諦観の皇帝は密偵宮女を寵愛する
- 著者:
- 最賀すみれ
- イラスト:
- 墨
- 発売日:
- 2024年01月09日
- 定価:
- 825円(10%税込)
何かを強く欲することなどなかったのに
帝位簒奪を目論む一族の璃々は、密偵として後宮入りし、悪政を敷く現帝・獅苑と対面を果たす。だが彼は皇太后に陥れられ後宮に追いやられたお飾りの皇帝であった。民を想い、外の話を楽しそうに聞く姿はまるで賢帝そのもの。彼に一族の刃を向けまいと、璃々は説得のため帰郷を決める。そのとき、「璃々を手放せない」――そう獅苑が苦渋の囁きを漏らす。強く抱きしめられての口づけに璃々の理性は抑え込まれ、そして獅苑の瞳には、ある決意が宿り……?
希望を捨てていた皇帝×健気な宮女、後宮に戦火が迫る時、真の望みが希望を生む。
璃々(りり)
下女として後宮入りしたはずが、持ち前の好奇心が仇となりなぜか皇帝付きになってしまったスパイの少女。
獅苑(しえん)
実権を握る皇太后の目を盗み、貧困地域へ支援をしている。その傍らに、なにか別の思惑もあるようで……?
「璃々のおかげだ。いいきっかけを作ってくれた。ありがとう」
「そんな……」
大切なものを見る目でじっと見つめられ、璃々の頬が赤く色づく。ドギマギする璃々の頬を片手で包み、親指で愛おしげになでた後で、獅苑は額に口づけてきた。
「おまえはいつも、私に救いをもたらしてくれる」
(いえ! 機を逃さずものにする獅苑様の手腕があればこそです……!)
そう訴えたいのだが、感動で声が出ない。それに顔が熱い。リンゴのように熟れているのがわかる。カチンコチンに固まった璃々の肩に腕をまわし、自分に引き寄せると、獅苑は窓の外を見やった。
ガラガラと馬車の車輪の音と振動、そして優しい体温を感じながら、璃々は獅苑にもたれかかって目を閉じる。ふわりと、いつもの蘭麝の香りが漂ってくる。
(幸せ……)
一瞬ごとに気持ちが募る。この上なく、完全に好きだと思っていても、次の瞬間にはさらなる好きがあると気づかされる。
獅苑はもちろん、璃々の想いを知っている。けれど妹というには親密な──絶妙な距離を保ったまま、鷹揚な大人の物腰で、静かな笑みを浮かべて、璃々の気持ちのすべてを受け流してしまう。
確かにここにある気持ちを見ないふりで、優しい関係だけを維持しようとする。
(ずるい……)
おそらく獅苑が思っているよりもずっと、璃々は彼のことが好きだ。何とかしてそれを思い知らせる方法はないものか。ないもののように扱われている気持ちを、少しでも彼にわかってもらいたい──
その時、璃々はふと気がついた。獅苑のくちびるがすぐ近くにある。
(────……)
ごくりと息を吞んだ。心臓が大きく強く跳ねまわる。
「獅苑様──」
上ずった声での呼びかけに彼が振り向いた瞬間、璃々はぎゅっと目をつぶって、自分のくちびるをそこに押し当てた。
温かくて柔らかい感触に、壊れそうなほど鼓動が忙しなく騒ぐ。
ほんの数秒──幸せすぎて意識が飛んだ。
くちびるが重なるのは、それほどに特別な体験だった。
ゆっくりと顔を離すと、獅苑はぽかんとしている。
「……獅苑様がびっくりされている顔、初めて見ました」
その声で我に返ったのか、次の瞬間、獅苑は強い力で璃々の肩を押し戻してきた。
「二度としてはいけない」
厳しい顔で見据えてくる。今度は璃々が驚く番だった。
「え……っ」
「いいね? 約束するんだ」
直前までとは打って変わった怖ろしい眼差しに射すくめられ、璃々は思わずうなずく。
すると獅苑は璃々の肩を抱いていた腕を放し、自分の胸の前で腕組みをした。そして窓のほうを向いてしまう。顔の角度が先ほどとは違う。そっぽを向かれたのだ。
「────……」
璃々はくちびるを引き結んだ。
(どうして……?)
