットを作った。妖精でなくなっても、綺麗なものは変わらず好きだ。
籠に収めたそれを、木の実が盛られてあった場所に置いた。
気づいてくれるだろうか?
こんな切り立った山裾にある屋敷の庭に、誰にも見つからず森の恵みを置いていける人物とは誰なのだろう。
気になり出したら、確かめずにはいられない。
だから、待つことにしたのだ。
木の実が置かれる場所は、決まって庭先だ。ならば、庭を一望できる場所から送り主が現れるのを待てばいい。
「リアンヌ、何をしているんだ?」
庭が見える二階の窓に椅子を寄せて、熱い視線を注ぐリアンヌに、外出からラーシュレイフが戸惑いの声をかけるも、肩越しに振り返って口元に人差し指を当てた。
「大きな声を出したら見つかっちゃうわ」
「何に?」
「送り主よ」
声を潜めながら、リアンヌが庭先を指さす。
「来てるのか?」
「まだよ。でもきっと来るから」
断言すれば、「それはそれは……」と呟き、ラーシュレイフがつかの間、沈黙した。
「そろそろ、誰が犯人か言おうか?」
「そんなことしたら、私の楽しみが減っちゃうでしょ」
「いや、でも――」
来るまでそうしているのか、と言う恐れを含んだ声はこのさい聞かなかったことにする。
「私のことはいいから、あなたは湖畔に居着いた水竜を説得しに行ってちょうだい。村の人が湖で漁ができなくなったと困っているんでしょう」
「それはそうだが」
早く行けと言うように、手をひらひらと振った。もちろん、その間も視線は窓の外から外さない。
「リアンヌ、俺に冷たくない?」
「――そんなこと、ないわ」
何でもないふりをしたつもりなのに、少しだけ声音に険が籠もってしまった。
ラーシュレイフが毎日、忙しくしている。愛国心はないとは言うものの、彼が領地を纏めなければ苦しむ民たちがいるのだ。あの一件以来、ラーシュレイフの雰囲気は少しだけ変わった。これまでにはない落ち着きが備わるようになると、口調も心なしか重厚なものになった。
ますます王族らしくなったラーシュレイフは、少しだけレグナルドに似てきている。
それを誇らしいと思う気持ちもあるのに、森で暮らしていたときよりも一緒にいられないことが寂しかった。
(こんなの八つ当たりじゃない)
ラーシュレイフは遊んでいるわけではないと知っているからこそ、文句を言ってはいけないのに――。
ため息をついたラーシュレイフの足音が近づいて来たと思った直後。ひょいと横抱きに抱き上げられた。
「な――っ、何?」
「何って、仲直りだが」
「私たち、喧嘩なんてしてないわよっ?」
「でも、俺の愛しい人は臍を曲げていらっしゃる。あなたが喜ぶから伯爵の仕事もするけれど、リアンヌが笑えなくなったのなら、伯爵位などいらないな」
「ま、待って! そんなことをしたらリミトス様がまた大慌てでやって来るわ」
「かまわない。俺にとってリアンヌが幸せか否かがすべてで、それ以外はどうでもいいんだ」
断言され、拗ねていた恋心も一気に縮み上がった。
冗談じゃない。ラーシュレイフなら本気で伯爵位を捨てると知っているからこそ、全力で止めなければ。
覚悟を決めて、ラーシュレイフを上目遣いで見た。
「捨てなくてもいいから……、も……もっと、私をかまって……」
そう囁いて、ラーシュレイフの唇にそっと口づける。
すると、みるみる空色の瞳に欲情の光が広がった。
「あなたが望むなら、いくらでも」
リアンヌは心の中で水竜への被害に悩む村人たちに詫びつつ、ラーシュレイフに身を委ねることにした。
――結局、送り主が誰だったのか、わからずじまいになっちゃったじゃない。
今朝、起きてみれば籠に入れたブレスレットはなくなっていて、代わりにたくさんの木の実が入っていた。
「はぁ」
ため息をひとつ吐いて、卵をもらいに厩舎へ行く。
「おはよう、みんな。卵とミルクをもらっていい?」
わらの中には産みたての卵が二個あった。
何気なくグラテナを見たときだ。
その角に、光るものを見つけた。
「――え……?」
七色に光るそれは、木の実のお礼にと作ったブレスレット。
「グラテナ。あなただったの?」
驚くリアンヌの声に、グラテナが片目を開ける。すると、その目の中に、ラーシュレイフの姿が見えた。
くすくすと楽しげに笑うラーシュレイフが立っている。
「どうする、グラテナ。ついにばれてしまったぞ」
グラテナに近づき、大きな顔を撫でた。グラテナが甘えたように喉を鳴らしている。
「ラーシュはグラテナが贈り主だっていつから気づいてたの?」
「最初からだよ。リアンヌの好物を知っているものがこの世にどれだけいると思うの?」
「言われてみれば……」
レグナルドが消えた今、次にリアンヌとの時間が長いのはグラテナだ。
「でも、どうやってグラテナが木の実や薬草を摘むの?」
彼の四肢は立派な鉤爪で、とてもではないが繊細な作業ができるようには見えない。
じっと窺うようにグラテナを見つめる。
「……もしかして、獣たち?」
すると、グラテナは正解だと言わんばかりにひと鳴きした。
「妖精王は、あなたをひとり残して逝くのが心配だったのだろう。グラテナによくよく言い置いていったんじゃないか。リアンヌを守れと。獣が彼を怖がらないのも、妖精王の仕業なのかも」
「レグナルド様が?」
でも、どうしてそんなことを彼がするのだろう?
「ねぇ、リアンヌ。もう一度、薬師をやってみないか? あなたが俺を思って努力してくれるのは嬉しいけれど、でも俺は、リアンヌがリアンヌらしくあってほしいと思っている。魔力を失っても、あなたが培った知識までは失われていない。使命から解放されて、やっと今からあなたは自分の人生を生き始めるあなたを応援したい」
「私の人生?」
問い返し、グラテナを見遣った。
赤い大きな目がじっとリアンヌを見つめていた。
「……私、そんなにつまらなそうにしてた?」
「俺に嫉妬してくれるくらいにね。あなたは人と繋がっているのが好きなんだと思う。木の実をもらって、嬉しかっただろう?」
「……うん」
心を見透かされて、リアンヌは頷いた。
「好きなことをしてごらん。伯爵夫人の勉強はその後でも十分間に合う」
薬師をするのも、森で怪我人を助けるのも、すべては羽根を受け継ぐ者の義務だと思っていたけれど、それこそリアンヌの思い込みだったのだろう。
木箱には薬へのお礼の手紙が入っていることもあった。それを見つけたときは、妖精に意地悪をされても気にならないくらい嬉しかった。
そうか。私は人とかかわるのが好きだったんだ。
ヴァリダ王の魂を持ったラーシュレイフが現れたときから、結末を考えていたのかもしれない。そのとき、リアンヌが困らなくてすむよう、グラテナに力を与えたのだろう。
(――私のこと、考えてくださっていたんですね)
いなくなってから、レグナルドの愛を感じることができたなんて、どんな皮肉だろう。
まったくレグナルドの愛情表現はとことんわかりにくい。
――私のプリンは二個にしろ。
空耳にくすりと笑うと「どうかした?」とラーシュレイフが優しく微笑んだ。
「ううん。それはそうと、グラテナのもとの姿はなんだったのかしらね」
『「なんだ、本当にわからぬか?」』
「え?」
一瞬、ラーシュレイフの瞳が金色に輝いたように見えた。