王太子殿下のつれない子猫
- 著者:
- 市尾彩佳
- イラスト:
- 駒城ミチヲ
- 発売日:
- 2023年05月06日
- 定価:
- 847円(10%税込)
相変わらず柔らかい
私の腕からするする逃げる
国内貴族のみを尊ぶ“血統主義”。そんな思想がはびこる国で、異国の血を引く伯爵令嬢ゾーイは父親の権力ゆえに社交界の中心にいた。本当は皆に見下されていると知りながら……。そんな中、事あるごとに彼女に求愛してくる王太子アーノルド。こんな私と結婚しては初恋相手である彼が不幸になる。そう考え他の男性と婚約を決めた直後、アーノルドは突然ゾーイを攫い監禁。彼女の処女を散らし幾度も快楽を教え込みながら、内なる狂気を吐露し始め――。
血統主義国の王子×異国の血を引く令嬢、子猫はまどろみのうちに捕まって……。
ゾーイ
異国の血際立つ黒髪の令嬢。周囲からの視線をものともしない堂々とした振る舞いをしつつも、内心は自らに差別的。
アーノルド
数々の政治的問題を解決してきた聡明な王子。だがゾーイに構われるためならば子供のような振る舞いも厭わない。
ふわふわふわふわ。
これは夢の続きね?
もう風は感じない。温かくて柔らかなものに身体が受け止められている。
ぐらり、と身体が揺れた。ゾーイの身体を支えている何かが揺れたためだ。
うっすらと目を開けると、王太子が覆い被さってくるところだった。
頬に手を添えられ、唇を親指ですっとなぞられ、ゾーイの身体は震える。
唇がやけに敏感になってもどかしい。どうにかすべく無意識に唇に触れようとしたゾーイの指を、王太子は大きな手のひらでそっと遮った。
「私がいるのに、自分で何とかしようとするなんてズルいな」
え? ズルいかしら……?
戸惑ったものの、美しい顔に浮かんだ慈愛の笑みにぽーっとなって我を失う。その顔がゆっくりと近付いてきて唇と唇が重なると、ゾーイはうっとりと目を閉じた。
ゾーイの唇を、彼は柔らかく温かな唇で啄む。疼きは収まり、甘い感触に唇が蕩けそうになった。
ああ素敵。夢みたい。
いや、真実夢なのだろう。四六時中我が家を守っている者たちが寝室からゾーイが連れ出されるのを止めないわけがないし、室内で王太子と二人きりになるなんてありえない。
キスする前に見えたのは、光沢のある緑のカーテンの下がった天蓋。背中に感じている温かくて柔らかいものは多分ベッド。
そこまで考えたところで、ゾーイは羞恥に見舞われた。
こんな夢を見るなんて、わたし欲求不満だったの?
キスだけならまだしも、ベッドに横になってキスを受けるなんて。
一緒にベッドへ上がった男女が何をするか、ゾーイだって知らないわけじゃない。夫婦が閨ですることは一通り教えられているし、おませな〝友人〟たちが結婚した女性たちからそういった話を聞き出しているのを耳にしたこともある。
今はまだキスをしているだけでも、場所がベッドの上となるとその先があることを期待してしまい胸が高鳴る。
わたし、殿下とこういうことをしたかったのね。
表面上拒んでいても、本音では好きなのだから、親密になりたいという気持ちはある。けれどここまでいやらしい願望があったなんて思わず、恥ずかしくなって顔が火照った。
そんな自分に気付かれたくなかったのに、そううまくはいかなかったらしい。王太子は何かを察してキスをやめ、ゾーイと目を合わせてきた。
「どうかした?」
今思っていたことを話せるわけがない。うろたえて「えっと、その……」と呟いていると、王太子は優しく笑ってゾーイの頭を撫でた。
「これは夢だよ。だから何も考えないで、ゾーイがしたいことをしようよ。何がしたい?」
ああそうだわ。これは夢だった。こんな夢、二度と見られないかもしれない。だったら恥ずかしがって何もしないのはもったいない。
ゾーイは現実から目を逸らし、こんなことを言うのははしたないという倫理観に抗いながら、望みを口にした。
「キス、したい……」
王太子は、よくできましたと言いたげに笑みを深め、再び唇を重ねてくる。啄むだけでなく、舐められたり吸われたり。初めて知る技巧に驚きながらも、何度も与えられるキスに、ゾーイは夢見心地になった。
違うわ。これは本当の夢の中よ。
だからこそこういうことができる。現実であれば、側にいることも許されないのだから。
「もう何も考えなくていい。今この場にいる私のことだけを見るんだ」
いつになく頼もしい彼に心奪われ、ゾーイは我知らず頷く。
これは本当に夢なの?
