王配殿下の子育て事情
「あーぱ、あ!」
愛息のルイが、薔薇の咲き乱れる王宮の庭園をよちよちと歩き回っている。
その後ろをついて歩くのは、ブランシュとリリア、それから侍女たちの一団だ。アルマンはルイの側を歩きつつも、片時も息子から目を離さなかった。
「ルイ様はあんよがしっかりなさってますわね」
年かさの侍女の褒め言葉に、ブランシュが嬉しそうに何やら答えるのが聞こえた。
だがアルマンは振り返らない。
よちよち歩きのルイの安全は親の責任で確保する。決して目を離さない。
この子が生まれたときにそう決意した。
決意した以上は、その通りに振る舞う。
それに、ルイが転んで怪我をすると、ブランシュはとても悲しそうな顔をする。もちろんルイは痛がって大泣きだ。アルマンは、二人のそんな涙を見たくないのである。
「本当によく走ること。元気に育ってくれて本当によかったわ」
ブランシュの嬉しそうな声に、ルイを追っていたアルマンも笑顔になる。
アルマンとブランシュの長男、ルイは一歳になった。
つい先日盛大な祝いの式典が行われたばかりだ。国の皆が無事に一歳を迎えたルイを祝福してくれた。
曾祖父のゴッダルフからルイに贈られたのは、巨大な金剛石をいくつも埋め込んだ黄金の錫杖だった。
――一歳児に錫杖は、まだ早いのではないか……。本人も宝石を舐めているだけだし……。
誰もがそう思ったが、ゴッダルフの張り切りようは尋常ではない。
来年には黄金の筆記具を一式作って贈ると言い張っている。『まだ早い』と諫めても聞かない。王になったら使えばいいの一点張りだ。
ゴッダルフは小さなルイが可愛くて仕方ないようだ。数ヶ月に一度はルイのもとを訪れ、ひげもじゃの顔で頬ずりししては、嫌な顔をされて思いきり突き除けられている。
「んぱ……」
ひたすら全力で前進をしていたルイが急に振り向き、尻餅をついてアルマンの方に這ってきた。ルイのズボンはもう芝生の草まみれである。
「ルイ」
アルマンはかがみ込み、這ってきたルイを抱き上げようとした。そのときルイが落ちていた正体不明の何かを手に取る。そしてアルマンをじっと見つめたまま、ゆっくりとそれを口に運んだ。
大きな緑の目には『おとうさん、これをたべていい?』と書いてある。
赤子の基本行動は、掴んだ物は全て食う、だ。
しかし知恵が付いてくると『食べる前にちょっと親の反応を確かめてみようかな』という気持ちが生じるらしい。
今のルイがそれだ。一ヶ月前までは拾ったモノは誰が止める間もなく口に入れていたが、今はアルマンの様子を窺いながらも食おうとしている。
これが成長なのだ……としみじみしつつ、アルマンは無言で息子の手から正体不明の何かを取り上げた。
「食べては駄目だよ」
アルマンに叱られたルイが再びジーッと目を見つめてくる。
何かを学習したのだろう。ルイがニコッと笑って立ち上がり、屈んでいるアルマンに抱きついてきた。
「あうう、あっぱうぅ……!」
抱き上げようとした刹那、ルイがアルマンを離れて再び危なっかしい足取りで走り始める。そしてまた何かを拾い、ちらりとアルマンを振り返った。この一瞬しか機会はない。今しかルイを止められないのだ。
「駄目だ、父様に渡しなさい」
アルマンは言いながらルイを追いかけ、口に入れる直前にその物体も取り上げる。
「ばー!」
抗議されたが、断じて許可するわけにはいかない。
「拾ったものを食べてはいけないよ」
この台詞……何百回目だろうか。だが、同じことを繰り返し教え諭すのが親の使命なのだ。
人間の赤ん坊は何も知らないし、何も出来ない。何度も何度も教えて初めて、親が「駄目」ということはしない方が良い、と理解する日が来るのだろう。
「たーたー」
ルイが笑顔で手を伸ばし抱っこをせがんだ。アルマンも笑顔でルイを抱き上げる。
『たーたー』という単語は、どうやらアルマンを指すらしい。それに気付いたときは嬉しかった。
――ルイはずっとブランシュ様にべったりで、『まんま』としか喋らなくて、俺のことは遊んでくれるでかい人間としか思っていなさそうだったのに。そうか、『たーたー』か……。
アルマンの口元は緩みっぱなしだ。
子供の成長が面白くて仕方がない。
一年前はふにゃふにゃで両掌に載るほどだったのに、今は自分で歩いているルイが可愛い。
最近は執務で離ればなれの間も、心のどこかでブランシュとともにルイのことを考えている。
これまでは、ブランシュしか住んでいなかったアルマンの世界に、住人が増えた。
ルイ、児童病院の子供達、大学の研究室の仲間、頻繁に王宮を訪れてはルイを抱きあげて幸せそうに笑う父。ルイの面倒を見てくれる新しい侍女たちやリリアもそうだ。
住民が多すぎる気がするが、まあ、悪くはない。
少なくとも昔と今では、今の方がいいと断言できる。自分のことも昔ほどには嫌いではない。
そう思いつつ、アルマンはようやくルイから取り上げた『何か』を確認した。
――虫の死骸……!
