甘え上手な狼
サフィーヤと想いを重ねてから約二ヶ月。
ようやく手に入れた彼女との日々は、予想以上の幸福をリカルドにもたらしていた。
しかし幸福だからこそ、新しい葛藤が生まれることもある。
(……サフィーヤと、ボール遊びがしてぇ……)
脳裏をよぎったのは、マフィアの首領らしからぬ可愛らしい願望である。
リカルドをサフィーヤに縛り付け、子犬のように躾けてしまう腕輪は二ヶ月前の事件を機に完全に沈黙している。
だが腕輪の力がなくなっても、リカルドの中にある可愛らしい願望は消えたわけではないのだ。
冷酷非道なマフィアと言われているが、彼は恋人には甘えたい男なのである。
元々狼の獣人は、そうした傾向が強い。
好きになったら一直線で、普段は見せない獣の姿もあえて晒し、撫でられたり甘えられたりするのを好むのだ。
そういう狼獣人の性質が、リカルドは人より強いらしい。
その結果、強面の顔に似合わず、常にサフィーヤに甘えたいと思ってしまうのだ。
とはいえ自分の柄ではないと、多少の我慢はしていた。
ただでさえ、よしよしをねだりすぎている自覚はある。
だからそのほかのことは我慢しようと思っていたのだが、昨日見つけたある物のせいで彼の我慢は限界を迎えようとしていた。
(ああくそ、なんであんなもん隠してたんだ俺は……)
数日前、書斎で見つけたのは獣人の子供が好む大量のおもちゃであった。ボールやぬいぐるみ、骨の形をした縄などその種類は多岐に渡る。
重要な書類を入れた隠し金庫の一つから出てきたそれを見て、もちろんリカルドはぎょっとした。
なぜこんな場所にと狼狽したが、金庫の鍵を持つのはリカルドだけだ。
となると、まだ腕輪の力がリカルドを支配していた頃に無意識に買い集めていたに違いない。
はっきりとした記憶はないが、サフィーヤと一緒に遊ぶためにとどこかの店で買ったような気もする。もちろん腕輪がそうさせたのだ。
消し去りたい過去に頭を抱えながら、リカルドはすぐさまおもちゃを処分しようとした。
いくら甘えるのが好きだとはいえ、リカルドは大人だ。
恋人に縋り「ボールを投げてくれ」なんて、さすがに言えない。言ったら人として終わる気がした。
だからすぐに捨てようとしたのに、どういうわけかおもちゃを手にしているタイミングでもっとも会いたくない部下たちに出くわす。
組織の幹部でありながら、リカルドをからかうことに熱意を燃やしているシャオとスカルズだ。
あの二人にだけは、おもちゃを買ってしまったことを知られたくない。慌てて処分しようとしていることも知られてはならない。
そう思ったリカルドは約二週間かけて、少しずつおもちゃを処分していた。
そうしてようやく最後の一つまできたのだが、ここに来てまた別の葛藤が生まれてしまったのである。
(……これくらいなら、ねだっても引かれねぇかな)
書類仕事を放り出し、書斎でこっそりボールを取り出しながらリカルドは大きなため息をつく。
狼の獣人は獲物を追うことに喜びを見い出す習性がある。それが転じて、何かを追うことが大好きなのだ。
だからボールの誘惑は抗いがたい。その上投げる相手が自分の恋人だと思うだけで、身体がうずうずしてしまう。
(いや、だがさすがにボールは……ボールは……)
よしよしくらいで止めておかなければ、もっと情けないおねだりを繰り返してしまう気がする。
そこにまだ抵抗を感じるくらいの常識は、リカルドにも残っている。
やはりこの気持ちは我慢しようと決め、彼はスーツのポケットにボールをしまった。
今日こそはこれを処分しよう。サフィーヤとの食事を終えたら、こっそりゴミ捨て場まで持っていこうとリカルドは決意する。
しかしその決意は、意外なところから突き崩されることになるのであった。
◇◇◇ ◇◇◇
「リカルド……。最近私に、何か隠していませんか?」
不意に尋ねられ、サフィーヤと食事中だったリカルドは間抜けな顔で固まった。
ボールを捨てようと決意してから、約三時間後のことである。
「な、なんだよ藪から棒に……」
「このところずっと上の空だし、私に何か言いかけてやめることがあるじゃないですか」
拗ねたような声に、リカルドは慌てて手にしていたフォークを置く。
「気のせいだ」
「気のせいじゃないです。シャオさんやスカルズさんも、あれは絶対隠し事をしてるって言っていました」
恋人の口から飛び出した部下の名に、リカルドは忌々しそうに顔をしかめる。
余計なことを言いやがってとこぼせば、そこでサフィーヤが悲しそうにうつむく。
「お仕事のこととか、秘密にしなきゃいけないことならいいんです。でも私に言いたいことがあるなら、我慢しないで欲しいです」
そういう顔が、ここに来たばかりの頃のサフィーヤに重なる。
自分は不必要な存在だと思い込み、リカルドに嫌われていると信じ切っていたときと同じ顔だ。
(まずい、これは絶対誤解されてる)
そう気づき、リカルドは慌ててサフィーヤに近づいた。