時折そんな疑問が頭に浮かぶけれど、すぐに頭にかかった靄の中へと消えていく。
消えてもなおまた思い浮かぶのは、この夢がやたらとリアルだからだ。
彼に乞われて開いた唇に差し込まれた舌の熱さと巧みさ。
耳朶を舐め食む唇から漏れ聞こえる淫靡な水音。
頭を撫で、頬を撫で、首筋を撫でて、ささやかな胸の膨らみを包み込んだ手のひらから感じる気持ち良さと畏怖の念。
結婚した男女が子を成すためには必要なことだけれど、人前で話すのははしたないということは知っていた。
でも、夢の中だからだろうか。夫ではない人に触れられているという背徳感はあれど、はしたないとはちっとも思わなかった。未知の体験への怖れはあるものの、むしろ神聖で尊い行いのように感じた。
こんな夢を見ることは、もしかすると二度とないかもしれない。
だったら後悔しないように、自分を偽るのをやめよう。
ゾーイは心を決めると、胸の膨らみに手を置き耳の後ろに舌を這わせる王太子の背中に腕を回した。
王太子は弾かれたようにゾーイから顔を離す。ゾーイの顔を覗き込む彼の表情は驚愕に染まっている。何でもそつなくこなし、人を驚かせることはあっても自身は驚かなかった彼の、貴重な一面だ。
夢だけど、いいものが見られたわ。
ふふっと小さく笑い声を漏らし、ゾーイは目を細めて告げた。現実では決して許されない、でもずっとずっと言いたかったことを。
「殿下。わたし本当は殿下のことが大好きなんです。──愛しています」
王太子は見開いていた目を更に大きく開き、それからくしゃっと泣きそうに顔を歪めた。
「私もだよ。ゾーイ、大好きだ。愛してる──」
彼の顔が下りてきて、唇がまた重なった。
首に何かが巻き付くのを感じて、ふっと意識が戻る。
わたし、眠っちゃってたの? 夢の中で?
アーノルドの唇がぴったりとゾーイの口を塞ぎ、口の中を彼の舌がなぞるように動く。
驚いて身体を強張らせたけれど、気持ち良くてさほど経たずに身体はほぐれていった。
こういうキスがあることは令嬢たちの卑猥な内緒話で知っていたけれど、まさか自分がそれをされることになるとは。とはいえこれは夢。もしかすると、無意識に興味があったのかも。思いも寄らなかった気持ち良さに、ゾーイはしばし酔いしれる。
そのキスの最中、王太子の指がゾーイの首に巻き付けられた何かの縁をなぞっていた。
首に何か着けていた覚えはない。ゾーイはキスの合間に、霞がかった意識の中から問いかける。
「首に、何か……」
「チョーカーだよ。君への贈り物。──うん、似合ってる」
王太子は身体を起こして離れたところからゾーイを眺め、満足そうに頷く。ゾーイは両腕で胸を隠し、恥じらいと嬉しさに頬を赤らめた。
また意識が飛んだようだ。
「ああ……ゾーイ、好きだ。愛してる……」
繰り返される甘い言葉とともに、ゾーイは彼の手と口で全身至る所を愛されている。
恥ずかしくて、でも気持ち良くて幸せで。
現実よりは曖昧で、夢よりは鮮明で。
「あっ……殿下、わたし……」
「『アーノルド』」
「え?」
「君に『殿下』なんて呼ばれるのは、もう嫌だよ。『アーノルド』って呼んで?」
少し甘えたような、淋しげな声音。ゾーイは胸を締め付けられるような思いがした。
自分だって、名前で呼びたい。でも、と躊躇ってすぐ思い出す。
そうだ。これは夢だったんだわ。
身分を気にする必要なんてない。だから許される。恋人のように名を呼ぶことを。
「アーノルド……」
彼が──アーノルドが満面の笑みを浮かべた。
「ゾーイ、嬉しい……」
彼は、横たわったゾーイを腕で挟み込むように抱き締めてくる。顔が近付いてきて見えなくなる直前、目尻に滲んだ涙が見えた。
こんなに喜んでもらえるなんて……。
嬉しくて胸がいっぱいになる。
「アーノルド……」
「ゾーイ……」
「アーノルド……」
「なあに? ゾーイ……」
「アーノルドって、前からそう呼びたかったの……」
甘えの色が深まる呼び声。ゾーイは重怠い腕を持ち上げてアーノルドの身体に巻き付ける。はっきりわかるくらい彼の身体が震える。アーノルドはゾーイの顔を覗き込んで、この上なく幸せそうに微笑んだ。
「嬉しさのあまり、天にも昇りそうな気持ちだよ……」
唇が下りてきて、ゾーイは再び口付けされる。今回は最初から深く受け入れることができた。舌を絡め合い、顔の角度を変えつつ何度も、何度も。