鬼の形相で芝生に投げ捨て、ルイがまた拾わないように踏み潰す。
のんびりとやってきたブランシュが、アルマンに抱かれたルイを見て嬉しそうに微笑んだ。
「良かったわね、ルイ。お父様に抱っこしてもらって」
我が子にしか見せない優しい優しい笑顔だ。
自分にさえ見せてくれなかった極上の笑顔。
初めて見たときは、これまで一度も見せてくれなかった理由を真剣に考え、悩みすぎて天井を見つめて放心してしまった。ブランシュに訳を聞かれて、笑われたものだ。
『きっと出産しないと出来ない表情なの。母親になって新しい能力が色々と増えたのだと思うわ。だからアルマンにわざと見せなかったわけじゃないのよ』
アルマンはその説明に深く得心し、大きな変化を経て、人間には新たな能力が芽生えることを知った。
「ねえアルマン、そろそろお散歩を終わりにして、ルイをお風呂に入れたいの」
ブランシュが明るい声で言う。アルマンは愛妻の言葉に頷き、腕の中の宝物に言い聞かせた。
「ルイ、寒くなってきたから中に入ろう」
アルマンは下ろせ下ろせとジタバタ暴れるルイを抱いたまま、扉の一つから城内に入った。
「たーたー!」
まだ庭にいよう、と訴えかけてくるのが分かる。足をばたつかせながら必死の形相だ。数年後にはどんなやんちゃ坊主に育つのだろうか。
「もうお外は終わりだよ。夕方になるから、君はお風呂の時間だ」
言い聞かせるとルイがムッとした顔になった。ルイは『お風呂』が嫌いなのだ。表情の豊かさにアルマンは思わず破顔した。
「そんな顔をしても駄目、君はお風呂に入って、ご飯を食べて、ねんねする。いいね」
言いながら、服に草が付いていないかと、すぐ脇の壁に掛かった鏡を覗き込んだ。
最近までここに鏡はなかったが、ルイが外遊びをするようになったので、誰かが置いてくれたらしい。
アルマンは鏡に映った自分の表情を見て、驚きに目を見開く。
自分の笑顔が、ブランシュが見せる『出産しないと出来ない』と教えてくれた笑顔にそっくりだったからだ。
あまりに驚いて、ルイを抱いたまま鏡の前に立ち尽くす。
自分がこんな顔で笑う日が来るとは思っていなかった。
――そう言えば最近は、笑顔で鏡を見る余裕などなかったな。
もちろんルイを抱いて鏡の前に立つことは何度もあるが、都度アルマンは必死の形相だ。
ルイと共に鏡の前に立つのは大概、身体が温まったルイが元気に暴れる風呂上がりか、嫌がって噛みつかれる歯磨きのときだからだ。
もちろん乳母や侍女任せでもいいのだが、親がいるときは親が子の世話をする方が良いと大学の児童心理学者に聞いたので、愚直に実践しているのである。
それもこれもルイを良い人間に育てる為だ。
一歳児の世話をしている間、アルマンに笑う余裕は全くない。
「アルマン」
後を追ってきたブランシュに声を掛けられ、アルマンはルイを抱いたまま振り返る。
「ブランシュ様、俺も最近父親らしい顔をするようになったと思いませんか」
思わず尋ねると、ブランシュが目を丸くして、続いてころころと笑った。
「どうしたの、アルマンったらまたおかしなことを言って。最近じゃないわ、貴方はルイが生まれたときから立派なお父様よ」
「そう……ですか……笑顔で鏡を見る余裕が久しくなかったので、気付きませんでした……」
アルマンの答えにブランシュが再び笑って、そっと寄り添ってくる。
「貴方らしいわね、もう……面白いことばかり言って」
どうやら今の問いはアルマンらしい問い……らしい。当惑しつつアルマンは尋ねた。
「そうでしょうか? どの辺りがでしょうか?」
真剣に尋ねると、ブランシュが細い腕を伸ばして、アルマンの頬を指先で押した。
「全部よ、全部。貴方もルイも本当に可愛いわ」
――俺が可愛い……?
やや納得がいかないものの、アルマンは素直に頷いた。
なぜならば、上機嫌なブランシュの声音には、自分とルイに向けた無尽蔵の愛が溢れていたからだ。