すると今なお細い手が、スーツの袖をぎゅっと握る。
「もしかして、私のこと好きじゃなくなりました?」
「そんなわけないだろ!」
「でも最近、私の顔を見るとため息をつくし、何か言いづらそうにしているし……」
「嫌いになるわけねぇだろ! その逆だ逆! 好きな気持ちが膨らみすぎて、馬鹿なことを考えちまってるだけなんだ!」
言葉にするのは情けないが、サフィーヤが傷ついた顔をするのは見ていられない。だから彼女を抱き寄せ、リカルドはその額に口づける。
「誤解させて悪い。でも絶対に、嫌いになるなんてありえねえから」
「じゃあなんで、あんな気まずそうな顔を?」
「それは……その……」
ここでまた歯切れが悪くなる自分に情けなさを覚えつつ、リカルドは三時間前の覚悟をあえてなかったことにしようと決めた。
嘘をついてサフィーヤを傷つけるくらいなら、自分の滑稽さを晒したほうがマシだった。
「……お前に、してほしいことがあったんだ」
そしてポケットから、捨てるはずだったボールを取り出す。
「あの、これは……」
「ボールだ。タチアナで流行ってる球技で使う……」
「それで、このボールをどうすればいいんですか?」
「な、投げて……欲しい」
「そんなことでいいんですか?」
「そんなことが、むちゃくちゃ嬉しいんだ」
真っ赤になりながら告白すると、サフィーヤはようやくピンときたようだ。
カーゴに来る前は動物の世話をしていた彼女だから、自ずとリカルドの望みを察したのだろう。
「わかりました、ご飯を食べたら裏庭に行きましょうか」
「……いや、部屋でこっそりやろう。他の奴らに見られるのはさすがに……」
「でも思いっきり走れないかもしれませんよ?」
「それでもいい。お前となら、ボールを軽く転がし合うだけでも幸せになれる自信がある」
力強く言い切ると、サフィーヤは「じゃあ遊びましょう」とにこやかに賛同してくれた。
◇◇◇ ◇◇◇
結論から言うと、サフィーヤとのボール遊びは想像以上の楽しさだった。
アパルトメントの中でも一番広いサロンを使い、リカルドは思う存分彼女の投げたボールを追いかけた。
勢い余って飾られていた絵画や調度品を床に落としたりもしたけれど、それさえなんだか楽しくて、年甲斐もなくはしゃいでしまったリカルドである。
そしてサフィーヤも、始終楽しそうに笑っていた。
獣の姿になったときは「私が見てもいいんですか」とためらっていたけれど、愛おしい相手の前では逆に見せたいのだと告白するととても喜んでくれた。
そしてひとしきり遊んで、笑って、よしよしもして、二人は幸せな気持ちで部屋に戻る。
はしゃぎ疲れたのかサフィーヤは眠そうで、リカルドは彼女を着替えさせてベッドに寝かせた。
本当は別の戯れもしたかったが、寝息を立て始めたサフィーヤを見つめ、リカルドもまた今日は休もうと決める。
「ん?」
しかし横になると、どうも枕の高さがおかしい。
妙にゴツゴツしているのが気になって枕を取り上げたところで、リカルドは息を呑む。
(なんでこれがここにある!!)
枕の下から出てきたのは、ここ二週間ほどかけて秘密裏に処理してきたおもちゃである。
そしてそこには『甘え上手なドンへ』と書かれたメモが貼り付けられていた。
無骨な文字はスカルズのものに違いなく、おもちゃを取り上げればほんのりとだがシャオの香りがする。
どうやらあの二人には、リカルドの行動も葛藤もお見通しだったらしい。
(あいつら……!!)
サフィーナが来てからというもの、何かにつけてあの二人はリカルドをからかってくるのだ。昔は従順だったのにと呆れるたび、「だって昔はからかうほど面白みがなくて」と平気でのたまう二人である。
さすがにこれは許せないと思いベッドを飛び出そうとしたが、そこで寝ぼけたサフィーヤにぎゅっと手を掴まれてしまう。
慌てて振り返ると、彼女は目を閉じたまま小さく唸り、握りしめたリカルドの手を可愛らしく引き寄せた。
「……また……一緒に……遊びたい」
その上愛らしい寝言まで聞いてしまえば、このまま側を離れることなどできはしない。
(……まあ、サフィーヤも喜んでくれるなら、いいか)
おもちゃ遊びを恥ずかしがっていたのも、一番はサフィーヤに引かれるかもしれないという考えがあったからだ。
でも彼女も楽しんでくれていたのなら、遠慮をする必要はない。
部下たちにはからかわれるかもしれないが、サフィーヤと楽しい時間を過ごすほうがずっと大事だと思えた。
「なあ、もっとお前に甘えてもいいか?」
眠るサフィーヤに向けて、リカルドはそっと囁く。
聞こえていないはずなのに、そこで彼女は肯定するようにリカルドにすり寄ってきた。
この優しい少女が許してくれるなら、今後は思う存分甘えようと決める。
遠慮をやめれば際限なく甘えてしまいそうな気もしたが、それもまた可愛いとサフィーヤなら喜んでくれるに違いない。
そんな気持ちでちいさな身体を抱きしめ、リカルドはそっと微笑んだ。
【END】