厳しい視線を思い出すだけで泣きそうになる。でも涙をこらえた。ここで子供のように泣きたくはなかった。
自分だっていつも勝手に璃々の頭をなでたり、肩を組んできたり、抱き寄せたりする。それなのに璃々はやり返してはいけないのか。そんなに怒らなくてもいいだろうに。
(ひどい──ひどい……!)
納得のいかない璃々は、獅苑と同じように腕を組み、身体を反対側の窓に向けた。そのまま馬車が陽慶殿に着いても背を向け続ける。
「璃々、とりあえず降りなさい」
先に降りた獅苑が声をかけてきても無視をする。と、迎えに出てきたらしい賽のあきれた声が聞こえてくる。
「またケンカですか」
「具合が悪いんだ。それなのに怒らせてしまった」
ため息をつくと、獅苑はふたたび馬車に乗ってきた。そして腕を組んで壁を向く璃々をひょいと抱き上げる。
「このまま夜まで馬車の中に置いておくわけにはいかないからね」
「さわらないでください!」
「こら、暴れないで。おとなしくしないと賽に運んでもらうよ?」
「絶対いや!」
「ご冗談を」
璃々と賽の声が重なる。
結局璃々は、ふくれ面のまま部屋まで獅苑に運ばれるはめになった。目的の場所に着くと、寝台の上にそっと下ろされる。まるで大切な宝物のように。
その後、彼は璃々の頭をひとなでして出て行った。
璃々が恋をするのは許さないくせに、自分は璃々に優しくしてくる。ずるい。何てひどい。
「本当にずるい……」
泣けてくる。駆け引きのひとつもできず、子供じみた態度しか取れない自分が情けない。
(もっと大人になれば、獅苑様を篭絡できるのかしら……?)
毛布にくるまって丸くなって数刻。いいかげん空腹が我慢できなくなった頃、誰かが部屋に入ってくる気配がした。卓子(テーブル)の上に盆を置く音がして、美味しそうなゴマ油の香りがかすかにただよってくる。
「食事を持ってきたよ」
案の定、近づいてくるのは獅苑の声だった。ぎしりと音がして寝台が揺れる。腰かけたようだ。肩に手がふれる。
「仲直りしよう、璃々。おまえの顔を見られないのは、私もなかなかつらいから」
璃々は彼に背を向けたまま、もそもそと言った。
「ふざけたように見えたかもしれませんが……、とても勇気を出したんです」
「そう……」
困ったような、頼りない返事。こちらの気持ちをちゃんとわかっているのか、いないのか。璃々は起き上がり、寝台の上に座って彼に向き直る。
「怒らなくてもいいでしょう!?」
「ごめんよ」
そう言いながら、獅苑は何げなく璃々の頭にふれようとした手を直前で止めた。璃々は彼の手をつかみ、自分の頭に置いてなでさせる。
彼はホッとしたように、くちびるに柔らかい笑みを浮かべた。いつものように璃々の頭をなでながら、すまなそうに言う。
「おまえが思っているほど、私は強くないから。──かわいい口づけを受ければ、生きる喜びを感じて心が揺れてしまう」
「え……?」
「だが、そういうものは極力覚えたくないんだ。何もない、平穏で空虚な人生のまま終わりたい。未練など残したくない」
「────……」
静かにこちらを見つめる瞳に胸を衝かれた。ぞっとするほど悲しい眼差しが、雄弁に伝えてくる。
璃々と恋をしたくないわけではない。ただ──避けがたい別れのある身で想いを交わせば、最後の時によりつらくなってしまうから、深い関係にはなりたくない。
希望も喜びもいらない。
いつか来る死だけを見つめて、それまでの時を穏やかにやり過ごしたい。
「獅苑様……」
断固とした決意のこもった眼差しを受け、璃々の頭は少しずつ冷えていった。獅苑は、無責任に恋を楽しめる立場の人ではなかった。その事実を思い出し、独りよがりの想いを胸の奥に封じ込む。
(それなら……わたしは、獅苑様を最後まで支える存在でいたい……)
璃々は、あえてちょっと拗ねた口調で返す。
「…そんな顔をするのは卑怯ですよ。いやって言えないじゃありませんか」
獅苑はいつもの余裕を取り戻して応じた。
「それなら、おまえ以外には見せないようにするよ」
璃々を軽く抱きしめて、うれしそうな微笑みを浮かべる。
さも愛おしげな優しい眼差しで見下ろしておいて、恋をするなと言うなんて。やっぱりずるい。